2011年12月29日木曜日

今年の結果と来年への抱負?

今年のボカボの結果も出そろいました。ロースクールは東大、阪大、早稲田、中央、明治、立命館などに合格者がたくさん。MBAは東工大、小樽商科大、早稲田など、これも例年以上です。大学受験は慶應SFCのAOなど。そのうちに、「合格者の声」とか「合格答案」などがどさどさっと出てくるでしょう。合格者の皆様、よろしくね。

さて、この頃、twitterで教育のことをつぶやくと、その度ごとに反応が妙に大きい。何でだろうね?たしかに、子供の教育は、これからの日本の将来を決めるという側面があるので、関心が強いのかもしれないけど、それにしても、子供の心配をするより、自分の心配をしたら、とつい思ってしまう。

私は、幸か不幸か子供がいないので、教育に関わっていながら、あまり教育を語ることに熱心になれない。というより、教育という営為はそもそも時間がかかり、非常に非効率なものなので、因果関係が明確に出ない。そのとき良いと思ったことでも、後から「何だかな」と感じることは少なくない。だから「こういう教育がよい」と、口角泡を飛ばして論じる人の気が知れないのだ。「あなた、何を根拠にそんなにの確信的に語るのですか?」って、つい聞き返したくなる。

実際、教育改革なんてだいたい失敗しているじゃないか? 直近の例では「ゆとり教育」。あれが始まった直後、公然と批判する人は少なかったと思う。「生きる力」とか「自分で考える力」だっけ? あれも反対は出来にくいスローガンだったと思う。でも、その結果はどうか?「学力低下が起こる」って、よってたかって非難しまくって、結局元に戻った。当初喧伝されていた「受験勉強批判」の高邁な理想はどこに行ったのかね?それと「教育再生会議」。ノーベル賞学者とか、熱血先生とか、水泳選手だとか、雑多な人々がよってたかって出した結論がお粗末だったのは記憶に新しい。

逆に、熱意を持った教師側が引っ張っていくスタイルの失敗もまた無惨に失敗している。有名な愛知管理教育がどういうものかは、もう30年も前に体験者が赤裸々に語っている。(内藤朝雄「〝熱中高校〟って何だ 愛知東郷高校で何がおこなわれているか」)体罰はし放題。校則は極限まで厳しくする。進学実績を上げるために、志望してもいない大学を受験させる。疑問を持った生徒が生徒会に立候補するのを妨害する。異分子はすぐ退学させる。

最近でも、愛知の某大企業が作った全寮制高校でガチガチの進学管理教育をやって、入学者が半減したとか。あるいは「教育再生会議」の某社長が理事長を務める高校でも、英検の不正事件が引き起こされた。事件後の対応が素晴らしい、なんてうがった意見もあるが、そもそも英検の成績を上げようと教師が不正の手伝いをする、という体質がおかしくはないか。結局、日本の企業家って「自由競争の精神」とか「次世代リーダー育成」とか、いろいろ口当たりの良いスローガンは出すけど、ほとんど日本の中に北朝鮮まがいの空間を作っているだけなのだ。どこが「自由経済」の旗手なのだろうか?。

かといって、生徒側の自主性を尊重しようとする左翼運動家の方法を取っても似たようなことが起こる。原武史は『滝山コミューン1974』の中で、日教組の全国生活指導協議会という団体の教師が、政治的手法で生徒の熱狂を煽り、結果的にどのように抑圧的な教育をしたか、克明に書いている。右でも左でも「理想の教育」を掲げる人間が、実際に教育を行うと、思想統制や洗脳に近いものとなってしまうのは、興味深い。

ここまで「理想の教育」の死屍累々たる様を見たら、外部の者が受け取るべき教訓は一つ。下手に外部から口を出してはいけない、ということではないだろうか? 効果が上がらなくても、進歩が遅々たるものに見えても、所詮人間の欲望や自然とは反する業務を行っているのだから、大目に見なくてはいけない。

もう教育制度の議論は止めたらどうか、と思う。教育の実質は制度なんかで決まるものではない。教師と生徒/学生が顔をつきあわせて、個人対個人の間で思考のやりとりをするという中にしかないのだ。それを現場でやってみる。

ボカボで行っている「教育」があるとしたら、それしかない。「自分はこの問題について、こう考える。あなたはどう考えるか。その根拠はどこにあるか」というやり取りするだけだ。ただし、そのやり取りでは「自分の考えられるギリギリの内容」を伝える。だから、相手からも「自分の考えられるギリギリの内容」が返ってくる。そういう双方向のコミュニケーションが成立すれば「自分の限度まで考え抜く」という姿勢が身につく。それだけで、だいたいはうまく行くのだ。

世の「教育制度改革」がだいたい失敗するのは、その具体的プロセスを無視して、結果を出そうとするからだ。だから英検の合格者数をあげようと不正をしたりする。だが、教育にはプロセスしかない。結果は後からついてくる。というより、結果を無視して熱中しなければ、結果は出ない。でないと、目的が自己の利益に偏り、徹底的に考える姿勢がなくなるからだ。自分の利益すら本当に大切なのか、と検討するのが、正当な理性の働きだ。

伝えられる情報/知識なんて時代とともに変わる。思い違いもあるし、エビデンスが足りなくて解決が出来ないこともしばしば。でも、徹底的に考える姿勢さえ身につけば、間違っても、後でいくらでも修正できる。もうボカボで10年やってきたけど、この方向はずっと変わらない。だから志望校には合格したけど、ボカボでの勉強はずっと続けたいですね、なんて受講者も出てくるのである。

さて、2012年はどういうことになるのか? さまざまな社会予測は飛び交うが、我々のやることは一つ。ステレオタイプの見方にかぶれたり、どっかから内部情報をもらって「得した」と感じたりすることではなく「自分で考えて問題点を発見し、その解決を考えぬく」ことだけ。そういう考えだけが「自分で選んだ、自分の生きるに値する人生」だと思うわけ。そのcreativityとrealityは見る人が見れば必ず分かる....

ちょっとエラそうな調子になりかかっちゃった。まあ、年末だからお許し願いたい。ボカボは来年も同じ姿勢で淡々とやります。だって、今までそれでちゃんと成功してきているんですからね。来年も、Real Schoolでは「小論文セミナー Weekend Gym」「法科大学院 適性試験Advanced」「大学入試 難関・慶應小論文 冬のプチゼミ」などいろいろ講座を準備しています。乞うご期待!

2011年11月26日土曜日

生産財としての読む技術

この頃「文章ブーム」らしい。そのせいだろうか「文章を書く」方の企画は、どんどん通って困るぐらい。私も来年は教育もの、論文術、反論術、など、あれこれ書かねばならないものが山積み。かなり忙しい。でも「文章を読む」方の企画は、いくつも出しているのだが、なかなか通らない。

なぜか? 編集者に言わせると「読解力では売れない」からだ。「自分が読解ができないと思っている人が本を買うわけがないでしょう。書くのなら、別だけど」。…一理ある。読者とは、本を読もうという人なのだから、自分で一応読む力はある、と思っている。そんな人に「読解力を向上させましょう」と言っても、ピンと来ない。読者心理としては、たしかにありそうだ。

でも、現場から言うと、文章を読むテクニックというのは、今の日本に一番必要なものだと思うのだけどね。私の実感では、読解力がない人、理解力がない人が日本には溢れている。インターネットで発信が容易になったのはいいけど、その分、受信の能力に注意を払わなくなった。発信に熱心な人ほど、相手を罵倒したりバカにしたりすることに一生懸命で、相手の言う「良き内容」を活かしていない。そのおかげで、膨大な時間の無駄が生ずる。

議論とは対話である、と私はずっと言ってきた。意見を言うのは、皆がその問題を気にしているからであり、根拠を出すのは、他の人からツッコミが入って応えるからであり、例示するのは理屈だけではイメージしにくい人がいるからである。つねに相手の言いそうなことを予想して、それにあらかじめ対処しておく。それが、問題・解決・根拠という議論の基本構造を形作る。

その意味で言えば、よい議論とは究極の「空気を読む」行為でもある。皆の心の中に出現しそうな、でもまだ言葉にはなっていない何かを取り出して、それを言葉化して、丁寧な検討を加える。だから、良い議論展開ができると、聴衆・読者が「あー、それが聞きたかったんだ」と溜飲を下げる。そういう構造になっている。だから、書く能力と読む能力は一体で切り離せない。

論文の添削をしているとよく分かるのだが、通常の人は10回も添削を受けると、ある程度レベルが上がる。構成の仕方、簡潔な表現の仕方、論理展開と例示の仕方、などを学んで、自分の言いたいことを整理する力がつくからだ。だが、中には10回を超えても、なかなか文章が向上しない人がいる。そういう人は、たいてい課題文が読めていない。思いこみで一方的に意見を言う。だから論理展開も出来なければ、良い例示も出来ない。技術を伝授しても、元々の理解がおかしいので、レベルが上がらないのだ。

大学院で訓練を受けたときも、毎週、本を読まされて、それについてかなりの量のレポートを書くというワンセットの訓練が延々と続いた。書くことは、自分の意見を形成するだけでよいのではない。まず相手の意見を受容して、理解・要約することから始まり、要約するのは自分の見方を確認することであり、その問題点を露わにすることである。このプロセスはすべてつながっていて、螺旋状に向上するしかない。よく読める人はよく書ける人でもある。

ところが、世の中には、議論とは、競争とか闘争のことだと勘違いしている人がいる。自分の主張が勝つか/相手の主張が勝つか、そればかりに集中する。自分の主張に刃向かう者がいると、しゃにむに潰そうとする。この前のエントリでも触れたが、自分に否定的なtweetを監視して、あらゆる手を使って消そうとしたり、ちょっと信じられない行動を取る人が出現してきた。自分の手を離れたら、作品なんてどう言われても仕方ない。そういうリベラルな態度をとれないのは、一種の偏執狂だろうね。

もちろん、私は勝ち負け自体を否定しているのではない。ゲームとはそういうものだ。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。議論もゲームなので、勝ち負けを度外視することはできない。しかし、そういう人はルールを無視しても勝ちに持ち込もうとする。人格攻撃をする、ムカツク・イラツクと自分の感情を露わにする、勝手なレッテルを貼り付け罵倒する、脅して相手を黙らせる、取引を持ちかけて手打ちにする、裏工作をして自分を有利にする、などなど。互いに公平に批判し合う、という関係が成り立たない。

こういう人たちの特徴は、思いこみが激しいこと。自分の中に、ガッチリとしたフィルターがあって、何を見ても聞いても、そのフィルターを通した歪んだ像しか見ない。相手の話を聞かない/理解しようとしないで、自分のイメージにまっしぐら。例が書いてあっても、自分流の意味で染め上げる。だから話がトンチンカンになって「よい対話を楽しむ」ことができない。何を見ても、勝ち負けという政治的原理しか思えないのである。

これを防ぐには「読む技法」を訓練して、相手の言うことをまっすぐ受け止めなければならない。私の立場では、文章は「感動」のための消費財でなくて、人と「交通」するための生産財だ。いくら感動しても、それだけでは自分は豊かにならない。他人を感動させられるような文章を自分でも作り出さねば「豊か」とは言えない。そのためには「豊かさ」のメカニズムを知る必要がある。自分が「好きな」文章の作られ方がどうなっているのか、理解せねばならない。そのうえで、何度も練習して身につける必要がある。

だけど、日本の学校では、読むことは「感情的共感」だと思われているらしく、分析的に把握する技術が教えられていない。技術が云々されるのは、受験テクニックだとバカにされる。「心をむなしうして読めばぴたりと分かる」なんて、readingは占いじゃないんだけどね。分析がないから、本を読めば「感動」するもんだと思いこむ。ときどき「先生の本を読んで感動しました!」と言われる。でも、私の本は、そういうタイプの本じゃない。感動なんてしなくてよいから、理解して役立ててくれればよろしい。

こういうベタベタした「共感」関係から離れて、顕微鏡で微生物を覗くみたいに、距離を取って吟味する、という姿勢にならないものか。感じる・昂奮するより、分かる・納得する。そのためには、主情的な文章理解を止めて、理性的にならねばならないのだが、今だに「美しい文章」なんて権威主義が国語教育でまかり通っているのを見ると、なかなか大変かなと思う。

ボカボでは、今年のロースクール、MBAの受験は一段落。やった結果はちゃんと出たと思います。来年から「小論文 Weekend Gym」を毎週土曜日に行います。小論文の講座はいろいろなところで行われていますが、内容・レベルはさまざま。文章の冷静な理解と表現、構成と分析の基本テクニックという点では、日本のどこにもない講座になると思いますよ。

2011年10月31日月曜日

ディベート好きの議論下手!

この一両日ほどTwitter上で、京大准教授T氏なる人と論争していた。ことのおこりは、編集者に彼のディベートの本を勧められたこと。読んだら初歩的でびっくり。「主張には根拠を出す」という、通常の解説なら最初の30ページで終わることで終始する。Twitterを見ると、やや言葉はキツかったが、批判的な意見も書き込んである。同感なのでRT。ところが、その次の日、T氏から妙なtweetが来ていた。

「黙殺されるのも自由ですが、論文指導業界には残念ながら、そう言う方もいるのだなと認識させて頂きます」

???? 私が何を「黙殺」したというのか?しかも「そう言う方もいるのだな」とは、何の喧嘩を売っているのだ?

TLをみると、どうやらT氏が批判tweetを見つけて「どういうことだ!」と文句をつけたようだ。相手は面倒だと思ったのか「ただのつぶやきです」と弁解。そしたら、Tは「最初のtweetを取り消せ!」と迫ったらしい。そこまで工作しておいて、私宛に「RT する前にその後のやりとりもチェックいただけるとよいと思いますが」と書いたことが分かった。

でも、どうなんですかね、こういう態度。

私は、twitterは自由な発言の場だと思っている。デマ・中傷は別として、作品に対する評価は自由だ。とくに一度出版したものなら、評価は読者に委ねるべきだ。それを、自分に気に入らない書評を見つけるや、しゃにむに潰しにかかるとは、ちょっと執念深すぎやしないか?私の返事。

「…似たような第一印象の人がいたのでRTしただけ。『その後のやりとり』も見ましたが読者をやりこめるのは?? でもこのような初歩的内容を京大でやられているとは状況憂慮すべきですね。私は高校講演でももう少し先まで話しています」

そしたら、次のようなリプライ。

「本はあくまでもエッセンスですから。大学の授業でははるかに先をやります。あとは、演習リサーチが大半を占めます」

でも、これじゃ「東大×京大×マッキンゼーの最強授業」という売り文句と違い、京大の授業と関係ないと認めているようなもの。弁解としてもうまくない。そんなわけでさらに追求。

「要するに新書は総論ということですね。ただ、…原理はこれだけ?という思いを禁じ得ません」

彼のリプライ。

「ディベートとしての基本原理は突き詰めれば極めてシンプルで、事例も新書一般読者に解けるものにしてあります。この本を見て京大のレベルを勝手に想像されたりとか…ご自分が持ってきたい方向の議論で挑発されている様に思いますが、的外れです」

ようやく自身の発言の不用意さに気づいたらしい。だけど、読者が本から想像するのは当然の権利。本だけで判断するな、と文句をつけるより、むしろ講義の高度なレベルを描写するのが筆者のつとめだろう。それが出来ないままに「的外れ」と言うのもどうかな。

もちろん私は「挑発」していない。本の評価をしているだけ。T氏も認めるように、この本は「極めてシンプル」…すぎで、もっと前に理解しておくべき内容だ。実際、私は「主張には根拠が必要だ」と高校での講演の最初の部分で触れる。もし、これを大学であらためて教える必要があるなら、レベルが低すぎる気がする。実際、後でT氏は次のように述べている。

「(この本の)大元って、SEG(数学中心の大学受験予備校) の春期講習でディベートの授業をやった所から始まっているのですよ。…医学部受験生を念頭に置いた…授業だったので、安楽死とか出生前診断とか代理母とかも扱って、自己決定とその限界みたいな話もしました。…そう言う意味では、かなり意識の高い中学生もターゲットだったわけです。そこから、取捨選択をして、…現在の本を作った」

つまり,これは予備校の医学部受験生向け講義だったわけ。なるほど、それなら分かる。医学系小論文なんかでは、面倒な問題が頻繁に出てくる。当然、賛成/反対が拮抗する。ディベートすると、自分で立論を考えて両論の理屈がより分かる。とくに、大学受験など知識を覚える作業ばかりを強いられていると、思考を刺激されてたしかに面白い。

でも、ディベートで両論を理解すれば、代理母の問題を確信を持って是認/否定できるわけではない。むしろ、対立がハッキリして、どちらにも一応の理があることが分かる。だから、現場の医療者だって考えれば考えるほど、問題の困難さの前に立ちすくむ。そういう構造になっている。それを「ディベートさえやればサクサク決断できますよ」と煽るのはちょっと違うのでは? そこでもう一度確認のtweet。

「つまり、あの本の内容は京大で実際におやりになっている授業とは関係がないわけですね?」

彼のリプライ。
「関係なくはないですね。レジメの大半を、採用してます…」

急に調子が弱くなった。

「…ご自身のポジショントークだと思うし、吉岡さんは吉岡さんのビジネスをやっていれば良いでしょう。吉岡さんがどういうバックグラウンドの方かよくわかったのでもう気にしません」

都合が悪くなって議論からの逃走にかかったみたい。でも、議論の相手に対して「ポジショントーク」はやや失礼。あなたが批判するのは、悪意があるからだ。だからもう「気にしない」し、聞くつもりもない、だって!?

でも、悪意を指摘しても、相手の主張の正当性は一ミリも後退しない。あくまで中身に従って論破しなくてはならない。この論法だと、彼を批判する人はすべて自分を陥れて、自分の利益を拡大しようとする「ビジネス上のライバル」になる。実際、T氏は次第に脱線し、私の素性/素行調査に精出す。

「気になったのが、吉岡さんのいう『関係』概念がゼロイチの点です。具体的には…書籍の内容が平易すぎれば当然授業も平易であり学生レベルも低いというところです。…残念ながら、吉岡さんの指導教官や卒論、修士論文をチェックできなかったので、ハッキリしませんが、社会構造を割と一体でとらえる古典的な理論に近い人なのかなと感じました。時代的には吉田民人さんとかだと何となく整合します。富永健一さんではないだろうなと」

人の過去を詮索するのは勝手だけど、この批判もおかしい。教授の影響で学生が同じ発想をする?でも、それこそゼロイチ思考、つまり「社会構造を割と一体でとらえる古典的な理論」だろう。

どうも、この人は議論するうちに、自分の主張と矛盾することを言い出す癖があるらしい。これでディベートなんて危なっかしくて仕方がない。付け加えると彼の推理も間違い。私はれっきとした富永健一ゼミ。もっとも不肖の弟子で、富永先生はまったく私のことを覚えていなかった。こんな風に、教師と弟子はすれ違う場合もあるのだ。

「…お互い、ジセダイの若者の育成に戻りませんか?私の本は結構有名な大学の基礎ゼミでも推薦されているらしいのでその点から大学の学力低下を批判されるのは正当だと思いますし、またそのギャップを埋めることを吉岡さんがビジネスにされているわけですから」

地方の談合じゃあるまいし。私は同業扱いされたくないなー。「結構有名な大学の基礎ゼミでも推薦されている」と権威主義を丸出しにしたあげく、「吉岡さん」も「ビジネスに」しているから「お互い」様でしょう、とウヤムヤにする。何だかオヤジっぽい。そもそも、教育の話なのに、いつの間にかビジネスの話にするのは「論点のすり替え」だと思うけど。

以上、彼の議論の特徴を列挙すると以下のとおり。

1 他者からの批判を許さない/拒否する
2 批判者から容易に突っ込まれる主張をする
3 批判をポジショントークだと反撃する
4 自己矛盾した議論をする
5 自己の正当性を権威に訴える
6 一方的に論点をすり替える

どれも議論の時にはやってはいけないことばかり。これが「ディベート思考」を唱導する正体だと思うと、ちょっと情けなくなる。こんな風に大学生がディベートを習う状況も不幸だし、それを権威ある方法だと思わされて、本を読む人はもっと不幸。私も、出版が「知的貧困ビジネス」になることが多いことは知らないわけではない。しかし、それは「ノストラダムスの大予言」ぐらいにしといてね。

少なくとも教育に関するものは、最低「ちゃんとしたレベルを教える」というコンセプトにしないと。リベラル・アーツが大事だという主張自体は悪くないのになー。その中身がこれでは残念。でも、こういう考えは、厳しい経済情勢の中で甘ちゃんすぎると言われるのかもしれない。売れるためには何でもやらなくっちゃ。うーむ、いやな世の中だなー。

2011年9月30日金曜日

安全な日本と私

3.11から六ヶ月あまり。放射能問題に終わりはなさそう。リスクとの共存という日常がゆるゆると動いている。帰国すると、その空気がベターッとまとわりつく感じだ。

そんなとき、仙台の友人からメールがあり、次のような質問があった。

吉岡殿に質問。
バリ島では以前、爆弾テロがあったのに、よく行くなあと心配+感心+なぜ?の私。
その「なぜ?」の答えは次のどれ?

①現地ではもう誰もテロのことなど覚えていない。
②テロのあったところから遠いので心配していない。
③テロ集団は壊滅した。
④テロは心配だが自分は大丈夫。
⑤テロは心配だがそれより強いバリ愛。
⑥テロは心配だが私は死を恐れていない。

選択肢まで作ってくれている。彼は高校の先生なので、テストを作るのはお手の物。ただ、私も予備校講師をやっていたけど、選択肢問題には今だに馴染めない。なぜなら、提示してある以外の答えを選べないから。問題作成者が何を答えと思っているか、に合わせなければならない。それが窮屈なのだ。

では、一つ一つ検討。

①現地ではもう誰もテロのことなど覚えていない。
正確に言えば「選択的非注意」。かつてのナチス・ドイツではユダヤ人虐殺は皆知っていたが、いつも気にしていたわけではない。虐殺には反対せず、見ないふりをしていた。テロも同じで、知ってはいるのだが知らないふり。で、いつの間にかないことになる。

②テロのあったところから遠いので心配していない。
現場までは、車で一時間半。遠いと言えば遠い。近いと言えば近い。でも秋葉原の17人殺傷事件では、事務所から電車で10分。距離を基準にして心配するなら、こちらのケースの方が切実かも。

「遠さ」は距離の問題ではない。テロの現場はクタという繁華街、日本で言えば歌舞伎町みたいな場所。私のいるところは、スバトゥという田舎。人口密度が少ないので、爆弾を破裂させたって、田んぼの稲が揺れるくらい。

テロは「どこにでも起こる」わけではない。テロリストの「好む」のは、人が沢山集まってアメリカ大衆文化に染まっている「悪場所」。私は、そういうところに足を踏み入れない。テロリストと私の「好み」は違う。意地悪い言い方をすれば、テロを怖がる人は、テロリストと同じ「好み」を共有しているのかも。

③テロ集団は壊滅した。
警察ではないので知らない。たぶん、まだどこかに潜んでいるだろう。ただ、バリ人だって、テロリストは嫌い。犯人集団は徹底的に捜索されると信じている。

④テロは心配だが自分は大丈夫。
大丈夫ではない。私は要領が悪い方だから、テロが起こったら犠牲者の方に回ること確実。

⑤テロは心配だがそれより強いバリ愛。
Jane Jacobsは「町がスラムになる原因は、そこにいる人が早く出て行きたがることだ」と言っている。住人たちが町を出て行こうと思わなければ、その地区は良くなる。自分がいるところを良くするのが人間の常だから、住人たちがい続ける街はスラムではなくなる。

テロに置き換えれば、大切なのは、その場所を見捨てないこと。テロが怖いと逃げ出すと、その術中にはまる。ここでも、怖がる人はテロリストと世界観を共有している。「人は脅せばコントロールできる」。私はそんな世界観を持っていない。

これは「勇気」ではない。むしろバランスの問題だ。綺麗な景色。静かな雰囲気。信頼できる友人たち。どれも日本では実現できない豊かさ。相対的に、テロの恐怖など背景に退く。

振り返って、仙台だって放射能の危険にさらされている。でも、友人は立ち去らないだろう。慣れた環境。信頼できる知人たち。家族と共の生活。放射能の危険は相対的に小さくなる、のではないのか?

でも、これは「愛」でもない。Jane Jacobsは“trust(信頼)”と言う。環境や人間に対する信頼。それは、自分だけの思いこみではない。相互に保証されることで、醸成される客観的なあり方だ。

⑥テロは心配だが私は死を恐れていない。
残念だが、死ぬのはめちゃくちゃ怖い。

…よく考えてみれば、日本だってテロと無縁ではない。たとえば、80年代の新宿バス放火事件。乗合バスにガソリンがまかれて火をつけられ、10人ほどが亡くなった。私は現場から徒歩5分の所にいた。さらに、90年代サリン事件はよく乗っていた地下鉄で起こった。そして秋葉原。

どれも凶悪犯罪で、テロとは言われない。しかし、グローパルな定義で、不特定多数を危険にさらすなら「テロリズム」。凶悪犯罪と呼ぶのは呼称のトリック。そういえば、仙台だって東一番町を車で疾走し、歩行者をはねとばして死亡させた事件があった。テロそのものだよね。爆弾や銃撃がないのは、そういう道具がたまたま手に入れにくいからだろう。

テロがあるのに、なぜ行き続けるのか? その答えは、そこに行き続けているからだという循環しかない。

行き続ける「信頼」の代償として、特定の危険には鈍感になる。いろいろ事件はあったけど、自分は生きている。振り返ってみれば、とりあえず安全と言うしかない。「安全な日本と私」という信憑がここに生まれる。日本に住むと日本の危険に目をつぶり、バリに行くとバリの危険に目をつぶる。そういう風にしてしか、我々はある場所にいることを選べない。悲しい生き物だね。

結局、冒頭の問いには、反問で答える他ない。

「フクシマであんな爆発があったのに、なぜ日本にいるの? バリでも十分暮らしていけるだろ?」とバリの友人たちは聞く。たしかに、よくいるなあと心配+感心+なぜ?の私。被曝の危険が大きいのに、君が日本に住み続ける理由は以下のどれか?

①現地ではもう誰も原発のことなど覚えていない。
②原発のあったところから遠いので心配していない。
③原発問題は解決した。
④原発は心配だが自分は大丈夫。
⑤原発は心配だがそれより強い祖国愛。
⑥原発は心配だが私は死を恐れていない。

なるほど、自分のことはよく見えないものだね。wwww

さて、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」が始まります。国公立を受けたい人、来年受験したい人、どちらにも役立つと思います。来年受験の人は「法科大学院 適性試験 Start Up!」もどうぞ。

2011年9月17日土曜日

次々と合格者が…

クラスをしばし小休止している間に「夏のセミナー」の受講者たちから、次々と合格速報が来ました。中央大学法科大学院、早稲田大学法科大学院、龍谷大学法科大学院、明治大学法科大学院エトセトラエトセトラ。いろいろあって、すべて発表できないのが残念。うーむ、今年も悪くない。どころか、かなり良い成績です。

そんなことを思っていたら「司法試験合格しました」というメールもやって来ました。明治大学法科大学院の卒業生。彼女はWEB講座を受講していたけど、自他ともに認める適性試験成績不振組。でも明治大学法科大学院の社会人枠(未修)なら「適性試験の点数より、提出書類・小論文を重視する」というので、何とか完璧な提出書類・小論文を書きたいというので、ボカボに来たのです。

ご存知のように、ボカボの添削では、文章を書いてあげるなんて不届きなことはしません。しかし、受講者自身が書いた文章をじっくりと読み、そのどこが不十分か、どこに可能性があるか見極め、「ここの部分を再考したらどうか?」とアドバイスする。

これは我々の文章観に基づくものです。文章は自己表現ではない。むしろ、文章は対話です。自分の言ったこと「…は…です」という主張に対して、周囲から「なぜ、そうなのか?」「くわしく言うと、どうなるか?」「具体的には、何があるか?」などのツッコミが出てくる。それに対して「なぜなら、…からです」「詳しく言うと、…です」「たとえば、…です」と応答していく。そうすると、自分の言った主張に対して、根拠を出すことになる。これは論理的文章の構造と一致するのです。

これは、志望理由書などでも同じこと。「自分は…をやりたい」と志望を書く。すると、「なぜ、そうなのか?」「くわしく言うと、どうなるか?」「具体的には、何があるか?」などのツッコミが出てくる。それに自分の体験を絡めて、丁寧に答えていけばいい。そうすれば、自ずと「分かりやすい文章になる」のです。

「君はなぜ法曹になりたいのか?」自分のやりたいことの根本を巡って対話するのが志望理由書。「この(社会)問題に対して、君はどう判断するのか?」を書くのが小論文。どちらも同じ種類の文章なのだけど、日本人はこういう対話が苦手ですね。個人攻撃かとうろたえて、しどろもどろになったり、逆ギレしたり、つっこまれても冷静に対話をしていくスキルに欠けている。小学校以来の訓練が欠けているとしか思えない。

その訓練を徹底的にやるのがボカボ方式。最初のドラフトを出すと赤字だらけになって返ってくる。「問題意識が不明確」「意味不明の表現」「論理がつながっていない」「体験との結びつきが弱い」「結論がいい加減」。指摘することは山のようにあります。

そもそも現代の若い人(という言い方はやや一般的に過ぎますが…)は、気がやさしくて、他の人の気持ちを思いやることでは、年上世代よりずっとすぐれています。(私に言わせると、バブル世代・高齢者の方が身勝手)。それだけに、周囲で「よい言葉」として流通するステレオタイプの表現をそのまま使うという行動に慣れすぎて、自分の意志を表明する言葉が使えない。

それを具体的に指摘されることで「え、こんなに自分は言葉をいい加減に使っていたのか?」とはじめて自覚する。それから「自分なりの言葉を見つける」までが大変です。何せ、今までそういう風に言葉を使っていなかったのですから。結構苦しむわけ。おそらく生涯ではじめて、そういう言葉遣いにぶつかる。何回も提出し「ここがまだダメ」と指摘され「それではどんな表現がよりよいか?」と自分の語彙の中をさまよって悩む。

こういう体験を通して、はじめて「自分が何を望んでいたか?」に到達するのです。だから、志望理由書のドラフトが完成した暁には「これこそ自分の言いたかったことだ!」とほとんどが達成感に浸る。いわば、ボカボは言葉の誕生を助ける産婆役なわけです。

上述の彼女は、そのプロセスに見事に耐えた。時間もなかったので、次々にドラフトや答案が送られてくる。それを次々に添削して返す。すると、さらにそれを書き直して…。5回も繰り返すと、見違えるほどよくなる。本人は、最後まで不安だったようだけど、力は自然に付いてくる。

きっと、ここでやったことはロースクールに行っても役だったのではないかな、と思います。「何もかも、全ては吉岡先生のステートメント添削で法科大学院に合格できたことから始まっているので、感謝の気持ちでいっぱいです。これから修習に行って、小六からの夢だった弁護士になります」

いやあ、これからも大変でしょうけど、この人ならきっと出来る、と私は思います。頑張ってね。日本は、放射能でバタバタしているけど、その中でも一つずつ積み重ねたことは、必ず成果になっている。そういうものです。

さて、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」が始まります。夏の私立がイマイチだった人、来年名門を受験したい人、どちらもぜひ来てみてください。きっと「目から鱗」の連続だと思う。自分の不明にまず気づく。それがすべての始まりです。来年受験の人は「法科大学院 適性試験 Start Up!」もお勧め。

2011年9月2日金曜日

アパシーとアクティヴィティ

八月は残酷な季節だ。くそ暑い中で体はゆったりと休息を求めているのに、いつもと同じかそれ以上の活動を求められる。その結果、気がついたら「気力減退」と「原稿遅滞」のダブルパンチに見舞われる。気ばかり焦っても、全然物事は1ミリも先に進まない。そのうち「プチ過労死」状態(つまりは「夏バテ」にすぎないが…)になる。

実際、油断していたら、八月は一回しかBLOGを書いていなかった。とにかく書く気が起きない。「夏のプチゼミ」「夏のセミナー」と週3回はクラスがある。その準備と添削・個別コーチングなどで時間を取られる。当然、原稿は出来ないから苛々。でも、どうにもならない。自分を責めて疲れる。そういう繰り返しだ。

「夏バテ」なのは、世間も同じ。ニュースを見てもろくなことがない。連日、原発関係か民主党総裁選挙のオンパレードだった。正直言って飽きる。とくに原発関係は何度も見ていると、「ベクレル」「シーベルト」という言葉に慣れっこになってしまう。「100ミリベクレル? それがどうした?」てなものである。知らなくても、自分が生きている限りは関係ない。そんなアパシー状態というか妙なエア・ポケットに落ち込んでいる。

そういえば、芥川龍之介に関東大震災後を描いた短編があった。横浜に用があって行った。瓦礫が残った住宅街。ピアノが半分埋もれて放置してある。鍵盤が露出している。そばには栗の木が一本立っている。「全体、これでも鳴るのかしら?」とそばを通り過ぎると、突然ポーンと音がする。いったい誰が弾いたのか、幽霊を疑って一瞬ゾッとして振り返る。そのとき、またポーンとピアノの音。そばの栗の木から実が落ちて鍵盤に当たった…なーんだ…。静かな昼下がりの風景なのか、そんな感じ。

それに対して、今から思い出すと、地震・津波・原発事故の一連の流れは、精神が異様にしゃっきりする出来事だった。毎日耳目を集める出来事が次々と起こり、自分の知力・気力を振り絞って考え、行動すべきことがいろいろあった。心身共にパセティックな状況に充ち満ちていた。ある意味で幸福な状態だったかも知れない。

たとえば、ボカボのある講師の弟さんは長年引きこもり状態だったのが、久しぶりに3.11直前にバイトに行った先の24時間営業のソバ屋で、地震にあったそうだ。ちょうどその時店長の奥さんが流産しかけ。心配する店長をとりあえず帰し、そこから彼はたった一人で72時間の間ソバを作り続けたらしい。頑張り続けた結果「やれば出来るんだ」とすっかり自信を取り戻し、今や完全に社会復帰しているとか。

実際『災害ユートピア』という本では、災害が起こると普通の市民が驚くべき力を発揮するという。よく言われる暴動や掠奪などほとんど起こらない。むしろ、人間たちは結束して、目の前にある危機を乗り越えようとする。それを壊すのは、社会のエリート層。彼らは、既存の社会秩序から過大な利益を得ているから、心理的にも「秩序」に執着する。そこで、過剰な警備態勢をしいて、既存の秩序が組み替えられるのを阻止しようと、かえって混乱を引き起こすのだとか。

災害は必ずしも悪いことばかりではない。人々は、危機に瀕して自分が出来ることをし、それが社会を目に見えて良くし、そこから勇気をもらって、また自信を深める。自分と関係ないところで、社会が回っている/自分がいてもいなくても何も変わらない。そういう以前の状態から、自分がいることが周囲に直接的な影響を与えられるという感覚を持てる。さらに、人間の姿もくっきりと見えてくる。佐賀県知事とか玄海町長とか、プロレスの試合のように、典型的な「ヒール」たちが見えてくる。無色だった社会に、突然色がつけられ、登場人物たちが飛び出し、生き生きと動き出す。

こういう状況はtwitterに向いている。自分が考えた一寸したことを発信する。それに反応がある。その繰り返しが一種の高揚感を生んでいた。だから、私も結構熱心にtwitterをやっていた。でも、それも一段落した感がある。騒いでも変わらないことは変わらない。出来ることと出来ないことが見えてくる。出来ないことはあきらめるほかないし、出来ることは少しずつ続けないと成就しない。いずれにしても、この状況は数十年の間続く。そのタイムスパンが見えてきたのが、原因なのかもしれない。その雰囲気が秋の始まりと重なる。ちょっと落ち着いてBLOGを書こうかな、と思ったのも、こういう気分と対応している。

そういえば、チェルノブイリは、今動物の楽園になっているとか。人間がいなくなったから、鹿や野生の馬が住み、ツバメが巣を作る。「環境論者」が聞いたら、天国のような生物多様性が実現している。フクシマ原発の近くももう人は住まない/住めないから、鹿やツキノワグマや狐のサンクチュアリになるだろう。近くの酪農家から逃げ出した牛も野生化する。大型の草食動物が増えるので、オオカミでも輸入して放したら、理想的な「持続可能な自然環境」が出来上がるだろう。

結局、物事も起こって時間が経つと、生物学的・生態学的に可能なところに落ち着いてくる。ダメージを受けてもそれなりに生きていく生き物。我々もその一員に過ぎないのかも知れない。それもまた、また違う自然の残酷さなのかもしれないが…。

さて、ボカボは九月の間はWEBや個別コーチングだけです。夏の間に起こったことをしっかりと心の中に定着させる時間かもしれませんね。10月からはまた「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」を始め、「法科大学院 適性試験 Start Up!」など、さらなる飛躍のためのさまざまな準備をします。乞うご期待。

2011年8月9日火曜日

大変さの中で平常心を保つ

3月の地震以来、ボカボでも法科大学院志望者が例年よりやや減っていたのですが、結局「夏のセミナー」は去年以上の集まりになりました。もう第二週目になりますが、出席者が熱心なためか、毎回楽しく議論しています。あまり楽しかったためか、ブログの更新が滞ってしまいました。ごめんなさい。

こういう傾向は、東日本の震災から始まって、中国の高速鉄道事故、アメリカの国債引き下げ、イギリスの暴動など、今年は世界的にひどい状況が続いていますが、そんなことにいちいち振り回されていても仕方がない、腰を据えてじっくり自分の力を引き上げるしかないのだ、という気持ちの表れなのでしょうか? そういう風に感じられるだけ、神保町のボカボの周囲は落ち着いている。勉強に精進する中で、一種「護られた空間」になっているのかもしれません。

でも、怯える人は世の中の情報に煽られ、安心感がどうしても得られないらしい。この間も、京都の大文字焼きで陸前高田の松林の薪を燃やそうとしたら「放射能が危ないんじゃないか」とクレームが出て、やめたとか。それをあるコラムニストが批判したら「放射能の専門家でもない人間が何を言う。心配するのは当然だ。それを分からないのは最大のバカ」という罵倒twitterが来たとか。すごいね。

陸前高田といえば、仙台よりはるかにフクシマからは遠い。たとえ放射能があったとしても、東京と同じくらいか、それ以下でしょう。しかも、薪は、放射線の計測をしてO.K.ということは分かっているのに、なお「心配するのは当然だ」と言いつのる。きっとクレーマーたちは陸前高田とフクシマの位置関係も知らないのだろう。「最大のバカ」はどっちだと言いたい。

これでフクシマの小学生が京都に転校してきたら、どんな扱いを受けるのか、ちょっと怖い感じがします。差別されたり、いじめられたり、しかねないのでは? 昔から差別がキツイところらしいから、かなり心配。原発事故の後、福島県民の「疎開」を唱えた人もいるようだが、この結果を見ると、放射能より「疎開」が与える精神的トラウマの方が大きいかもしれない。まあ、京都の人のほとんどはまともだろうから、そんなことにはならないと思うけど。

しかも、もっともがっかりさせられるのは、この決定が宗教者によって行われたことだ。五山の送り火はそもそも死者の霊を送る宗教行事。宗教者ならば、非業の死をとげた者を回向するのが役割のはず。こういう国難の時こそ、犠牲者を弔う役割を持つ。ところが、来世より現世のクレーマーの声ばかりを慮るというのでは、宗教者としてどうなのかな? クレーマーが数十人出てくるのは仕方ないにせよ、そういう低脳(⁈)たちを説得する言葉さえ持たないようでは、どんな立派な寺院を持っていようが「宗教の力」なんてなきに等しい。リーダーシップに欠けているのは、政治・経済の世界だけじゃないね。日本のあらゆる分野がそうなのかもしれない。

こういうグチャグチャの状況の中でこそ、原則を確認し、優先順位を立てておかなければ、しっかりと世の流れを見極めなければならない。そうでないと、声の大きい「バカ」たちがあちこちでのさばって、排除と非寛容のムードがはびこる。3.11の後の情報混乱の中で、その必要を痛感した若い人々が確実にいるようです。だから、ボカボの講座のようなところも盛況になってきたのだと私は思うのです。世の危機に右往左往していても展望はありません。自分の考える力をまず上げる以外に、先を見通すことは出来ない。そういう地味な作業に立ち返っていくべきだと思うのです。

そういえば、世の条理を正す方法を解説した『東大入試に学ぶロジカルライティング』もはやばやと重版。これから三刷を目指します。といっても、書き終わってしまった著者は今更頑張りようもないのですけどね。真面目に読んでいただければ、これからの日本及び未来に対するヒントがきっと見つかるはず。読んだ方々はアマゾンにでも書評を送ってくださいね。

この暑い夏が終わったら、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow up!」「法科大学院 適性試験 Start up!」が始まります。前者は来年の受験に役立つだけでなく、今年の国公立を目指したい方にもおすすめです。

2011年7月17日日曜日

暑い夏のロジカルシンキング

現今の「政治の混乱」を見ていると、マスコミを初めとして「議論力」「論理的思考力」がまったく欠如しているのを感じる。たとえば、菅首相の「辞任表明」にしたって、私はTVを逐一見ていたけど、まったく「辞める」とは言っていない。むしろ、ロジカルに考えれば、問題が片付くまでは「辞めない」と受け取れる。もちろん、菅はそのつもりで意識的にダブル・ミーニングを利用しているんだけど。

その構造を見抜けないで、マスコミは「退陣表明」と一方的なテロップをつける。要約力に欠けているとしか思えない。尻馬に乗って、民主党の野心を持った政治家(そもそも野心を持たない政治家は政治家ではないけどね)が「いつ辞めるんだ、七月か八月か」と騒ぎだす。菅は当然辞任時期を明らかにしない。するとマスコミが鳩山に「菅さんが辞めないって言っているけど」と追求する。鳩山も「菅は嘘つきだ」と言わざるを得ない。事態収拾してバランスを保つ会談のはずが、強引に政局にねじ曲げられる。

こういうマスコミのマッチポンプ的な態度は、一貫している。すでに、ネット上でもいろいろ取りあげられているが、次の報道を見れば「マスコミのねじ曲げ」がどのように起こっているのか、一目瞭然だ。

●脱・原発依存」を表明 首相(東京新聞)
菅直人首相は十三日夕、官邸で記者会見し、今後のエネルギー政策について「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べ、深刻な被害をもたらした福島第一原発事故を踏まえ、長期的には原発のない社会を目指す考えを表明した。
首相は事故後、原子力の活用を中心にした現在のエネルギー基本計画の見直しには言及してきたが、「脱原発」に転換する方針を初めて打ち出した。「原発に依存しない社会を目指すべきだと考え、計画的、段階的に原発依存度を下げる」と指摘したが、時期など具体的な目標は「中長期的展望に基づいて議論し固めていきたい」と述べるにとどめた。

「脱原発」宣言…電力供給確保の根拠もなく(読売新聞)
菅首相が13日の記者会見で、将来的な「脱原発」を表明したのは、自らがエネルギー政策の見直しという歴史的な転換に着手することで、首相としての実績を作る狙いがあったと見られる。

ただ、原子力発電所に全く依存しない社会を作るための道筋や十分な電力供給が確保できる根拠は示されず、閣内で十分に議論された形跡もない。場当たり的ともいえる対応に、実現性を疑問視する声も多い。●●

東京新聞の方は、首相発言をそのまま報道しているのに、読売の方は「実績を作る狙い」という憶測や「場当たり的」という評価、さらに「疑問視する」という批判まで満艦飾。だが、肝腎の、いったい誰がこういう憶測・評価・批判をしているのか、まったく書いていない。評価の根拠は「閣内で十分議論された形跡もない」とあり、誰か閣内の人の伝聞なのだろうが、そのソースは示されない。こんなあやふやな根拠で首相の発言を否定してよいのか?

たしかに、大問題の場合は、意見や方向が対立するのは仕方がない。今までのエネルギー政策の方向を変えるというのだから、反対意見を言っても構わないだろう。閣内にだって反対者は少なくないかも。しかし、いやしくも批判・否定するなら、それが誰の意見・主張なのか、せめて明示すべきではないだろうか? それをしないで、むやみと「否定的言辞」を暗闇から貼り付けて、信頼性を既存しようというのは、いささか卑劣すぎる。

こういうレッテルづけが「辞めるといった首相が何を言っても聴かない」という問答無用の態度をひろめているとしたら、由々しきことだ。そういう「空気」を利用して「脱原発なんてよい方向と思うけど、同じことを野田が言うなら、全然違う」(自民党議員の言葉)という発言まで出てきた。内容ではなく、人の好き嫌いで評価を決めるのか? 

まあ、セイジ大好きオヤジたちが、伝聞情報で「誰が次の総理になるか」と昂奮し「祭り状態」になっていると考えれば不思議はないのだけど……それにしてもバカというか低レベルというか。ボカボの講座に出席したら、ボコボコに批判されるのは必定だね。

ところで話は変わるけど、かつての受講者から、以下のようなメールをもらった。

●ご無沙汰しております。
吉岡先生が私のことをまだ覚えてて下さるとよいのですが、5年ほど前に法科大学院の入試の際、小論文の添削でお世話になりました。その後、K法科大学院の未修コースに進み、無事に司法試験に合格し、現在弁護士として働いております。
 
司法修習中、文章が読みやすいと褒めていただくことがあったのですが、あのとき吉岡先生の指導のおかげだと思っております。 文章力の基礎、ひいてはリーガルマインドの土台を築いて下さり、本当にありがとうございました。●●

もちろん覚えていますよ。WEB上の添削のやり取りだけだけど、彼女の文章のいくつかも「ああ、あれか」と見当が付く。司法試験に合格して弁護士になっていたとは。おめでとうございます!これに限らず、この頃思いがけず、はじめて会った人から「お世話になりました」と声をかけられることがある。小室先生を偲ぶパーティでも,若い弁護士の方からいわれてびっくり。たしかにボカボももう10年以上やっているので、そういう人が出てきても不思議ではないけど、実際に言われてみると感慨もひとしお。

とくに「リーガルマインドの土台」と言われるのは、ホントにうれしい。まじめな国民性なのか、日本では、問題に立ち向かうときに、つい知識を増すというsolutionを取りがちだ。「これが解けないのは、知識が足りないためだ」と思いたがる。そういう場合もあるけど、実際にその問題を解くための知識がこの世に存在しない場合も少なくない。というより、正解に至る定型的知識が存在していないから「大問題」になる。

でも「リーガルマインド」とは、そういうことではない。次のようなcreativeなスキルだと思う。

(1)問題に定型的な解決法がなくても動揺しない
(2)今まで培った教養・知識を枠組みとして新たな解決を模索する
(3)論理的構造と情報のソースを明示する
(4)空気を左右するのではなく、正々堂々と周囲からの納得を得る

それは、まだ道が切り開かれていない山にはいるようなものです。とりあえず、手持ちのナイフやザイルなどを使って、道なき道を切り開いて目の前に展望を開く「修羅場での工夫」が重要になる。公式で解ける問題にばかり熱中していると、この能力が衰退する。では、どうするか? 修羅場のシミュレーションをしておくしかない。見果てぬ正解を希求するのではなく、手持ちの道具で「しのぐ」。その結果として、他の手本となる新しいモデルや公式を作り出す。こういうcreativeな力は「修羅場の中で論理的な解決を模索・提案する」という経験を繰り返す中からしか生まれない。

こういう「マインド」を、若い人々は少しずつ身につけて世に出始めている。それなのに、セイジ・オヤジたちは伝聞に頼って、人の意見・主張をねじ曲げて理解したり、それを煽って問題化したり、それに乗じて権力をねらったり、と闇の中でうごめき続けている。結果として、民主主義へ不信や社会の混乱を招く。こういう理解力不足、要約力不足、議論力不足の人たちを一掃しないといけない。

「専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するにものごとを自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです」(山本義隆)

ボカボが、混乱した世相に対して対抗する手段を少しでも提供でき、問題解決能力を持っている人を輩出しているのだとしたら、本当に喜ばしいことです。でも、ボカボが活躍できることは、それだけ社会が未成熟なままだということでもある。暑い夏に相応しく、何だか悩ましい結論ですね。

さて「法科大学院小論文 夏のセミナー」および「慶應・難関大学入試 小論文 夏のブチゼミ」まで、後二週間足らず。司法試験で未修は不利だとか囁かれたが、こうやって司法試験を突破し、法曹界で活躍している人もちゃんと出ています。いくら法的知識をつけても、いつか意見が対立した未知の領域にぶつかる。また、そうでなければ大問題は扱えない。夏のセミナーで培う「マインド」とはそういう修羅場に対応していく精神の強靱さ=修羅場をしのぐ力のことをいうと思うのです。夏の暑い時期、集中して勉強に賭けましょう!

2011年7月5日火曜日

充実した人々・充実した時間

ちくま新書『東大入試に学ぶロジカルライティング』が、アマゾンでは早々と品切れ状態になっているようで、ご迷惑をおかけしました。紀伊国屋Bookwebの該当ページなどからも注文できますので、そちらをご覧ください。一ヶ月足らずで重版になりそうで、とりあえず良かったと思います。

ところで、「新しい本が出ました」という案内メールを出したら、過去の受講生の方から、続々と近況報告が来ました。たとえば、定年退職なさってから、ロースクールに挑戦なさった方からは、こんな調子のメールが来ました。

●法科大学院で論文をよく書かされます。その時、ボカボで教えて頂いた論文の書き方が非常に役に立っております。本当に有難うございました。今年の択一の合格者で71歳の人がいましたので、非常に励みになりました。今は、毎日毎日ひたすら勉強に打ち込むことができますので、本当に幸せです。●●

おーっ「毎日毎日ひたすら勉強に打ち込むことができますので、本当に幸せです」と言い切っちゃえるところがスゴイですね。最近「リア充」という言葉があるようだけど、まさに究極の充実の一言。人生の後半期に、こういう時間を持てている人が確実にいるわけ。もう一人は、血気盛んな若者。こんな感じです。

●近状報告ですが、一言で言うとhard but rewarding です。さすがは旧帝大。自分の場合、仙台に来てからほぼ毎日が次のようなタイムテーブルで動いています。
 
×月×日
7時起床 神棚の水を取り換え、ネット起動、新聞のサイトとブログを巡回。
8時にビリーズブートキャンプを35分間、その後入浴。外出の支度を整える。
9時30分ぐらいに登校、自習室へ入室。
11時過ぎに学食で朝食兼昼食。青山学院出身の友人(既修入学)が言うには値段が高い。
11時30分には自習室に戻り勉強再開。
2時40分から授業。憲法。(中略)
4時10分授業終了。とはいえ自習でためておいた質問をしない手はないので有効活用。
友人と少し話し、自習室へ。
6時からリーガルリサーチの授業。判例等の法令情報の検索方法を解説する授業。
ただ聞いていればよいので暇。思索や自習の授業と化す。ひどい人はノートパソコンでYou tubeを見ていたりする。
7時30分修了。友人と学食で夕食。
8時に自習室へ戻る。
11時に下校。
11時30分帰宅。ネット、読書。実家から持ってきた『光抱く友よ』を読む。さすがに光文社文庫でもニーチェは読む気力なし。卒業までに読めるのか?
2時就寝。●●

個人情報に関わりそうなところは微妙にカット。でも、これもスゴイ。次から次と勉強すべきことが出てきて、時間が沸き立つように流れる。それを次々とこなしていくドライヴ感。とくに「ビリーズブートキャンプ」を毎朝やるなんて…。張り切りすぎて、体を壊さないかと心配になるくらい。
 最後に、もう少しクールな充実も紹介しておきます。

●大学院の生活は、グループワークがたくさんあり、様々なバックグランドの人ととのディスカッションはとても刺激になっています。(課題が溜まってしんどくなる時もありますが…)論理的に自分の主張を組み立て、それをわかりやすくプレゼンする難しさを日々感じています。何度もトライ&エラーすることで少しずつ成長できているのかなと思います。
もうすぐ一年経ちますが、大学院受験して良かったと思っています。去年の大学院受験のご指導はありがとうございました。次のステップとして、就職をいろいろな選択肢の中からどのように決めていくかが現在の課題です。そこで、9月から1か月間シリコンバレーのインターンプログラムに申し込もうと考えています。●●

これも前途洋々の感じが溢れている。今の日本の沈滞の中「政府が悪い」だの「日本は終わり」だとマスコミで五月蠅い状況で、個人が自立して、こういう感じを持てるということは本当に貴重。ボカボを受講なさった人が、こういう毎日を過ごしているとは、本当に嬉しい。そのお手伝いが出来たことは、我々の喜びです。

どうせ放射能と共存するしかないのなら「外国に逃げたい」と念じるより、現実的な対処法=生き方を一人一人が考えねばならない。それが明確でなければ、日本では生きていかれない。そんな感じがします。

さて、今月末から、このような「充実する人々」を次々に生み出してきた「法科大学院小論文 夏のセミナー」と「大学入試小論文 夏のプチゼミ」が始まります。参加者の答案を互いに開示しながら、その発想・構造・論理を徹底的に検証するという講座。真の意味でのロジカル・シンキング、ロジカル・ライティングを修得したい方は、是非お出でください。そのクオリティは、日本でも希有なレベルに達していると思いますよ。きっと皆様が「リア充」になるお役に立てると思います。夏にお目にかかりましょう!

2011年6月25日土曜日

国境を越える文化

義弟の通夜と葬式に、シューマンやブラームスの音楽を使ったと言ったら、「日本人が西洋古典音楽を本当の意味でこころから楽しむことができるのか?」という軽い非難めいたメールが来た。

●私の妻の父親(秋田県)のお通夜で流れた音楽…は御詠歌でした。親類や近所の人たちが薄暗い座敷に集まって棺に向かいそれぞれに御詠歌の歌詞の手書きのコピーを持ち、一人の先導者が1行目の最初のフレーズをゆるゆると読み上げると残り全員が声をそろえ抑揚を合わせてゆるゆると歌いだす。同じ抑揚が5番、10番と繰り返される。秋田の山間部の伝統的(といってもたかだか100年くらいではなかろうか)な葬儀。自分たちでうたう、というところが、地域住民の信仰心の深さと近代的思想や都市文化などからの距離感とを印象づけます。●●

なるほどね。でも、これって本当に「日本」のイメージなのだろうか? むしろ、私にとっては珍奇な「民俗」にしか思えない。そもそも「御詠歌」なんて今まで聞いたことはないし、「秋田の山間部の伝統」だと言われても、どうやって一体化したらいいか……

私自身は「御詠歌」より、西洋古典音楽を聞いていた時間総量の方が圧倒的に長いしね。子供の時にピアノを習っていて、モーツァルトやベートーヴェンだったし、メロディーはすぐ口について出る。ときには、作品番号なども知っている。キューバに行ったときも、ホテルのビアニストに5ドル渡して「K310の第一楽章弾いてね」とリクエスト。いわば、クラシック音楽は、自分の文化教養の一部になっている。でも「御詠歌」とはどこで縁を見つければいいのか?

そもそも、「日本vs.西洋」という図式を、私たちは何の疑問もなく使っているけど、これがどれだけ有効か、疑わしい。「日本」も一枚岩ではなく、むしろところどころに亀裂が走っている。ある部分は、秋田の山奥より、外国に親近感を持つ。世界は国家や民族だけで区切られるのではない。共有する文化でも区切られるのだ。

この間も、オーストラリアンの建築家とインドネシア人の舞踊家と昼飯を食っていたら、何かのはずみで「日本語にオノマトペはたくさんあるんだろ?」という話になった。そこで、日本語の擬音語・擬態語の説明をしたら、「インドネシア語ではこうだぜ」とか「英語ではね」などと結構盛り上がった。「俺たちってeducated menだな」と建築家はニコニコ。「ああ同類に出会った」という満足げな顔つきをする。考えてみれば、たしかに擬音語・擬態語について英語でしゃべり、インドネシア語と比較して冗談を言いあう人間たちにはそれなりの背景がある。そういう人間が、その場にはたまたま四人もいるのはほとんど奇跡に近い。

だから、その建築家の頭の中では、世界は自国人vs.自国人以外という国籍の対立ではなく、educatedかnon-educatedかという文化の軸で分けられている。educatedの教養には、当然「西洋古典音楽」も入る。現に、そこにいたインドネシア人に「好きなピアニストは?」と聞いたら「アンヌ・ケフェレック」と即座に答えた。こんなフランスの閨秀ピアニスト(こういう言い方がぴったりする人なんだな)、知っている日本人なんて、どれくらいいる? どうして、こういう人たちの楽しい集まりより、「日本人」なる訳が分からん観念の共同体を選ばねばならないのか?

そういえば、義弟も「俺は無宗教だから、お経だけは読んでくれるな」という遺言を残したので、敬虔な東本願寺の門徒であるその父親との間で一悶着あったらしい。親子にしてさえ、この通り。ましてや「同じ日本人」など、どれくらい信頼できるものなのか、私には分からない。 

ところで、私が葬送の音楽として選んだのは、シューマンの交響曲二番の第三楽章、ブラームスの交響曲三番の第二、三楽章、モーツァルトの交響曲38番第二楽章。それにシュッツの「キリストの七つの言葉」。最後を除けば「世俗音楽」だ。しかし、参加者は、そこに人間の生き死にを感じてくれたのか、「シンプルでいい式でした」と言ってくれた。これは西洋音楽の換骨奪胎だと思う。宗教とか地域とかの違いとは関係なく、音楽の「精神」に共鳴しているのである。

これはアートでも同じだった。昔はゴッホとか、ゴーギャンとか「泰西名画全集」で見るしかなくて、そこにコンプレックスをかき立てられたものだった。小林秀雄の『ゴッホの手紙』や『近代絵画』では、そんなコンプレックスに対して、どう居直るか、模索している様子が涙ぐましい。しかし、時代は変わった。ゴッホもゴーギャンも今は直に見ることが出来る。もう「泰西名画」ではなく、人類の美的遺産、はやりの言葉で言えば「世界遺産」と化しているのである。

私が信じる「日本人」は、そういう共鳴能力がある人々であって、原イメージにこだわってアイデンティティを確保しようとする「日本人」ではない。19世紀半ばに開国してから、日本は西洋にcatch upしようとしてきた。もちろん、それを「根の浅い近代化」だという批判もあろう。でも、いくら根が浅かろうが、150年も続ければ、もう我々の身体に食い込んでいる。だから「より古い日本」をエキゾチックと感じ、「伝統的日本」とは隔たりを感じる日本人がいても仕方がない。その意味で、私も「根の浅い日本の近代主義者」を運命として生きていくしかないのだろう。

さて、夏ももうすぐ。「法科大学院 小論文 夏のセミナー」「大学入試 慶應・難関大 夏のプチゼミ」の参加者募集しています。日本人だからといって「よい日本語」を書けるとは限らない。むしろ、「よい日本語」を書くには、それなりの文化資本を獲得するプロセスが必要なのです。我々は日本人に生まれるのではない。日本人になるのである。ボーヴォワールの言葉をもじっていえばそういうことね。

2011年6月18日土曜日

言葉の力とは何か?

言葉が大事だとはいろいろな人が言う。論理の大切さもしばしば強調される。しかし、具体的な方法論にはなかなかお目にかかれない。論理が大切だという人が、必ずしも論理的だとは限らない。言葉を尊重せよと言う人の言葉は大抵美しくない。

たとえば、猪瀬直樹の『言葉の力』。twitterで褒め言葉がやたらと送られてくるので一応目を通した。言葉の力が落ちているから何とかせねば、という趣旨は文句ないのだが、その中身は、今どきの若者はタテの関係に弱いから理解力がない。あるいは、フィンランドの教育は素晴らしい。俳句も短歌も伝統的な文章技能だから盛んにしよう。…どれもこれもどこかで聞いたようなステレオタイプの話になっている。後半は、政治談義と官僚批判、それに自分が都政でやったことの自慢話が主。

これのどこが、言葉の力を伸ばす「言語技術」なのだろうか? そもそも俳句も短歌も現在、大流行しているのだから、日本の言葉は安泰のはずでは?……こんな風に「言葉」や「論理」に対する言説には、曖昧な話が少なくない。実質的に「言葉の力を上げる」ことを目指すなら、自分なりに実証した方法の一つぐらい開陳すべきだと思うのだけど、そういう本にはめったにお目にかからないのだ。そういえば、猪瀬は前にも『小論文の書き方』という本を出しているけど、これは「書き方」についてまったく書いていないというチョー荒技を使っている。

話は違うが、この間、私はある仕事のオファーを受けた。全国規模の「論理能力テスト」をやりたいから手伝ってくれないかというのだ。問題作成者を聞いてみたら、ある予備校で教えていらした有名先生。問題はかなりのレベルだし、これはまともかも知れないと、期待して話を聞いてみたら、「私が理事長です」と出てきた人がどうもなじめない。

自分のことを「投資バンク」をやってきた「国際ビジネスマン」で海外のMBAを出たと言いながら、外国に住んだことはあまりないと口走り、投資で小金をもうけたと言いながら、問題はしばらく無料で作れと言い、将来のリターンは保証すると言いながら、直近のイベントの礼金はなかなか開示しない。どうも理屈がすんなりと流れないのだ。

とくに、問題だと思ったのは、今やっているボカボよりも彼らの仕事を優先しろと、やたらと強調すること。いくら将来のリターンが大きくても、とりあえずのコスト負担もしぶるような態度の人が、一方的に命令するのは理屈に合わない。そのうち、「論理能力テスト」が説明会をやったときに、外人の投資家らしき人もスピーチしたのだが、それを通訳した「理事長」の訳がメチャクチャだったとかいう話も耳にして……結局、我々は参加直前でキャンセル。

こんな風に、教育や言語について声高に主張する人はどっか怪しい感じが漂う。特にブロードな提案をしている人々は、眉に唾を付けて聞いた方がよいと思う。現場の経験を元にして、細かな方法論を営々と積み上げるべきなのに、偉くなった「私」というポジションを利用して、好き勝手なことを吹くのはちょっと見苦しい。

これは、誰でも、教育と言語についての体験があるせいだと思う。自分がしゃべれるから、自分が子供だったときがあるから、一定の発言権があるという気になりやすい。しかし、自分の体験なんて、かなり偏ったものにすぎない。何十年も前の狭い経験を元にして、一般的に教育や言語を批評したり、改革したりすることについては、抑制的であるべきだろう。

そういえば、猪瀬も「言葉の力」についてのテストをやろうとしているとか。都が関係するので、矛盾だらけの組織ではないと思うが、かつて『交通事故鑑定人S氏の事件簿』で、専門家からその知識不足・勉強不足・論理不整合・データの誤魔化しなどをするどく指摘されたノンフィクション作家が「作家の視点から」組織化するのでは、あまり安心できるものとは言いにくいだろう。

後になって気がついたのだが、私の所に来るtwitterで猪瀬本を賞賛する声は、すべて猪瀬自身によるリツイートだった。営業努力の一環だから、やって悪いとは言わないが、彼ほどの有名人がちょっと恥ずかしくはないのかな? 私も真似して新著『東大入試に学ぶロジカルライティング』のリツイートやってみたが(この本では非力ながら、具体的な言語技術の提示をやってみたつもり)、30分ほど恥ずかしさでのたうち回っちゃった。しかも「賛辞」は「『言葉の力』読了」とか「『仕事力』一気に読みました」などと文体も似通っている。大丈夫かこれ? 何だか例の理事長の「国際ビジネスマン」という名乗りと似たような感じがするのだが… 

結局、言葉力・論理力を上げるのは、個人が努力する他ないのだが、努力ばかりだとイヤになるから、なるべく楽しくなるように工夫する。とくに論理という性質上、そういう楽しさがなくちゃいけないと思う。説教口調を取るのは最もいけない。すぐれた論理・言葉についての本って、権威を振りかざすのではなく、むしろ楽しさを強調するものだと思うんだけどな。

まあ、ボカボは独立独歩。今度の夏も「法科大学院小論文 夏のセミナー」と大学入試用の「夏のプチゼミ」を行います。世に溢れる説教節(エラソーに振る舞いたい人は世に多い)に負けず、ロジックをきちんと通した主張をする楽しさを教えたい。真の議論を学びたい人よ、来たれ! 毎年、これらのセミナーからはたくさんの合格者が出ているから、効果も実証されているしね。今年も、暑く熱い議論の夏になるかもしれないけど、それだけが文章力・思考力を上げる方法と知っているので「やるっきゃない」という心境です。

2011年5月27日金曜日

モグラ叩き社会

原発の海水注水が55分中断した責任はどこにあるか、ということで日本は大騒ぎになっているらしい。菅総理が指示したから遅れたのだという人あり、指示していないという人あり、専門家のアドバイスに従ったからだという人あり、いや俺はそんなこと言っていないという人あり、実は現場の判断で中断していなかったという人あり、しっちゃかめっちゃかなのである。

今更そんなこと言ったって、現に原発から放射能は漏れているのだし、55分の中断が誰かの責任であることが分かったとして、状況が変わるわけではない。そもそもが原発を推進させてきたのは、今までの国・政府の決定の蓄積なのだし、それを許してきたのは国民の総意。私も、ことあるごとに原発は危険だと言ってきたつもりだが、結局、何の影響も与えられなかった。これでは、同意書名をしていたと同じ。自分だけ被害者面して、責任者は誰だ!と呼ばわるのは、もういい加減に止めた方がよい。

「リスク社会」と言うが、たぶん日本は、黙っていると責任を負わされる社会になっているのだろう。だから、我先に「被害者」の肩を持とうとする。でも、本当に自分は「被害者」の側になっているのか? 

自民党の追求がどこか見苦しいのは、過去に自分達が原発を推進するのに荷担していたくせに、急にフクシマの被害者にすり寄ったからだろう。過去の責任を負わされる前に、とりあえず他者を批判する。あわよくば、自分達が「被害者たる国民」の代表になれたら、ともくろむ。でも、それをするには、自分達が原発推進派だった記憶が少し新しすぎやしないか?

前にも取りあげた佐々淳行は、はしなくもホンネを吐いている。「福島第1原発の所長の判断を支持したい。私も警察時代、現場を見ていない上層部から下りてくるむちゃな命令を何度も握りつぶした経験がある。そのまま従うとさらに大変な事態になるためで、今回も処分すべきは所長ではなく、官邸の顔色をうかがって中途半端な指示を出した東京電力の上層部ではないか。それにしても東電の対応は危機管理の体をなしておらず、これほどあきれた組織だとは思わなかった」

つまり、彼の言によれば、日本の組織なんてまったく上意下達ではないのだ。どんなに上層部が判断したって、現場の判断の方が優先する。面従腹背は、命令服従が原則の警察も同じ。警察だって「いい加減な組織」なのだ。こういう有様なのだから、日本の権力組織はだいたい同じだろう。総理が何を言おうが、東電幹部が何を言おうが、やるべきことは現場の判断でやる。でも、もし現場が上層部の命令を「握りつぶす」組織なら、上層部の責任を追求することに何の意味があろうか?

いったい、佐々はどっちがいいのだろうか? 上意下達の権力的組織なのか、現場の判断を尊重する弾力的(つまり「いい加減な」)組織なのか。後者を是とするなら、上層部の命令に従わなかった現場責任者がいる組織は、むしろ素晴らしい組織になる。実際、自らがいた組織もそうだったと豪語している。それを「これほどあきれた組織だとは」と言ったら、現場責任者を罰しなくてはならない。天に唾するとはこのことである。

あれを叩き、これを批判しているうちに、いつの間にか自分をもぐら叩きしてしまうわけだ。本人はもう少し首尾一貫したことを言ったつもりかもしれないけど、こういう状況は普通「支離滅裂」と言われる。しかし、それに気づかないで「東電批判」を続けてしまう。けっこう論理的に素朴な人なのかも。でも、理屈の支離滅裂さに気づかないまま、平気で掲載するS新聞も相当なものである。

これを見ると、日本のコメンテイターやメディアの論理力、国語力はたしかに低い。ある評論家が言ったように、「今回の原発事故で一番感じたのが、この国の政治家や科学者や技術者の日本語の表現が下手すぎる」こと。ただ、そのために「国語教育を全面的に改革」して「書く教育」にシフトする必要があるとまで言われると、ちょっとね。さすがに、危機対応の失敗は国語教育のせいじゃないだろう。

まあ、でも、この改革は昔からボカボでも言っていたし、本当にやってくれるのなら、大歓迎なんだけどね。嘆くだけでなく、実行可能なヴィジョンも提示してもらいたいね。

2011年5月18日水曜日

感覚のリテラシーを育てる

我々は、だいたい会社や組織に属して忙しく働く生活を強いられる。コストをかけるな、利益を上げろ、とヘトヘトになるほど使いまくられる。だから、休みになると、その反動で豪勢に金を使い、暴飲暴食し、着飾ってホテルライクな空間に自分を置く。そういう富を蕩尽する生活が豊かだと思う。

でも、これらは、所詮金を巡ってのゲームに過ぎない。金の奴隷になっているからこそ、金を自分が奴隷にする幻想を楽しむ。だから、この傾向は金がない人にも顕著だ。たとえば、バックパッカーの楽しみは「いかに安い金で宿に泊まれたか?」の自慢話だ。「何円でインドを回ったか」の競争で話が盛り上がる。我々は、生活のコストを考え、そこから逆算するから、やるべき事が自動的に決まってくる。だから生活に追いまくられる。

自由を楽しむには、金銭比較というラットレースを超越しなければならない。金という共通尺度より、自分個人の感覚を優先する。その自由さがどうやったら、身につけられるのか。人生は短い。自由を実現しようと思ったら、そのための準備をしておかなくてはならない。そうしないと、物質的・金銭的に自由になってからも、忙しく働いていた頃の生活に取り憑かれる。

試験のための勉強を教えていると、よく「合格までの最短の道を教えてくれ」と言われる。焦っているから当然の質問なのだが、こういう短絡は結局上手く行かない。「…のために」という発想でいると、そこから一生抜け出せない。「合格のために」「就職のために」「より金を稼ぐために」。自由は先送りされ、遠くの目標はおぼろげに霞む。いつの間にか、勉強のイメージも苦役にしか思えなくなる。外から明確な目標を設定されなくなると、やることを見失う。「自分は一体何をしたいのか?」

活動のすべてにおいて、個人的に楽しむ余地を見つけること。これしか、自由へ至る道はないように感じる。読書しても勉強しても、組織が要求してくる目標とは別に、どこかで自分流に歪め、工夫する領域を見つけること。法律の文面の中に哲学を読む、とか、経済の中に文学を見る、とか。最短どころか、できるだけ遠回りして、そのプロセスをあれこれ楽しむ。それが、自分のもっている指向を発見させ、外の世界に流されない自分なりの指針=リテラシーを作る。その抵抗の感覚が分からないとね。

ボカボでは、たしかに受験対策のプログラムも提供しているけど、その裏にはこういうポリシーが貫かれている。学校に入るのは直前の目標だけど、その後のヴィジョンと結びついてはじめて意味が出てくる。我々は、受験準備の中で、その手がかりも提供してきた。また、講師と受講者、および受講者同士の議論・歓談の場を拡げてきたし、「公共の哲学を読む」などの講座も充実させてきた。こういう方向は、これからさらに力を入れていきたい。

直前の目標しか目に入らないと、現実との結びつきを見失い、過去に体験した一番簡単な快楽しか見えなくなる。それを世間では「娯楽」というのだが、所詮貧しい生き方にすぎない。養老孟司が言った「バカの壁」とは、そのことをいう。アメリカの評論家スーザン・ソンタグは「なぜ、あなたみたいな知識人が、CBGB(当時のNYの有名ディスコティック)なんかに行くのか?」と問われて「私はドストエフスキーを読んでいるから、ダンスをより楽しめるのよ」と答えたとか。

世界をより楽しむために、感覚とイメージを広げるために、豊かな世界を経験するために、それを他の人にも伝えるために、勉強はある。旅も議論も読書も同じこと。それが信じられない人は、一度ボカボに来て欲しいと思う。

2011年5月1日日曜日

来る人と来ない人

オープニング・セレモニーの日が三日後に近づいた。出席者はざっと数えてみたら70人くらいで、大きな儀式ではない。ただ、この地域の慣習として、やらないではすまされない。あまり高くつかないことを祈る。

どうしても必要なのは、お坊さんの読経と闘鶏。とくに闘鶏は、お浄めとして欠かせない。土に血が流れなければ、bad spiritを押さえ込めないらしい。こちらの友人たちも、いろいろ踊ったり演奏したりしてくれる。仮面ダンスとかワヤンクリ(影絵芝居)とか、声をかけるとさっと集まってくる。お金なんかいらないよ、ぜひやらしてくれ、と言う。ありがたいことだと思う。

めったにない機会だと思うので、日本の友人たちにもいろいろと声をかけておいた。だけど「行ってはみたいけど余震が…」という人が多い。天災は一人一人心配していても、しようがないと思うのだが、やっぱり不安らしい。

その中でやってくる人もいる。職業もいろいろ。主婦、大学の先生、ビジネスマンなど。忙しいのに、無理して休みを取った人もいる。逆に、自由業で時間が取れるはずなのに、なかなか来れない人もいる。この違いは時間が取れるか取れないか、という環境の違いではない。

来た人たちに際だっているのは、個人の意思が明確にあることかな。たとえば、70代の女性は、娘から言われて、あまり外国に行ったことはないのに、急に来てみようという気持ちになってやってきた。地震とか放射能とか、オタオタ迷走する女性をたくさん見てきたので、彼女の決然たる行動力には驚く。「だって、東京にいると色々嫌なことが多いのですよ」

そういえば「外国に家を作る」と言ったら「仕事がなくなるぞ」と脅かされたことがある。「編集者との付き合いが減って依頼が来なくなる」そうだ。私は編集者とつきあって仕事をもらう形ではないと言ったら、「それでもやっぱりなくなるよ」と言い張る。「海外情報など書く内容を変えるんだな」ともう一人もよけいな口を挟む。

反論しても仕方がないと思ったので黙ってしまったが、こういうムラ的発想とは付き合いにくいな。出版界だとか言論界だとか、狭い世界の中でやりとりして、仕事をした気になっている。インターネットとか情報社会とか言っても、結局、基本は「顔を合わせる範囲」に交際は限られているのだね。その中で「仕事をやった」「もらった」という互恵関係を結ぶ。

だから、他人の意向をつねにうかがう姿勢ばかりが身につき、世間の空気にも敏感になる。「結局は、人から可愛がられるかどうかで決まるね」。嫌だなー、この同調圧力は。

今回の地震・原発騒ぎでも、出所の分からない「自粛ムード」が広まり、その趨勢に乗った「意見」を生産するという傾向が強い。知り合いに聞くと「震災後の何々」(何々には自分の専門分野が入る)という原稿を現在書いているよ、と自慢げに言う。「烏合の衆」というか「付和雷同」というか、そういう行動も自粛してもらいたいと思うのだが…

もちろん、私は「来なかった人たち」が皆こういうムードに流されているなどと言うつもりはない。それは明らかに言いすぎだ。親の介護をしているとか、病気になったとか、仕事が忙しい、とかそれぞれの事情は大変だ。しかし、それでも「来る人」は他人の都合より自分を優先させてやってくる。共同体と自分を切り離すやり方をどこかで知っているということなのかもしれない。

そもそも、共同体に貢献しても、最後は裏切られる。個人には寿命があり、貢献できる体力もやがて失われる。そのときに、共同体は個人の面倒を見てくれるか? 現在の日本の状態を見ていると、それは望み薄だ。むしろ、代替がきく人間は、さっさと捨てる。その方が社会にとってのコストは少ない。個人にできるのは、お金を貯めて自分で自分の面倒を見られる環境を作ることぐらいだ。それだって、ほとんどの人が十分実現できない。

そういえば「仕事がなくなるぞ」と言った人は、病気で倒れてリハビリ生活になった。企業戦士が病に倒れる構造のようで、何とも心が痛む。世間の基準に従って頑張るだけだと、個人の身体は確実に蝕まれる。どこかで切り離さないと、共同体の方を向いている間に、あっというまに自分の寿命が来てしまう。これは悲劇だ。

そういう意味で、今回来た人は、どの人もキャラクターがハッキリしていて、悲劇にはなりそうもない。周囲から何を言われようと、自分の興味関心は自分のモノ。地震や津波があろうが、それが何か? もちろんこういう人たちは、一人一人は同情心に溢れているし、礼儀正しい。きっと、地震・津波の被害者たちにも何か貢献しているのではないか、と思う。

でも、それと日本から離れるのは別。自分がこれから残された時間をどう生きたいか、それぞれが独自の思考をしている。先の70代女性も、東京郊外の農家の生まれで、そのときの暮らしぶりをここにも見たらしい。「戦争までは、お神楽を皆で練習したり、お寺の祭礼に一生懸命になったり、こことまったく同じでした。それが戦争に負けてから、外から人が入ってきたり、昔からの人が出て行ったり、で、こういう生活がなくなっちゃったんです。昔の日本そのままですよね」と懐かしがる。

彼女のイメージが、どれだけ正しいか私は分からない。しかし、ここに来ることで自分のルーツに気づき、もう一度その幸福の原点に戻りたいと感じる。その願いは理解できるし、ぜひ実現して欲しいと思う。地震・津波・原子力などという世間を浮遊する話題とは別に、自分の生き方をどうするか、どう実現するか、という話は確実に存在する。世間との間を往還しつつも、そこに気づき、しっかり自分にフォーカスしている。それが今回やってきた人の特徴かもしれない。

2011年4月16日土曜日

「風が吹けば、桶屋が儲かる」のではない生活

用事があって、しばらく日本を離れている。とはいっても、これは去年から決まっていたことなので、放射能とは関係がない。でも、成田に行ってみると、窓口はガラガラ。地震後の外国人の殺到を除いては、ずっとこんな調子らしい。「照明は暗いし、暇で仕方ない。何だか気が滅入ってしまいますよね」とスタッフは言う。

友達に聞いても、余震も続いているし、旅行なんて気にはとてもなれないとか。「あなたが心配しても、余震はなくならないよ」という言葉が口元まで出かかる。それでも、旅行する人はする。この間、vocabowで講義してくれたF講師など、「バリでceremonyやるんですってね。私ももうキップを買いましたよ」と言う。おお、バリで会おうぜ。

社会がどう変動しようと、自分が行きたいところには行く。プライヴェートとパブリックを分ける。社会の何だか不安な気分に押し流されない。現代では、そういう自律性、個人性が必要だと思うけど、たいていの人は自分の気持ちで動いているつもりで、社会の気分に流されている。

グローバル化する世界とは、世界の片隅で起こったことが、何かの通路を伝って自分にも影響を与えるシステムのことだ。「北京で蝶が羽ばたくと、カリブで台風が起こる」んだったっけ? それとも「福島の原発が壊れると、日本の子供がガンになる」か?

この連関は「風が吹けば、桶屋が儲かる」という仕組みとどこが違うのだろうか? 「風が吹けば、桶屋が儲かる」は明らかに現実妥当性がないと分かっているけど、原発はどうか? でも、その関連は考えれば考えられるから、人々は期待したり怯えたりする。いわゆるspeculation=憶測の暴走という奴。そのあげくに自縄自縛になる。それがグローバル化・情報化の必然的な帰結だ。

実際に被害がありそうなのは、チェルノブイリでもそうだったけど、原子炉の後片付けに当たっている人たちだろうけど、そういう人たちは発言しない、あるいはできないシステムになっているから、外野の「俺たちの健康はどうなるんだ」という声ばかりが大きい。「君たちには関係ないよ」と言っても、「同じ日本にいる俺たちに関係がないわけはないだろう。何か隠しているな」と勘ぐる。

つまり、問題が大きくなっているのは「放射能」ではなくて、むしろナショナリズム=国民の一体感が原因なのだ。アンダーソンも言っていたけど、国の片隅で起こったことで、自分が一度もその土地に行ったことのない事件であっても「自分のこと」のように感じる。それがナショナリズムの成立に欠かせない。

そういう意味で言えば、福島の原発のことで一喜一憂して発言するのは、国粋主義からすれば、ナショナリズムの発揚として、まことに結構なことだ。一体感がなければ、一時期の外国人たちのようにさっさと日本を後にすればいいのだ。だが、たいていの日本人たちは一時期逃れても、いつかは帰ってこなければならない。原発事故を逃れて、赤ん坊を連れてバリに逃げてきた母親だって、観光ヴィザなら一ヶ月以内で帰らねばならない。むろんその時に問題が解決しているはずはない。結局「放射能との共生」を選ぶしかないのだ。

したがって、これから日本人のアイデンティティにはヒロシマ・ナガサキに続いて、No more Fukushimas! が付け加わるだろう。原爆が東京タワーを何度も壊すゴジラという国民的悪夢を生んだように、原発も何らかのトラウマを残し、それを鎮める物語が量産されるはずだ。しかし、作っても作っても悪夢は終わらない。「複式夢幻能」ならぬ「フクシマ無限能」だね。

もうこの状況は仕方ない。だが、そこに巻き込まれるだけでは、個人はやっていけない。ある友人が言っていたが、「三半規管と心情が傷つく」のだ。社会と自分の絆をいっぺん切り離し、自分で自分を安心させる状況を作り出さねばならない。音楽でunpluggedという言葉があった。電気楽器ではなく、ギター一本で音楽を作る。それでも音楽という喜びを作れる。

同じことを生活でもすべきだと思う。電気・水・ガスを公共に頼らないのは大変だから、少なくとも気分をunpluggedにする。そのためには、情報化のチェーンのの外に行ったん出る。新しい人と会う。居場所を変える。新しい食べ物を試す。そうして、自分がいた世界を外から眺め、そこにいなくても十分充実できる自分を確認する。「平気で生きている」(正岡子規)ための環境を作って、自分を確保するのだ。

日本人が世界に示せる生きる姿勢があるとしたら、そういうことではないか。おやおや、何だかまたナショナリスト的発言になってしまった。この問題について言うと、必ずこうなる。自重しよう。

Fさんよ、早くおいで。一緒にバビ・グリン(豚の丸焼き)を食おうぜ。

2011年4月7日木曜日

アタリのはずれ方

先週の日曜日は「公共の哲学―レイチェルズ」最終回。すごく面白かった。倫理学というと、細かな話を延々聞かされたトラウマがあったのだけど、今日の藤原講師の話には納得。カントの定言命法に何で2つの表現方法があるのか、ずっと分からなかったのだが、結局その謎は読んだ人は皆感じていたらしい。なーんだ、私の直観もまんざら間違っていなかったのだ。

「小室直樹博士記念シンポジウム」もそうだったけど、この頃、若い頃に抱いた疑問が、結局それで良かったんだ、と思うことが続いている。昔は、自分の方が悪くて、学問的能力がないのではないか、あるいは、その学問の方法に向いていないのではないか、と迷っていたのだが、何のことはない。学問の方を私の直観に合わせて評価すべきだったのだ。

学問は、所詮、現実の不完全な写しなのだから、現実に合わせて変えるべきだ。そうやってみると、学問はどれも面白いし、ためになる。その学問には、それぞれやり方があるのだけど、少なくとも人間が抱きそうな疑問には何とか応えようという志がある。

若い頃は、この「学問の誠実さ」が信じられなかった。もちろん、それは当時の学問も良くなかったのだと思う。権威主義的で「青臭い疑問」など門前払い。でも、この前の講義では、そういう「疑問」まですべてフォロー。カントだから偉いのではなく、変なところがあれば遠慮なく批判する。こういうリベラルな態度が一般的になったとしたら、学問の「気詰まりな感じ」がずいぶん解消される。

それでも、まだ権威主義は残っている。とくに、今回地震・津波・原発事故への論評を通して、ぞろぞろと妖怪みたいに復活したと思う。

たとえば、その極端な一例がフランスの思想家ジャック・アタリ。彼は、今度の原発事故では「日本は世界に放射能をまき散らしている。日本政府・東京電力にまかせていては解決できないので、欧米先進国がコンソーシアムを組んで、原発事故に介入すべきだ」と主張した。欧米が協力すれば、最新技術も使えるからもっと速く解決できる、と。(日本語訳)原文はこちら

実は、これ、浅間山荘事件で名を上げた元警察官僚佐々淳行とそっくりの発想になっている。佐々は産経新聞で「統治能力を喪失した日本政府に任せておけぬ。日本の『賢人たち』を集めて(岡本行夫、国松孝次etc.)対策に当たれ」と主張した。とくに「カナダには高性能な化学消防艇があるので、世界各国に協力を呼び掛けて日本へ集結させるべきだ。これは危機管理の問題でなく、政府に統治能力が欠如している『管理危機』の問題だ」ともコメントしている。

これについては「そのカナダ艇は誰が操作するのか?」と痛烈な批判がなされた。「東電職員に訓練させて操船から放水までさせるのか?…そもそもカナダから太平洋を渡って日本まで持ってくるのにどれだけ待てばいいのか?それ以前にそのフネは外洋航行能力があるのか? そもそも高性能消防艇だったら、わざわざ海外から引っ張ってくる必要もない。日本の海洋保安庁にも世界最高水準の消防船が存在するのだから」考えてみれば当然。要するに現実性ゼロの空論なのである。

同じ批判がアタリにも当てはまる。日本政府・東電を隠蔽体質だと大所高所から決めつけ、国際社会が介入すべきだと言いつのる。反対に、国際社会の能力には過大な期待を割り当てる。「この協議会が動き出せば、国際コミュニティは、飛行機、ヘリコプター、消化ホース、ロボット、無人機、そしてコンクリートミキサーなどをためらわずに日本に送る」ことができるらしい。「日本の賢人」が「協議会(コンソーシアム)」に代わり、カナダの消防艇が「ロボット」「無人機」に入れ替わっているだけ。議論の構造はまったく同じなのだ。

でも、そもそも「ロボット」「無人機」は誰が操作するのか? その訓練期間の間に事故が拡大したらどうするか?「消火ホース」を現場に運ぶのはフランス人なのか? それに「消火ホース」なんて、もう日本にあるのでは? それを日本の消防車につなぐ口金は合うのか? それに、日本って「ロボット大国」ではなかったっけ? フランスの技術はそんなにいいのか? 

こういうのは「ためにする」議論の典型だろうね。狙いは別の所にあるのだ。佐々の場合だったら、現政権の力を削ごうとするのが主目的。だから「弱い政権の時に災害が起きる」と怪しげな議論をして「賢人」たちへの幻想を煽る。アタリも日本の政権・東電の信用を失墜させ、国際社会の利益とやらに結びつけようとしている。その目的は、現在の「原発ルネッサンス」と言われる状況を考えればすぐ分かる。

原発の技術は新興国のエネルギー源として期待され、先進国からの輸出品の一つになっている。その中で、どこの国がイニシアティヴを取るか、熾烈な競争が行われている。その中で、日本は世界の実験場になっているのだ。原発が事故ったら、どういう事態になるか? どのくらい人的・物的被害が出るのか? コントロールするには、どんな技術や行政手段が必要か? 残念なことだが、これからは日本に起こることはすべて原発開発・原発輸出のための貴重なノウハウになる。原発大国フランスがそれを欲しくないわけがない。だから、救援すると称して何とかデータを持ち帰ろうとしている。これは、意地悪い見方だろうか?

それをもっとおおっぴらに強権的にやろうとしているのが、アタリの議論だ。佐々が、民主党政権を何とか骨抜きにしようとするのと同じで、日本の政権をスルーして、自分達がフリーハンドに振る舞う通行手形を持ちたい。それを「国際社会」という通りの良い言葉でやろうとする。冗談にしても、植民地意識、帝国主義のフレイバーがきつすぎる。だいたいフランス人からこんなことはいわれたくないもんだ。「50-60年代にさんざん核実験を繰り返したフランスは、もはや統治能力を喪失している。国際社会が介入して、核実験をやめさせるべきだ」なんて主張したら、当時のフランスは受け入れたかね? まさか。

今の状況は幕末に似ていると思う。内輪もめしている間に外国が手を突っ込んでくる。原発で騒いでいる間に、日本の国力が弱まったのではないか、とロシアは戦闘機を飛ばしてくるし、韓国は竹島を、中国は尖閣諸島を支配しようと画策する。そういう現実が国際政治なのに、「国際的なコンソーシアム」なんて大風呂敷にだまされるなんてアフォーの極みだ。

だいたい、フランス人が入ってきて、どうやってコミュニケーション取るのか? その通訳は誰が用意するか? それとも、フランス人たちは「どいてろ、俺たちがやる」と好き勝手やるのか? さんざん引っかき回して「結局うまく行かなかったよね」と帰ったら、誰が責任を取るのか? 

必要なのは、具体的で実行可能な提案だし、最後まで責任を取る人間だ。それなのに「ミッテランの補佐官をしたフランスの大知識人にこんなことまで言われている日本は問題だ」などと、お先棒担ぐ日本人がいるのには驚く。今だに「フランス知識人」のご威光は衰えていないらしい。しかも、それが海外在住とか「世界事情に詳しい」とか自称する人間がやっているから、西洋かぶれというか、権威主義の奴隷というか。

今回の地震報道は、その意味で、東西のジャーナリスト・知識人の知的レベルに関する試金石になったと思う。「放射能」におびえて、職場放棄して本国に逃げ帰ったアメリカのスター記者もいたし、ドイツ気象庁の放射能拡散予測を意味も分からず、転載した日本の大新聞もあった。いずれも、脳内炉心溶融を起こしているとしか思えない「失敗報道」「失敗論評」の山々。惨憺たるものである。このジャック・アタリの発言も、威光にだまされず、冷静に評価するという機会が持てた、と考えれば、我々にとってよい経験だったのかも知れない。

2011年3月30日水曜日

ツイッターは議論の水準を上げる

ツイッターで原発の問題分析の記事が色々まわってくるが、その中に「二項対立」という言葉があった。「ああ、やっとここまで来たのか」と感慨を深くした。「デマ情報が多いとか」いろいろ言われてきたが、ツイッターには、確実に国民のリテラシーを上げる効果があると思う。

言及されていたもともとは「日経ビジネスオンライン」に書かれた武田徹の記事で、原発問題をゲーム理論の「囚人のジレンマ」を使って分析したものだ。つまり、原発賛成派と反対派が相手を信用しないために、自分だけの利益を図る構図に陥って、結局最悪の選択をしてしまった、というもの。たとえば、両者が互いに譲らないために、原発を推進する/反対するの間に妥協が生まれず、原発は存続するのだが、新しい原発の建設が不可能になり、その結果、すでに取得済みの用地に複数建てざるを得ず、福島のように、同一敷地内に6基の原発が並ぶというリスクに極端に弱い構造が出来上がったという。

これは、情報開示についても同じだ。池田伸夫も言っていたが「原発は絶対に安全か?」と問われれば、科学者は安全とは言えない。なぜなら、どんな場合でも確率的には可能性があるからだ。でもそう答えると、「では危険なのだな?」と突っ込まれるわけだ。「いや、そうはいうけど、その確率はとても小さい」などと答えようものなら「確率なんかで誤魔化すな。もっと簡単に言ってくれ。安全か危険かどちらなのだ?」(「朝まで生テレビ」の田原総一朗の口調を思い出してもらいたい)と詰問される。これじゃ答えるのはやんなっちゃうよね。

こういう関係にならないためには、とりあえず「絶対安全です」と言わなくてはならなくなる。その結果として、ちょっとした不具合も外に出せなくなる。とりあえず内部で処理して「ないこと」にするのが一番楽だということになりかねない。でも、これが東電の「隠蔽体質」と言われるのなら、ちょっと気の毒な気もする。「隠蔽体質」を作り出しているのは反対派の攻撃の仕方だ、とも言えるからだ。

実際、我々は「危険か安全か」などという「あれかこれか」という世界に住んでいるのではない。「危険」はなだらかに減少して「安全」につながっているし、「安全」も次第に危うくなって「危険」につながるという構造になっている。それなのに、不信感に凝り固まって「危険か安全か」を争うことで、よりひどい状態を引き起こす。つまり、今度の事故も「人災」というが、その責任は、東電など原発推進派だけにあるのではなく、原発反対派にも存在しているのだ、ということなのである。

こういうメカニズムがあるから気をつけようよということは、私は前からいろいろなところでちょくちょく言っていたのだが、今ひとつ理解されないと感じていた。「二項対立」というと、ただの「対立」と取られてしまうのだ。二者が対立しているのは当たり前だろう、というのである。

そうではない。「二項対立」は、対立のどちらかが正しいのではなく、対立するというあり方そのものが病的で、さらに問題を増やしている、という含意がある。でも、普通人は「対立」があると、どちらかが正しいにちがいないという思いこみがあるから、そういう言い方をすると「誤魔化すな」とか「どっちの味方なんだ」とか責められる。言っても言ってもわかってもらえない。結局損な立場に追い込まれる。やんなっちゃうな、という感じなのだ。

しかし、今度ツイッターに出てきたということは、「二項対立」はほどなく日常の日本語の言葉に入ってくるはずだ。これで、一つ日本人の言語リテラシーが上がった、と言ったら言いすぎだろうか? 少なくとも、新しい概念が使いやすくなるので、私はずいぶん活動がしやすくなる。頭が悪い人は、それでも反対・賛成と対立を繰り返すだろうが、普通の人たちはそれだけでは「何だかな」と疑問を感じ出す。

ある反原発活動をしている外国人が書いていた。「反原発というと、原発推進派はすぐ『電力は要らないのか』と詰問するけど、我々が主張しているのはそういうことではない。原発を唯一のエネルギー源としてではなく、可能なエネルギー源の一つとして、きちんとその損得を評価しましょう、ということだ。そのための情報をきちんと開示してもらいたい」。

この主張を日本人が言ったらどういうことになるか、すぐ予想できる。まず反対派から「原発を容認するのか、裏切り者!」と総スカンを食うだろうね。一方で、推進派からは「口当たりのいいことを言っているが、どうせ開示したら、曲解して批判しまくるだけだろう」と疑われる。コミュニケーションの通路をつけたつもりが、両者から攻撃され、後は「多数決」という機械的な決定プロセスに参加するしか許されない。これは不毛だと思うね。

ツイッターというメディアを使ったことで、「二項対立」がどういうものかも実感できるようになったと思う。一つの意見が述べられても、すぐそれに反対意見が述べられる。さらに、その反対意見も吟味される。対立の根源が分析されたり、両者の偏りが出てきたりする。それを他の人が見ている。ときには、自分も参加する。この中で議論が深化する。その場が時々刻々と状況によって変化する。

こういうメディアは今までなかった。たいていは、対立が固定化した後で、マスメディアが両論併記という形でまとめる。視聴者は傍観者になるか、どちらかの立場に立って活動家になるか、の選択が残されるだけ。こういう政治対立の図式が、ツイッターというメディアがあることで、すっかり変わるかも知れない。これは、とても刺激的だ。言論の中身より、言論を担う役目のメディアの変革が、言論の内容を変えるという状況はちょっぴり悔しいが、社会の変化なんて、結局そんなものなのかもしれない。とりあえず、この変化は歓迎せざるを得ない。頑張れ、ツイッター!

2011年3月27日日曜日

地震酔い?

地震があった日から、何となく私の環境世界は変わってきた。風呂に入ると、水がゆらゆら。「すわ地震か?」どうも違うらしい。道を歩くと、道面がいつもよりでこぼことうねっているように見える。地下鉄の通路を歩くと、壁面に向かってはげしく傾いでいる。どうも地震以来、私の三半規管はちょっとばかり変化したようだ。

地震酔いと言うらしい。「船酔い」と同じで三半規管に異常を来すというのだが、はたしてそうか? むしろ、今まで気がつかなかった揺れや傾きに敏感になったせいではないのか? 耳鼻科に行く人が増えたらしいが、私は「治療」するのはもったいないな、と思う。

なぜなら、この感覚は、昔、舞踏のグループに入って始めてスキンヘッドになったときの衝撃と似ているからだ。「舞踏やるなら髪ない方がいいね」とリーダー麿赤児に言われて剃っちゃったのだが、それから数日は何というか、至福の時だった。世界の事物を頭のてっぺんで直接感じられるからである。

たとえば、雲が太陽の前を横切る。頭のてっぺんがすーっと寒くなる。半分だけ翳るとクールさも半分。いちいち見て確かめなくても、何が世界で起こっているかすっと分かる。僧侶が剃髪するわけが分かった。世界の相貌が違って現れ、その相対性に気づくのだ。美しさの裏に衰退を見る。快楽の中の空しさを気づく。堅固さのうらにもろさを感じる。当然、解脱しやすくなるだろう。

今度の地震は、つまり、そういう感覚を鋭敏にした効果があったのではないか? 消費で満足を得てきた生き方がふっとイヤになる。頑張って働いてきた自分が疲れはてていることに気づく。目標に必死になってきたことが何の意味があったのかと思う。自分はいつまで生きていられるのだろうと疑う。そういうことだ。

経済学者やビジネスマンたちは「通常の生活を取り戻せ」と叫び立てている。消費を減らすと日本経済はダメになるというわけ。だが、たぶんそう簡単には通常の消費は取り戻せないだろう。だって海を見ても、そこに津波の映像が二重写しになるからだ。地面を見ても、それが危うい基礎であることを思い出し、確かに思えない。

地下鉄の駅だってそうだ。照明が暗くなった。ちょうど15年前のNYのように薄暗い。でも、そんな暗さでも何とかなっている。「あの明るさは必要だったのだろうか?」私たちは、そんな気分をボンヤリ感じている。そして、前に戻る必要はないのだと確認させられる。

もちろん実際的には、地震のことは半ば忘れて、日常生活にもう戻っている。地震前と同じように原稿を書き、添削をし、メールを出し、人と打ち合わせする。でも、そこに何だかそこはかとないブルーノートが混じる。「どうせ、こんなことやったって…」。倦怠感というのか何というのか。

こんな気分は、被災地の人々のことを思うと申し訳ないと思う。彼らは生きるのに必死だからだ。それを出来るだけかなえるようにするのが、被害が少なかった者のつとめだろう。だが、それとは別に、私たちの気分(エコノミストは「マインド」と言うだろう)は決定的に変わったように思う。死をもたらすもの、衰退をもたらすものとも共生していかなくてはならない。そういう覚悟/あきらめがそこはかとなく漂う。

しかし、それは決して悪いことだけではない。なぜなら、それはもともと存在したものだからだ。それを見ないようにしてきたし、忘れようともつとめた。その結果として、我々は鈍感になり、存在も忘れられたのだが、今度の地震を機にまた感覚世界に入ってきた。それに反応して、我々も敏感さを取り戻したのである。

昨日、久しぶりに本屋に行った。市場調査のつもりだったが、新書のコーナーに行くと、あまりの多さに「気が違っている」としか思えない。この大量の書物は何だったのか? どんな意味を私たちに与えてくれたのか? 新書の世界で仕事してきた自分がこんなことを言うのも何だけど、本当に価値ある情報だったのか、紙の無駄だったのではないか、深い疑念が湧いてくるのである。きっとこんな疑いの目で、他の人も新書の山を見ているに違いない。

近頃プラトンを読んでいる。病院など待ち時間が長いせいもあるのだが、彼の対話篇がいちいち腑に落ちるのだ。もちろん内容自体には異論がないわけではないけれど(「魂は不死である」なんて言われてもね)、対話を求める者には真摯に答えていこうとする姿勢が感動的なのだ。

メディア・リテラシーとか言うけれど、何のことはない。知識情報の出所を確かめることと、それから推論するロジックの吟味だけが手がかりなのだ。「思いなし/思いこみを吟味する」という意味で、プラトンの対話篇の精神は最初のメディア・リテラシーかもしれない。

確実に堅固な地面ではないけれど、とりあえず揺れの少ない、あるいは揺れを少なくしようという志を持つ。そういう志が、地震酔いの時代に手がかり=照明となる。自分の書く本も、そういう姿勢を分け持たねば、と思う。そのためにこそ、今までの感覚器官までも変化したのだと考えたい。

2011年3月19日土曜日

社会リスクとしての新聞報道

社会の中には一定数のバカが存在する。しかも、そのバカが誰かは決まっていない。場合によって、さまざまな人がバカになり得る。こう書いている私もバカになり得る。それまで蓄積した知識や情報量は多少関係するけど、決定的ではない。では、バカを直すにはどうするか? 誰かから「バカだ」と指摘してもらうしかない。それを繰り返せば、情報の氾濫に慣れて勘が働き、バカになる確率は減る。

その意味で言えば、今の新聞は、バカを直すチャンスを受けにくい仕組みになっていると思う。その結果、素人目にも明らかなデマ記事が出てくるようになった。象徴的なのは、福島県の病院の患者が21人亡くなったことが「院長が見捨てた」と書かれたこと。私は、当初からこの報道はおかしいと思ったが、その病院に勤めている看護師の息子がtwitterで懸命に発信したことで、真相が全く違ったことが分かった。
▶福島・双葉病院「患者置き去り」報道に関する情報

驚くべきは、新聞記者たちが、この情報の真偽に対して、まったく勘が働かなかったこと。未曾有の災害の中だから、事実が混乱して伝わることを勘定に入れねばならない。ちょっと考えれば「変だ」と思うはずだ。それを確認しないで、読者のウケが良いからと「専門家をaccuseするステレオタイプ」で煽る。

どうしてこうなっちゃうのか? これはtwitterのシステムなどと比較してみればすぐ分かる。twitterでは、デマ情報が出ても、それに対して様々な人が検証し、訂正する道が開かれている。つまり、送信はすぐreactionを生み、第一次情報に溯って、その真偽の検証に通じる機構があるわけだ。これは政府情報でも同じ事だ。不正確な情報を出すと、メディアやインターネットで叩かれる。だから慎重になる。

ところが、新聞はそういうチェックがきかない。いったん発行するとreactionまでに時間がかかる。だから、間違いをしても、なかなか訂正されない。そのうちに、世間の方が事件を忘れてしまう。裏を取らないままにaccuseし、ぼろが出ても謝罪と訂正をしない。謝罪しても、ほんの片隅に載せるだけ。その結果、事実の確認なし・論理性なし、とにかく注目を引きそうな方向に突っ走る。いきおい政府の慎重さに対しては「情報を隠している」と居丈高になり、不安におののく大衆を決まり文句で煽りまくる。しかし、専門家の意見はまったく違うのである。
▶日本の原発についてのお知らせ;英国大使館

もちろん、twitterを使う人々が特別賢いわけではない。しかし、少なくとも間違った/不正確な/行き過ぎの情報には、即座に何らかの反論・訂正が出てくる。結果的にせよ、デマを出したら強い非難が来ると覚悟しなければならない。その結果「「自分が間違っているかも知れない」という前提の元で発信するという謙虚さが生まれる。システムが人間の賢さを育てるというのか。

新聞には、その謙虚さが機構上形成されない。そのため、バカが矯正されないまま拡大される。今までは、そのコストを甘受しても、それしかないから使っていた。しかし、別なメディアが出てきてより正確な情報を伝えられるなら、新聞は、もう社会に貢献する価値はない。むしろ最後のあがきとして、ますますセンセーショナルな報道に走り「報道災害」を引き起こす。

たとえば、福島原発への放水。現場としては、空から放水しても効果は少ないという判断だったのではないか。無駄に自衛隊員を危険にさらすわけにはいかない。最悪の事態になっても、スリーマイルと同じく10km程度の立ち入り禁止で済むのなら、放水する意味はない。しかし、何か形を見せないと新聞が「政府が無能だ」と叩きまくる。だから、写真写りの良さそうなヘリコプター放水という方法を選んだ、としたらどうか?

もちろん、これは単なる空想にすぎず、事実はそうでないだろう。しかし、新聞の体質は、いずれこのようなポピュリスト的選択に政治を追い込むだろう。この傾向に抗するには、記者自身の資質をよほど高めねばならないと思うが、そろそろ手遅れなのかな、という思いを強くした地震報道の今日この頃でした。


●現地からの津波体験レポートが届きました。南三陸町発。仙台在住の小野寺宏さん記述です。


●H・S・Pのメンバーの仲間から届いた医療情報Linkを作りました。このページの右上、vocabow toppageにもリンクを張ってあります。被災地での医療活動に役立てていただければうれしいです。

2011年3月17日木曜日

災害と品性

確定申告の最終日だったので、税務署に行った。去年の最終日は長蛇の列で、税務署の建物を取り巻いていたのだけど、今年はほとんどいない。並んだら、あっという間に順番が回ってきて、「はい、これで提出完了」ということになってしまった。

地震・津波の影響があるから、提出期限を過ぎても多少は良いのだろうけど、それでも驚いた。別に、東京は大した被害を受けていないのだから、確定申告ぐらいやってできないわけではないと思うのだけど、「地震だから」というので止めちゃったのだろうか?

別に、私は税務署の味方ではないし、「税金を納めましょう」という側でもないけれど、こういう態度には何となくいい加減さを感じてしまう。本来的には、やりたくないことなのだから、なるべく言い訳を見つけて、先送りしようとしていると言ったら言いすぎだろうか。

これは、首都圏で食料やガソリンなどを買い占めをしている人にも言える。なくなったのは、即席麺だとかパンだとか、すぐ食べられるものばかり。魚や野菜などの生鮮食料品はたっぷりというわけではないけど、充分残っている。築地でも、魚は買っても冷蔵庫が必要なので、値が下がっているとか。

これも、税金と同じで「地震だから」ということで「今日は料理できないから、カップ麺ね」と都合のいい言い訳に思える。東京二十三区内は「停電」はない。今日明日の分くらいなら、充分火は使えると思うのだけど、「料理は嫌い」という気持ちがあるから、地震にかこつけて止めてしまう。怠惰って本当にしようがないね。

そのくせ「計画停電」が計画通り進まなかったからと「混乱が続く」などと文句を言う。計画なんて言ったって、ざっくりやっているだけなので、少しぐらいずれたって仕方ないだろう。もう「計画停電」なんて呼ぶのを止めて、天気予報みたいに「電気予報」と呼んで「今日の確率60%」なんてした方がよいかも知れない。

インドネシアなんて、いつ停電になるか分からない。電気が付かなくなって始めて分かる。それで人間が死ぬ訳じゃないのだから、この非常時に文句は言わない方がよい。担当者は生活レベルの電気使用だけでなく、マクロな影響も考慮しているに違いない。普段気づかないけれど、それが結局は生活の基礎を形作っているのだ。

東京は大した被害はなかったのだから、速く日常に戻れよ。疑心暗鬼になっておたおたするな。みっともない。たまたま乗ったタクシーの運転手さんもそう言っていた。私もそう思う。

一般的に、修羅場に対面すると、その人の品性がじかに出てくる。今度もtwitterなどを見る限り、ずいぶん「みっともない」姿をさらした人がいた。はやばやと東京を逃げ出したり、執拗に政府とメデイアの結託を主張したり、臆病さと政治が入り交じる。学歴とか職業とか関係ないね。その様子が白日の下にさらされると考えれば、今度の地震はけっこう興味深い。特に双方向で素早いメディアが実現した時に、どういう言説が飛び交い、それが社会的にどんな影響を及ぼすかという研究対象になるだろうね。

ところで、私の親は仙台にいるのだけど、もう電気も水もとっくに来ているという。風呂にも入れるのだけど、地域の人が大変なのに自分達だけ入るのは悪いから、と我慢しているらしい。同じ仙台でも、海側は被害がひどく、大変お気の毒だが、復興が速いところもあるのだ。

2011年3月13日日曜日

非常時の言葉

地震が起きてから、TVとPCの前に釘付けになった。私の故郷は仙台だから被災地のど真ん中。幸いにして、メールで早くに連絡が取れて、親戚が無事であることが分かった。内陸部だったので、津波の被害に遭わなかったのが原因だろう。沿岸の方々は本当にお気の毒だ。

一方、都内の連絡はツイッターが使えたので、ITネットワークの力を実感した。ただし、ツイッターは活発だったが、発信は東京が主で、肝腎の被害を受けた岩手・宮城の海岸部からの発信はほとんどない。あったとしても、せいぜい盛岡と仙台などの大都市。都市と地方の間の情報格差は認めざるを得ない。

だからかもしれない、津波の報道が一服した後から、話題は原発問題の方に集中した。放射能は目に見えるものではない。一般人は、専門家の情報・コメントに頼らざるを得ない。しかし、その言葉を理解するのは容易ではない。だから、情報の提供の仕方によっては、コメントがコメントを呼んで、妙な方向に転がりかねない。情報も錯綜して不十分であることが多いから、判断できることも限られる。コメントを述べる人は慎重にならざるを得ない。

不安に駆られて「何かを隠している」と追求して言いつのったたり、情報を全部開示せよと言ったりすれば、済むことではない。コメントを聞く人も、そのバランスを感じ取るべきなのだ。それなのに、ツイッターで「避難地域が50kmに拡がったら東京を逃げ出さなきゃ」などと書くなどは、「言論の自由」として正当化できない。

その意味で、今回の場合、傑出していたのは、理系の研究者たちの言葉だったと思う。たとえば、U-Streamで流された原子炉設計に関わった後藤氏のコメント。原発反対団体のサポートでは番組になったのだが、海水注入という政府の決定に対して「やむを得ない最後の手段であり、現在、その是非をとやかく言えない」という公平・客観的な態度を貫いた。海水注入をするにもリスクがあるが、しなくてもリスクがある。よくやるように、両面の主張を立てるという機械的方法ではなく、データと理論という客観的な方法に基づいて、我々をリスクに直面させたのである。リアリティある発言だったと思う。

それに対して、残念だったのは、後藤氏のコメントをバックアップした市民団体のコメントおよびマスコミの記者の質問。前者は「政府の対応に怒りを覚える」「NHKのでたらめコメント」などという発言を繰り返した。たしかに、原発反対団体なので当然かもしれないが、同時に開かれた枝野官房長官の会見でも、情報は後藤氏と大差なかった。その意味で、彼らの非難は行き過ぎだろう。むしろ、政府の対応は、確認できる情報に基づき、現在言えることをできるだけ分かりやすい言葉で言おうとしており、よくやっていると思う。

他方、マスコミの記者たちは「政府の対応の評価は?」などと発言する。この場合大事なのは事実の確認であり、責任の追及ではない。事実に基づかなければ、正確な判断もできない。こんな時でも、人間関係や組織に還元する傾向は困ったものだ。誰かのせいにしてaccuseを煽っても、現実に起こっている問題が解決するわけではない。現在やるべきことは、問題を何とかhandleすることであり、内部のあら探しをすることではない。問題化の方向が根本的に間違っているのだ。

一般人がツイッターなどで容易に発信できる状況だからこそ、こういう間違いをしないようにすべきだと思う。自分の手に余ること、沈黙すべきところは沈黙すべきだし、逆にロジックがおかしいところは徹底的に疑問を持つ。リツイートなどでガセ情報が出回ったようだけど、そういう態度が徹底していないから怪しいツイートに反応してしまう。ステレオタイプにのってふわふわするのは止めた方がよい。

今度の災害を悲観的に捉えることはない。『災害ユートピア』という本では、大規模災害の時には、普通の人々が特別な力を出し、理想的といっても良いほど、互助の共同体が実現すると述べている。人々は明るく悲惨な状況に対処し、その中で新しい人間関係、社会を実現するのだと言う。むしろ、そういうユートピアを混乱させるのは、強制的な力を使っても秩序を保とうとして権力をふるう人々だと言う。今回、そういう妄想的権力に絡め取られた人々がいないし、存在させてもならないと思う。そういう見分けの力の向上が、今度の災害で絶対にあるはずだと思う。

その意味で、地震の危機の不安に駆られるより、各自が自分の担当する場所でできることをやった方がよい。ボカボでも、3月20日に「公共の哲学-J.レイチェルズを読む」を開催するつもりでしたが、いろいろな事情で4月3日に延期せざるを得ませんでした。このような危機の中でこそ、「公平」とは何か、「善」とは何か、「正義」とは何か、具体的なイメージとともに理解できると思うのに、残念な感じがします。しかし、4月3日には開催いたしますので、ぜひご期待ください。

2011年3月10日木曜日

小室直樹と原理主義な日本

3月6日の日曜日、東工大で行われた「小室直樹博士記念シンポジウム」に出席しました。小室直樹は前にも書いたことがあるけど、在野の社会学者・政治学者。私は30年ほど前に、彼の東大における有名なゼミ「小室ゼミ」にいました。受講者は多士済々。リーダーは日本を代表する理論社会学者の橋爪大三郎。他にも宮台真司、山田弘など、日本社会学のbest and brightestが集まっていた。私も、その末席に連なっていたわけ。

写真は東工大の庭に咲いていた満開の紅梅

シンポジウムはなかなか面白かったですよ。とくに、午後のリアル・ポリティクスの話題は大いに盛り上がった。その焦点となったのが、政治評論家の副島隆彦と民主党の渡辺恒三でしょう。副島のスタイルは独特です。「宮台君の言葉は何を言っているのかまったく分からん!」。放言すれすれのきわどいところを突きながら、鋭い問題提起や的確な人物評になる。会場の若い人はびっくりしたでしょうね。

個人的に付き合うと、彼は実に礼儀正しい。ものごとをちゃんと考える。それを形にするエネルギーと確信がある。でも、日本社会の中ではなかなか評価されない。私は、知り合いの編集者に「副島はすごいから、君の所で本を書かせろ」と言ったのだけど「ああいう傲慢なタイプは嫌いだ」とすげなかった。しかし、結果として、彼は自力で自分の道を切り開き、独自のスタイルを持った。空気ばかり読んでいる日本社会には入りきらないスケールがある一人ですね。

しかも、それをフェアに評価する橋爪さんもお見事。「はじめて副島さんが小室ゼミに来たときには、何だこの人はと思った。その感じは今でも変わりません。でも、少なくともこの人にはインスピレーションがある。他の人とちがうことを言う。だから様子を見ることにしたんです…」。このバランス感覚と幅の広さも、やっぱり日本の枠をはみ出している。宮台真司と副島隆彦と渡辺恒三という水と油というか、ビヒモスとリヴァイアサンとフランケンシュタインのような三人組をコントロールしてまとめていく。

でも、この自由でスケールの大きい雰囲気が70年代なんだよな。さまざまな人が勝手なことを言い、談論風発。なかにはとんでもないものもあるけど、それを許容しつつ、フェアに合意できることを探っていく。橋爪さんは、ずーっとそういう役を引き受けている人だ。

他方、午前中の議論では、長年の疑問が晴れたような気分でした。私は、小室先生の学問的情熱と見識の深さには大きな感銘を受けていたけど、彼が擁護していたT.パーソンズの理論「構造―機能分析」は包括的すぎて、さほど魅力を感じず、結局社会学の大学院に進むという気もなくなってしまった。でも、午前の報告を聞くと、その「構造―機能分析」が成り立たなかったことが、小室先生の前で私と同世代のゼミ生志田さん(現横浜国立大教授)が証明したんだという。私が直感的に感じたことが、数学的に証明されたらしい。それを粛々と受け入れた小室先生も偉いと思う。

だけど、一番印象的だったのは、シンポジウム冒頭の橋爪さんの熱烈な口調。「小室先生の主張なさったことが、もっと受け入れられていたら、今の日本社会はこんな風にはならなかったはずです!」

たしかに、そうかもしれない。小室さんは、政治と道徳を峻別する近代主義者だった。政治家の能力とは経世済民、つまり国民に繁栄をもたらすことだ。そのためには、多少のダーティさは許容すべきだし必要であると、マキャベリの『君主論』を引いて主張したのです。だから、政治家田中角栄を擁護し「タナカを起訴した検察官を吊せ!」と怒鳴った。

この間、前原外務大臣も政治献金の問題で辞任した。私は、彼を政治家として好きではないので、別にどうでもいいようなものだが、しかし一般論としては、この騒ぎはまったくクレージー。外国人から献金を受けてはならないというが、杓子定規に振りかざすのはむしろ法の理念をねじ曲げている。理由は小室先生の田中擁護と同じ。

そもそも外国人とは言っても、日本には何万人も「在日外国人」がおり、日本人と変わりなく暮らしている。その人たちが自分達の味方をしてくれる政治家を応援することが禁じられたら、彼らの利益は誰が代弁するのでしょうか? 彼らはほとんど日本で生計を立て、そのすべてが「外国のスパイ」というわけではない。外務大臣として、日本の国益を犠牲にして、外国の利益を図ったという明白な証拠があるならともかく、「外相としての責任を問う」とは、あまりにもバランスを失した非難でしょうね。

自民党をはじめとする野党は、これで在日外国人の支持を大きく失ったと思う。グローバル化の時代、排外的姿勢を強調することは結局衰退を招く。欧米の新聞・雑誌も「わずかな献金で辞任するのは日本政治の異常性を表す」と口を揃えて言っている。経世済民をそっちのけで足の引っ張り合いをするのは、政治ではなく病的行動にすぎない。「政治家のダーティさに敏感すぎる国民は民度が低い」のです。

とはいっても、日本はますますこの方向に走っていくでしょう。大きな方向・デザインが見つからないので、明示された細かな規則以外に合意できるものがない状態になっているからです。「法律に書いてあるから」と極端な行動をするのは、「コーランにあるから」と女性にブルカをかぶらせるタリバンや、「聖書にあるから」と輸血を拒否する「キリスト教原理主義」と何も変わらない。

アノミーが極まるとき、極端な原理主義が民意を掴むのは、どこの社会も同じ。しかし、その末路は社会の分断と壊滅です。「聖典」への帰依という社会的ヒステリーを超えて、個人がそれぞれの正常な判断力を取り戻せるか、日本も岐路に立っているのかも知れない。そんな危機意識を思い出させてくれるシンポジウムでした。東工大の会場には中年に混ざり若い人も多く、参加者の顔つきが真剣で知的だったことが、特に印象的でした。