2020年1月7日火曜日

2020年あけましておめでとうございます!

2020年あけましておめでとうございます!

アメリカによるイラン指導者への攻撃から始まるなど、今年も世界情勢が大きく動きそうな年になりました。しかし残念なことに、日本の自称「リーダー」たちは、ただ傍観しているだけのように見えます。何もできないまま激流に流されていく。そういう無力感が日本社会全体を覆っているのかもしれません。

とはいえ、これほどの停滞と無力さの中で、新しい世代の力が育っていることも確かです。年末年始は、そういう新しい世代の人が私どもを訪ねてくれました。数カ国語を話し、情報技術を駆使して、国境をまたぎ、仕事も遊びも十分に楽しむ。実際、彼らの情報利用の鮮やかさには、目を見張らされました。

そういう世代が、私どものような年長者たちから、まだ学ぶことがある、と感じてくれているらしい、ということも、とても嬉しい体験でした。

文章の書き方を教えていると、「どうしても制限時間内に書けない」とか「もっと速く書くには他に何をすればいいんでしょう?」という質問がときどき聞こえます。要求されることに応える意欲はあっても、どうしてよいか分からず、悲鳴をあげているようです。

でも答えは簡単です。「心配しないで。必ず速くなります。そのための時間を、正しい努力をしながら、あわてないで耐える。それが唯一の方法です」

若いということは、自分の成長を待てる余裕があることです。逆に言えば、その時間を努力しながら待っている気持ちが持てるなら、その人は若い。目の前の障害を除き、その可能性に導くのが、年長者たるもののつとめ、つまりエンパワーメントでしょう。その甲斐あってか、去年のvocabowでは、目指すところに合格した人の多さが目立ちました。

自分の持つリソースは一人一人違う。バイリンガルの人も、純粋ドメスティックの人もいる。数学が得意な人も苦手な人も、生来の部分が大きい。でも、自分の持っている物を生かして、先に進むことは誰でもできるし、得られた進歩は自分の力を信じるきっかけになる。

今年が、皆さんにとって、そういう進歩と展開の年でありますように! 私どもも、それを少しでも助けられる存在でありたいと願っています。

なお、1/27からは「慶應・難関大 冬のプチゼミ」が、2/8からは「Weekend Gym」が始まります。これらの講座が「正しい努力」をキープし、皆様の進歩に向かうきっかけになってほしいと思います。この一年を、ぜひいい年にしましょう。


2019年6月27日木曜日

夏のセミナーについて

「夏のセミナー」開催まで後一ヶ月になりました。これは、8月の土日4時間を使って、法科大学院入試で課される小論文を徹底演習する講座で、毎年たくさんの合格者が出ています。

今年は、久しぶりに法科大学院志望者が増えています。WEB添削受講者は例年の50%増し、「夏のセミナー」への問い合わせも増えています。

一方、卒業生情報では、去年から司法試験の傾向が変わってきた、と聞きました。判例の適用ではなく「文中の説に反対する学説をあえて構成する」というタイプの問題が目立ってきたのだとか。この手の問題は、ロースクールでは以前から行われていました。たとえば、東大ローでは「スポーツでのドーピングをあえて肯定する主張を書け」という問題が出ています。

だんだん、日本でもロースクールが目指した「メソッド」が定着してきたのかもしれません。人間は権威や仲間の圧力に弱い。しかし、それだけで主張を決めず、議論による吟味のみによって主張を決める。その訓練が日本ではほとんどされず、真理は情報の多寡で決まると勘違いして、考えることから逃げまくってきたのです。

それを変えようとしたのが、当初のロースクールの理想でした。自分で考え、他者と議論しつつ、真理に向かって物事をクリアにする。 数よりも議論にしたがうように訓練することでした。そういう理想と司法試験が徐々に一致してきたのかもしれません。

ボカボに来る人は、ほとんどが「考えることが楽しくなった!」と言います。ここでも、ソクラテスの「議論による吟味」というプロセスが、きっときちんと行われているからでしょうね。これは大学入試用の「夏のプチゼミ」も同じで、高校生だからといって手抜きはしません。


今年の「夏のセミナー」「夏のプチゼミ」も刺激的な講座になるはずです。同輩と議論を戦わせ、それによって真理に近づくプロセスを体験して、試験にのぞんでほしいと思います。

2019年1月27日日曜日

冬のプチゼミが始まります

大学受験シーズンはいよいよたけなわですね。いよいよ、明日から『慶應・難関大小論文 冬のプチゼミ』が始まります。

去年・今年と大学受験は大きく様変わりしました。とくに私立大学は定員を超えて合格者を出せなくなったため、難化しています。

今までは、センター試験に注力していた方も、これからは私立大試験・国公立二次試験に集中しなければなりません。

二次試験で小論文を使う方には、『慶應・難関大小論文 冬のプチゼミ』は最適の講座です。毎年、このゼミからたくさんの合格者が出ています。

過去問を解いて、その答案について、どこを改善すべきか、講師と受講者の間で徹底的に討論するスタイルは、思考を発展させ、よい小論文を書くための基本的な方法です。

皆様の受講をお待ちしています!


2018年1月17日水曜日

冬のプチゼミが始まります

2018年のセンター試験が終わりました。社会の問題で「ムーミンが北欧の何処の国のキャラクターか?」という問題が出ていて「そんな知識、若い連中は知らないぞ」と大騒ぎになりましたが、若者が知らないけど必要な知識なんて、この世にはたくさんあります。これは無理筋の批判というものでしょう。

たしかに、TVなどで放映していたのは昔のことですが、ムーミンは『クマのプーさん』と同様に、すでに世界に知られた元祖「ゆるキャラ」なので、そのTV放映を直接見た世代限定というものでもありません。

そういえば、皆「ムーミン」のことぱかりワアワア言っていたいたけど、それと一緒に出題されていた『ニルスの不思議な旅』については、誰も触れていません。こちらは、大人でも知らないのでしょうね。

これも、北欧では超有名なストーリーで、私は子どもの時「子ども世界文学全集」で読んでいます。ニルスという少年が、鳥(白鳥だったかな?)の背中に乗って世界を回るというお話しです。

面白かったですね。「子ども世界文学全集」にあるのは抄訳だったので「全部読みたいから完全版を買ってくれ」と父親にねだったのですが、残念ながら見つからなかった。それに比べれば、ムーミン」のことは皆触れているので、まだ名が知られている方に入っているわけです。「そんなの知らない」と、しらばっくれるわけにはいかないはずです。

後は、ヴァイキングはノールウェー発祥という基本知識さえあれば、すらっと正答が出せる。あるいは、フィンランドがアジア系という知識があれば、言葉もスウェーデン・ノールウェーと違うはず、という推論も働く。ヒントは十分すぎるほどで、地理Bの範囲内という大学入試センターの説明は妥当でしょう。

「試験」というと、皆神経過敏になり、あれこれ文句を付けたがるものですが、たいていの場合は、そういうクレームは正当ではありません。前に、このBlogでも指摘した2013年の小林秀雄の文章にしても「論理的でない」と評判は散々でしたが、vocabowの受講生に解かせてみたら「最初はちよっと読みにくいけど、根拠はバッチリなので解きやすかった」と。ちゃんとした訓練を受ければ、そうなるのです。

さて、国語は私の分野の一つなので、今年もざっと見てみましたが、素直な易しい問題でした。現代文の選択肢は、あまり迷うことがないし、古文は本居宣長の有名な文章の、超有名な箇所。センター試験の古文は知らない文章が出題されることが多く、「へえ、こんなのがあったの?」と感心することが多いのだけど、これなら、私も読んだことがある。ちょっと拍子抜けでした。受講生も「易しかった」と言っていました。

さて、これが終わったら、いよいよ二次試験。vocabowでは「慶應・難関大 小論文 冬のプチゼミ」が始まります。この講座は、小論文の本質的な解き方を教えてくれる、というので人気があり、ときには、大学院生とか編集者とか、いわゆる大人も「文章の腕を上げる良い機会だから」と参加することがあります。文章能力は世代と関係ありません。今年も、大学受験生のみならず、そういう方も参加して、刺激的な講座になるはずです。

遠方に住んでいる方は、スカイプでも教室で参加する方と同料金で参加できます。スカイプのアカウントをお持ちでない方も簡単にとれるし、講師の前にカメラを置くので、教室にいるのと、ほとんど変わりない状態で、受講できます。文明の利器は大したものです。

今までに、九州や関西など遠方に住んでいても、スカイプ受講して合格した方が既に出ているので、その効果は証明済みです。講師の方も、スカイプ受講に慣れているので、ほとんどストレスは感じないはずです。心配なさらないで、ぜひ、ご参加下さい。きっと、あなたの文章力は飛躍的に上がるはずです。

2017年7月1日土曜日

批判は役に立つか?

ある議員が「批判なき政治を」というスローガンを掲げました。「批判なき政治とは何だよ? 全体主義だろ」という声が当然のように上がる一方、「大衆にとって、批判は集団の和を乱す行為にすぎない。そういう大衆をちゃんと理解を理解しないとダメだ」という主張も出てきました。

たしかに「批判」は問題を起こすだけ、と嫌がる人は少なくありません。意見・利害も対立し、立ち往生する。だから「決められる政治」という言葉も流行った。
しかし、批判して問題を起こし、立ち往生させることは、ホントに悪いことなのでしょうか? 東大ロースクールの初年度の問題は、次のようなものでした。

 (1)下線部(a)の花子の設問に、あなたならどう応答しますか。
(引用は途中省略あり)
 太郎 日本にもやっとロースクールができて、「社会の医師」の養成を質量ともに充実させる時代がきたね。ぼくも今度受験するよ。
花子 「社会の医師」って何?
太郎 法曹、とくに弁護士のことだよ。紛争はいわば社会の病。個人の心身の病を診断し治療するのが弁護士をはじめとする法曹の仕事。だから、法曹は「国民の社会生活上の医師」と言われているんだよ。
花子 紛争って「社会の病」なの?
太郎 え?
花子 「健康な心身」の方が「病んだ心身」よりいいというのは、了解できる。でも、紛争のない社会の方が紛争のある社会よりいいなんて、本当にそうかな。
太郎 紛争のない社会なんか退屈で生きてゆけないってこと? でも、紛争がいいもんだってのは、ぼくには理解できないな。
花子 逆に考えてみて。(a)紛争を根絶した社会はどんな社会か。社会は紛争を根絶するためにどんな代償を払わなければならないのか」って。(以下略)


ここで「紛争」と言われているのは対立です。太郎は、「紛争」を病気に例えて、
「法律家」は、その病気を治す医者のようだと述べています。それに対して、花子は、その比喩が間違っていると言う。いったい、どこが違うのでしょうか? そのヒントが「紛争を根絶した社会はどんな社会か。社会は紛争を根絶するためにどんな代償を払わなければならないのか」という下線部だと言うのですが、実は、その前に、もっと根本的な問いかけがあります。それは「そもそも、紛争は完全になくすことができるのか?」です。

ちょっと考えれば「社会から、紛争/対立状況を完全になくすことは難しい」と分かります。なぜなら、人間の利害はそれぞれ違うので、ある人にとってよいことは、他の人にとってはよいとは限らないことだからです。


たとえば、経営者にとって、従業員の給料が安くて、すぐクビを切れることは都合のよいことです。でも、従業員にとって、給料が安くて、すぐクビを切られるのではたまったものではありません。だから、労使紛争も起こる。


こういう中で、もし「紛争を根絶」しようとしたら、どうなるか? たとえば、法律で「紛争を起こすことは、まかりならん!」と決めると、どうなるか? 
労使紛争が禁止されたら「給料を上げろ」と要求できないので、困るのは従業員です。一方、経営者は、文句が出ないので、いくらでも給料を下げられる。うれしくって仕方ないでしょう。つまり、たんに「あり得る紛争」が隠れて、存在しないように見えるという事態を引き起こすだけです。

そういえば、最近起こった事件では、身体障害者の男性が、「車いすのまま乗ることはできない。スタッフが手を貸すこともできない」と言われて、飛行機のタラップを手でよじ登らされた、として騒ぎになりました。会社はすぐに謝罪し、これからは、車いす乗降用の機械を導入する、と宣言しました。


これが報じられるやいなや、大バッシングが巻き起こりました。「やり方が汚い」とか「身障者の場合は事前通告するというルールを守らなかった」とか「格安航空会社だから身障者のためにコストをかけられない」とかいう意見が殺到したのです。


しかし、ホントに、この行為はまずいのか? まず、結果から評価すれば、身障者が飛行機で旅行しやすくなった。世の中は良くなっている。


では「やり方が汚い」か? でも、ルールに従ったら、おそらく、この男性は乗れなかったでしょう。身障者だと事前に知らせると、この飛行機会社は「乗機を拒否する」という内規だったそうです。おそらく、この男性は、それを知っており「門前払い」されることを避けるために、あえて通告なしで乗った。


男性は、自分でも認めているように「プロ身障者」です。航空会社のひどさを可視化するように計画をして、この行動を行った。つまり、わざわざ問題を引き起こし、紛争に仕立てたのです。これが気に入らない人がいるらしい。もうちょっと穏便にやれよ、というのでしょう。


しかし、穏便なやり方をしたら、問題は隠れて見えない。航空会社の作ったルール通りにしたら、航空会社は、本人に「乗れない」と通告する。他の乗客は状況が分からない。だから、当日、身障者は乗っていなくても、「たまたま乗っていなかった」と考える。
問題は何も起こっていない。でも、それは問題が「存在しない」ことではない。問題は、見えないだけ。実は水面下に潜んでいる。

社会の問題は、学校の数学の問題のように、目の前にあるものではない。むしろ、それをあぶり出す努力をしなければ「そこが問題なんだ!」ということすら気づかない。航空会社の「身障者を乗せない」という「ルール」のひどさは、彼のように、
果敢に、「アイデンティティを賭けて」挑戦する行為がないと、あぶり出されないのです。それが、彼の言う「プロ」意識でしょう。

わざわざ波風を立て、「問題を起こす」パフォーマンスを行ったおかげで、身障者がいかに不便を強いられているか満天下に示され、航空会社は姿勢を改め、身障者は旅行がしやすくなった。万々歳なのです。でも、バッシングは、「この場に波風を立てるデメリット」だけに注目して、このメリットの構造が見ない。


とすれば、もう上記の問題の答えはお分かりでしょう。「紛争を根絶した社会」とは、けっして理想的な状態ではない。むしろ、本当は社会の中で存在しているはずの対立や問題が、隠されて見えなくなっている状態なのです。


一方「どんな代償を払わなければならないのか」も明らかです。その場の調和を優先して、問題をあえて放置することで、改善の機会をなくしてしまう、ということです。問題を感じていても、それがないものとされ、誰も改善できない。それは、むしろ、地獄のような状態でしょう。


ちょっと複雑だったでしょうか? でも、今度のバッシング騒動を見ていて、一番感じたのは、思考能力がない人が、うかつに議論すると、いかに一見「分かりやすい」間違った結論にたどりつきやすいか、ということでした。

ボカボでは、今年も恒例の「『法科大学院小論文』夏のセミナー」と「『慶應・難関大小論文』夏のプチゼミ」を開きます。この授業では、大学やロースクールの問題を取り上げつつ、現代のニュースとも結びつけ、むしろ、入試制度を利用して、自分のスキルや能力をアップする機会にしたいと思います。一夏を、さまざまな問題に取り組めば、自分の思考力が飛躍的に引き上げられることが実感できるはずです。ご参加お待ちしています。

ところで、「格安航空会社だから、コストをかけられない」という主張が、なぜダメかおわかりでしょうか? 同様に、「もし、コストを理由にできないことがあるとして、それはどこまで許されるか」と、逆に問いかけてみればいいのです。


たとえば、「格安航空会社だから、機内食は出ない」なら許容できる。でも、「格安航空会社だから、整備に金がかけられないので、墜落しやすい」は許容できない。つまり、いかにコストをかけても、絶対に守らなければならないことはあるのです。


ある経済評論家は「格安航空会社なのだから、コストがかけられない。身障者が乗れなくても当然だ」という発言をしていました。しかし、経済コストの上昇を「人を差別すべきではない」という倫理と同列に扱うのでは「不道徳」の誹りを免れないでしょう。経済的な議論は耳に入りやすいけど、これだけで、ものごとをすべて判断しようとするのは、浅はかなのです。