2017年7月1日土曜日

批判は役に立つか?

ある議員が「批判なき政治を」というスローガンを掲げました。「批判なき政治とは何だよ? 全体主義だろ」という声が当然のように上がる一方、「大衆にとって、批判は集団の和を乱す行為にすぎない。そういう大衆をちゃんと理解を理解しないとダメだ」という主張も出てきました。

たしかに「批判」は問題を起こすだけ、と嫌がる人は少なくありません。意見・利害も対立し、立ち往生する。だから「決められる政治」という言葉も流行った。
しかし、批判して問題を起こし、立ち往生させることは、ホントに悪いことなのでしょうか? 東大ロースクールの初年度の問題は、次のようなものでした。

 (1)下線部(a)の花子の設問に、あなたならどう応答しますか。
(引用は途中省略あり)
 太郎 日本にもやっとロースクールができて、「社会の医師」の養成を質量ともに充実させる時代がきたね。ぼくも今度受験するよ。
花子 「社会の医師」って何?
太郎 法曹、とくに弁護士のことだよ。紛争はいわば社会の病。個人の心身の病を診断し治療するのが弁護士をはじめとする法曹の仕事。だから、法曹は「国民の社会生活上の医師」と言われているんだよ。
花子 紛争って「社会の病」なの?
太郎 え?
花子 「健康な心身」の方が「病んだ心身」よりいいというのは、了解できる。でも、紛争のない社会の方が紛争のある社会よりいいなんて、本当にそうかな。
太郎 紛争のない社会なんか退屈で生きてゆけないってこと? でも、紛争がいいもんだってのは、ぼくには理解できないな。
花子 逆に考えてみて。(a)紛争を根絶した社会はどんな社会か。社会は紛争を根絶するためにどんな代償を払わなければならないのか」って。(以下略)


ここで「紛争」と言われているのは対立です。太郎は、「紛争」を病気に例えて、
「法律家」は、その病気を治す医者のようだと述べています。それに対して、花子は、その比喩が間違っていると言う。いったい、どこが違うのでしょうか? そのヒントが「紛争を根絶した社会はどんな社会か。社会は紛争を根絶するためにどんな代償を払わなければならないのか」という下線部だと言うのですが、実は、その前に、もっと根本的な問いかけがあります。それは「そもそも、紛争は完全になくすことができるのか?」です。

ちょっと考えれば「社会から、紛争/対立状況を完全になくすことは難しい」と分かります。なぜなら、人間の利害はそれぞれ違うので、ある人にとってよいことは、他の人にとってはよいとは限らないことだからです。


たとえば、経営者にとって、従業員の給料が安くて、すぐクビを切れることは都合のよいことです。でも、従業員にとって、給料が安くて、すぐクビを切られるのではたまったものではありません。だから、労使紛争も起こる。


こういう中で、もし「紛争を根絶」しようとしたら、どうなるか? たとえば、法律で「紛争を起こすことは、まかりならん!」と決めると、どうなるか? 
労使紛争が禁止されたら「給料を上げろ」と要求できないので、困るのは従業員です。一方、経営者は、文句が出ないので、いくらでも給料を下げられる。うれしくって仕方ないでしょう。つまり、たんに「あり得る紛争」が隠れて、存在しないように見えるという事態を引き起こすだけです。

そういえば、最近起こった事件では、身体障害者の男性が、「車いすのまま乗ることはできない。スタッフが手を貸すこともできない」と言われて、飛行機のタラップを手でよじ登らされた、として騒ぎになりました。会社はすぐに謝罪し、これからは、車いす乗降用の機械を導入する、と宣言しました。


これが報じられるやいなや、大バッシングが巻き起こりました。「やり方が汚い」とか「身障者の場合は事前通告するというルールを守らなかった」とか「格安航空会社だから身障者のためにコストをかけられない」とかいう意見が殺到したのです。


しかし、ホントに、この行為はまずいのか? まず、結果から評価すれば、身障者が飛行機で旅行しやすくなった。世の中は良くなっている。


では「やり方が汚い」か? でも、ルールに従ったら、おそらく、この男性は乗れなかったでしょう。身障者だと事前に知らせると、この飛行機会社は「乗機を拒否する」という内規だったそうです。おそらく、この男性は、それを知っており「門前払い」されることを避けるために、あえて通告なしで乗った。


男性は、自分でも認めているように「プロ身障者」です。航空会社のひどさを可視化するように計画をして、この行動を行った。つまり、わざわざ問題を引き起こし、紛争に仕立てたのです。これが気に入らない人がいるらしい。もうちょっと穏便にやれよ、というのでしょう。


しかし、穏便なやり方をしたら、問題は隠れて見えない。航空会社の作ったルール通りにしたら、航空会社は、本人に「乗れない」と通告する。他の乗客は状況が分からない。だから、当日、身障者は乗っていなくても、「たまたま乗っていなかった」と考える。
問題は何も起こっていない。でも、それは問題が「存在しない」ことではない。問題は、見えないだけ。実は水面下に潜んでいる。

社会の問題は、学校の数学の問題のように、目の前にあるものではない。むしろ、それをあぶり出す努力をしなければ「そこが問題なんだ!」ということすら気づかない。航空会社の「身障者を乗せない」という「ルール」のひどさは、彼のように、
果敢に、「アイデンティティを賭けて」挑戦する行為がないと、あぶり出されないのです。それが、彼の言う「プロ」意識でしょう。

わざわざ波風を立て、「問題を起こす」パフォーマンスを行ったおかげで、身障者がいかに不便を強いられているか満天下に示され、航空会社は姿勢を改め、身障者は旅行がしやすくなった。万々歳なのです。でも、バッシングは、「この場に波風を立てるデメリット」だけに注目して、このメリットの構造が見ない。


とすれば、もう上記の問題の答えはお分かりでしょう。「紛争を根絶した社会」とは、けっして理想的な状態ではない。むしろ、本当は社会の中で存在しているはずの対立や問題が、隠されて見えなくなっている状態なのです。


一方「どんな代償を払わなければならないのか」も明らかです。その場の調和を優先して、問題をあえて放置することで、改善の機会をなくしてしまう、ということです。問題を感じていても、それがないものとされ、誰も改善できない。それは、むしろ、地獄のような状態でしょう。


ちょっと複雑だったでしょうか? でも、今度のバッシング騒動を見ていて、一番感じたのは、思考能力がない人が、うかつに議論すると、いかに一見「分かりやすい」間違った結論にたどりつきやすいか、ということでした。

ボカボでは、今年も恒例の「『法科大学院小論文』夏のセミナー」と「『慶應・難関大小論文』夏のプチゼミ」を開きます。この授業では、大学やロースクールの問題を取り上げつつ、現代のニュースとも結びつけ、むしろ、入試制度を利用して、自分のスキルや能力をアップする機会にしたいと思います。一夏を、さまざまな問題に取り組めば、自分の思考力が飛躍的に引き上げられることが実感できるはずです。ご参加お待ちしています。

ところで、「格安航空会社だから、コストをかけられない」という主張が、なぜダメかおわかりでしょうか? 同様に、「もし、コストを理由にできないことがあるとして、それはどこまで許されるか」と、逆に問いかけてみればいいのです。


たとえば、「格安航空会社だから、機内食は出ない」なら許容できる。でも、「格安航空会社だから、整備に金がかけられないので、墜落しやすい」は許容できない。つまり、いかにコストをかけても、絶対に守らなければならないことはあるのです。


ある経済評論家は「格安航空会社なのだから、コストがかけられない。身障者が乗れなくても当然だ」という発言をしていました。しかし、経済コストの上昇を「人を差別すべきではない」という倫理と同列に扱うのでは「不道徳」の誹りを免れないでしょう。経済的な議論は耳に入りやすいけど、これだけで、ものごとをすべて判断しようとするのは、浅はかなのです。

2017年5月11日木曜日

言葉の変質と自分の立場

ゴールデンウィークも、すでに終わりましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか? 私も、二月〜四月にまとめて本を五冊出すという「暴挙」がやっと終わって、少し落ち着いた日々を過ごしています……

と言いたいところなのですが、世の中には、何だか不穏な空気が漂っています。例の籠池事件の後に、北朝鮮危機、さらには共謀罪とか、憲法改正ロードマップとか。

私は、それほど政治的な人間ではないし、社会主義にも共産主義にも共感しません。だから、今までは「私は保守」だと称していたのですが、いつの間にか、共産党の主張が一番まともに聞こえる、という妙な事態になってきた。これは、私だけではないらしく、この間も、政治学者の中島岳志氏が「私は保守派だが、現在は共産党支持である」と発言していました。

「保守主義」の定義は、エドマンド・バーク『フランス革命の考察』に明らかです。人間の理性に全幅の信頼を置かず、それなりに長きにわたって続いてきた習俗や慣習には、歴史的な知恵が蓄積しているとして、むやみと「合理性」から判断して破壊せず、尊重すべきだという主張です。

実際、フランス革命は「理性」に全幅の信頼を寄せて、社会を変えようとして、その後100年にわたって混乱し、バークの言うように「火と血と浄化され」るという羽目になりました。

同じことは、中国の文化大革命にもソビエト革命にも、カンボジアのクメール・ルージュにも起こりました。たとえば、カンボジアでは、現在の不正の温床は「都市と農村の分断にある」と主張されました。

都市の人々は生産現場を知らず、空理空論に陥り、生産を軽視して、利益を独占する。これが社会に不正を生み出す。だから、人々が生産現場に直接関わって、現実に即した思考ができるようにすればいいはずだ。ここまでの理屈に、とりたてて間違いは見当たりません。「合理的」です。

だが、大人達は現在の体制に適応しているので、それを正当化しがちだ。だから、子どもたちの方が「正しい思考」ができる。そこで、都市のインテリ階層を農村に送って強制労働させ、子どもたちに武装させて大人の監視をさせました。その結果はどうだったか? 全土で400万人を超える人々が虐殺されました。

この話が怖ろしいのは、その主張が「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、論理の鎖で緊密につながれ、一見正しそうなことです。たしかに、今でも都市と農村で格差・不平等があるし、それは是正されるべきでしょう。大人が腐敗しているのもその通りでしょう。クメール・ルージュは、それを具体的に是正しようと、その論理を実行に移し、大規模な虐殺を引き起こしたのでした。

いったい、どこで間違ったのか? この矛盾を説明しようとしたのが、保守主義の「理性的判断を信用しすぎてはいけない」でした。理性に基づいて、性急に判断して、社会を変革しようとする態度に対して「ちょっと待てよ、何か見落としていないか?」と懐疑する態度が大事である。これが本来の「保守主義」の意味するところなのです。

しかし、現在、巷で言われる「保守派」の主張には、そういう慎重さが見られません。それどころか、ますます急進的でラディカルになろうとしています。

たとえば、戦後70年曲がりなりにも続いてきた「平和」とそれを守るための「日本国憲法」の廃棄が主張される。「そもそも国民に人権があるのがおかしい」と近代に打ち立てられた政治原理を真っ向から否定する。「自衛隊は違憲ではない」という内閣法制局が積み上げてきた解釈を捨て、「自衛隊は違憲の疑いがあるので、憲法改正すべきだ」と総理大臣が言い出す。

つまり、現在の「保守派」の主張は、それなりの長きにわたって続いてきたあり方を根底から変えてしまおうとする試みなのです。とすれば、今の「保守」は、保守主義ではなく、むしろ右派的イデオロギーによる「革命主義」です。

しかも、そのイデオロギーは「合理主義」の眼から見ても、疑問が少なくない。たとえば、現状の代わりに打ち立てようとするのは「教育勅語」「明治憲法」「戦前体制」などの「日本の伝統」です。だが、なぜ「伝統」が明治で止まるのか、よく分からない。なぜ、江戸時代まで戻って「幕藩体制」にしないのか、平安の伝統まで遡って「摂関政治」を復活しないのか?

しかし、「保守派」は、そんな理屈っぽいツッコミに関心を持ちません。「日本の伝統とは何か、もう決まっています、あなたみたいなことを言うのは、そもそも反日です(キリッ)」と取り付くシマもない。相手を敵だと認定したら、根拠を一緒に検討するのも拒否する点では「合理主義」ですらない。これは、もはや宗教的信条dogmaと言っていいでしょう。

こういう人たちとは議論はできません。なぜなら「我々の宗旨に賛同するか、それとも反対するか? ちなみに反対なら攻撃するけど(キリッ)」という二者択一になるからです。つまり、かれらの考えは「我々の信じていることは正しい。それに反対する悪魔の手先をあぶり出し、皆殺しにすれば、地上の楽園ができるはずだ」という宗教戦争の理屈なのです。

近代の政治理念は、このような宗教戦争の理屈の否定から始まりました。宗教戦争では、カトリックとプロテスタントが対立して、住民同士の殺し合いになったため、ヨーロッパ全土を巻き込んだ大虐殺を引き起こし、大きな社会的損失を引き起こしたからです。

だから「政教分離」で宗教が権力と結びつくことを禁止し、真実の究明より「人権」を大事にし、正義を性急に貫徹することより「適切な法手続」を優先した。「宗教」「真実究明」「正義」などが暴走すると、どういう悲惨を引き起こすか、身にしみて感じたからです。

もちろん、これは歯がゆいやり方でしょう。「人権」や「適切な法手続」を優先すれば、当然、悪の一部分は見逃される。理想の社会も実現しない。それが許せないなら「人権」「適切な法手続」を無視して「正義」を追求することになります。だが、それが徹底されると、逆に、無実の人が罪に陥れられることも出てくる。さて、どっちを取るか?

このとき、近代政治では、「宗教」「真実究明」「正義」が暴走するコストがとてつもなく大きくなることを知って、「人権」「適切な法手続」を優先して、小さい悪は見逃しても、社会が安定する方を選択するのです。こういう歴史的経緯を大事にしようというのが、中島氏の「保守主義」なのです。

そこまでは分かるとして、それが、なぜ今「共産党の主張がましだ」と結びつくのか? 共産党は「合理主義」の権化で、ソビエト革命という混乱も引き起こしているのに。

それは、「合理主義」は、少なくとも懐疑の手段として使うなら、宗教的dogmaより、相手との議論の余地ができるだけ、まだましだからです。「悪魔の手先は殺す」というような宗教右翼とは、そもそも話できません。だから、「保守主義者」が、きちんと理屈に基づいて話せるだけ、共産党がましだと広言するのは、おかしくないのです。

私も、彼の言うような意味なら「保守主義者」です。だから、数年前までは、そう広言もしてきました。でも、そのうちに「保守」の意味が変わって、もう自分が使ってきたような意味を、この言葉に込めることは不可能になりました。同じ言葉なのに、180度意味が違って使われる。こういう急速な変化の中、世間に流されず、自分の立場を見極めることの難しさを感じますね。


言葉をきちんと定義するということは、雰囲気に流されずに、状況を検討し、自分の位置を築く、という根本につながっています。「保守主義」という言葉を取り巻く状況を見ていると、これがけっして簡単なことではないことがよく分かる。私も、まだまだ、やらなければならないことはたくさんある。五冊ぐらいで、泣き言を言っている場合ではないのかもしれませんね。

2017年4月17日月曜日

今年初めから出版された本など

葉桜の季節になりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか?

この三日坊主通信も去年の夏あたりから更新していなかったんですね。なぜ、そんなに間が空いたのか? 単純に時間がとれなかったこともあります。

今年の1月から、年度版2冊と新刊3冊が出ました。四ヶ月間に5冊という、ちょっとありえないペース。もちろん、これらの内容は去年から用意していたものですが、それにしても多いですね。

当然のことながら、他のことはできず、去年後半は、ずっと本を書いていました。ブログを書くなどという心の余裕はまったくない。いいネタだったら、むしろ、それを本の中に入れ込みたい、というのも自然な心理でしょう。

よく、個人発のメールマガジンは成功しない、と言われます。なぜか? ネタが無くなるからです。いいネタがあったら、それは原稿料の出る雑誌や、印税が入る書籍に書きたいと思う。それでも、メルマガは毎週発行しなければならない。いきおい、メルマガは、どちらかといえば、どうでもいいような記事を書いてお茶を濁す。面白くなくなるので、読者が減って廃刊。宜なるかな。

私も、ブログ記事の間隔があくので「何でも良いから書いてくれ」とよく言われるのですが、それをやると質が落ちる。しかも、忙しい中で書くと、推敲が十分でないので雑な文章になる。そんなものを、誰が読みたいでしょうか?

とはいっても、半年以上何も書いていないのは、さすがに言語道断ですね。とりあえず、今回出した本の紹介から始めましょう。

1『公務員 論文試験 頻出テーマのまとめ方』実務教育出版
 もう2002年から出している公務員の小論文試験によく出てくるテーマについて解説し、考え方や答案例を書いた本です。毎年、巻頭にその年話題になったテーマを出し、その他の部分も、大きな変化のあったときは、できる限り変えています。累計でもうすぐ30万部。この分野のロング・ベスト・セラーです。

2『リアルから迫る 教員採用小論文・面接』実務教育出版
 こちらは、2014年から出ているシリーズです。教育は、みな一家言ある分野ですが、だいたいがイデオロギーに囚われ、エビデンスがない主張が多い。この本では、主に教育社会学の知見に基づき、科学的な分析・提案につなげています。教育現場の先生からは「面白い」と言われており、教育問題をクールに捉えた本です。

3『吉岡のなるほど小論文講義10 改訂版』桐原書店
 これも初版は2002年。アカデミック・ライティングの方法を大学入試小論文に適用しています。その斬新さは、今でも変わりません。今回は、2020年に広く行われると言われるヴィジュアル型問題の対処法と、第10講の「対立を超えて、レベル・アップする」を大幅に書き換えました。この第10講の内容は、いわゆる弁証法の考え方を高校生レベルに理解できるようにした画期的な内容のはずです。

4『文章が一瞬でロジカルになる接続詞の使い方』草思社
 接続詞は、日本文法では冷遇されています。しかし、これを工夫すると、文章の明瞭さは大幅にアップします。この分野では石黒圭氏の本が知られていますが、この本は論理的文章を書くことに特化しました。接続詞を代えるだけで、ニュアンスや意味が変わってくる方法を示しました。最後は、新聞コラムを題材に、不明瞭な文章を明瞭にするプロセスまで。もう、「○声×語」などを文章の手本にしてはいけません。

5『文章が面白いほど上手に書ける本』あさ出版
 3,4などでの内容を、ビジネスマン向けに解説した本です。文の作り方、段落のまとめ方、接続詞の使い方、論証や例示の仕方など、知っておけば、ビジネス文書にすぐ応用できる内容になっています。

個人的な感想ですが、現在は、論理的文章の原理である論理・議論にとって良くない時代だと思います。この間から騒がれている「森友学園」の事件でも、国会での答弁があまりにもまやかしに満ちている。「データは自動的に消去される」とか、スパイ映画もどきの白々しい答弁をして、すました顔をする高級官僚がある。あるいは「関わりがあったら議員を辞める」とかうわべだけ勇ましい言葉を連発する政治家。「言葉には責任を持つ」「ウソをついてはいけない」「誠心誠意対応する」という倫理がまったく通用しない。

むしろ、世の中では、大言壮語する、証拠がなくても気にしない、それどころか、証拠を突きつけられてもしらを切る、法律を無視する、あるいは、発言力のある人間が「××国から攻撃されたら、テロリストとなって、反対派を殺す」などと広言する異様な世界になっている。これは。論理的文章が目指す、根拠がある主張をする、理がある議論には従う、という倫理的態度の対極にあります。

その意味で言うなら、現在の政権のやっていることは、まことに不道徳で非倫理的です。論理も公平もあったものではありません。若い人々が、これを見てどう感じるか? 「言葉には責任を取らなくて良い」「ウソをついてもしらを切ればいい」「批判されたらキレれば良い」もし、そういう「教訓」を得るとしたら、限りなく教育の未来に悪い影響を与える政権と言えましょう。しかも、そういう人々が「道徳教育」を言うのだから、噴飯ものです。

とはいえ、私は、それほど、日本の先行きに絶望はしていません。今年も、春にWeekend Gymを開催したのですが、若い人々が、きちんとした論理的な文章の書き方を学びに来ました。どの人も、講座を終えた後「論文を書くのが楽しくなった」「考えるのは面白い」「字数をちゃんと埋められるようになった」「自分の思うことが表現できるようになった」と言ってくれます。私も、教えていて久々に楽しみました。こういう人々がいる限り、日本は変なことにはならないのではないか、と思います。

このブログを読んでいる人も、ぜひ、上記の本のどれかを手にとってご覧下さい。その楽しさがきっとわかると思います。


2016年6月27日月曜日

判断の軸を立てるために

イギリスの国民投票でEU脱退が決まったとか、実質賃金を4%も低下させたアベノミクスを50%近くの人が支持しているとか、日本の大学のランキングがどんどん下がるとか、明るくない将来を示すニュースが充ちみちています。

情報が増えるとともに、状況理解も判断も難しくなっています。ある立場で決定しようとしても「そんな主張をする奴はおかしい!」とすぐに罵声が飛んできます。それを確かめようとしても、新しいデータや主張がどんどん出てきて、何だか分からない。結局、声を大きくしている人間の要求が通る(ような気がする)。

そういう「弱肉強食」的状況を反映してか、私のところにも「お前の本は、はじめて書く人間への配慮が足りない」とか、「真似すればすぐ合格する解答例を書け」とか、ひんぱんにお叱りが来る。こういうコメントは、自分はバカだ、と宣言するようなものので、本来なら恥ずかしくて言うのがはばかられた内容と思うのだけど…最近は堂々と書く人が増えてきました。

でも「本質をやさしく書く」ことは、それほどやさしいことではありません。なぜなら、大半の本質は一言でまとめるにはあまりに複雑で、だからこそ、それをやさしく語るのは至難の業だからです。

もちろん、学ぶ人の方もそれなりの準備が必要です。知識と方法論を整理し、問題に当てはめ、理論と現実をつなぐ論理を考え、表現規則にも配慮しながら、自分の考えを書く。そういう地道な作業をすっ飛ばして、結果だけを求めるような態度が強すぎる感じがします。

もし用意がない人に「やさしく語る」としたら「こんなに簡単なんだよ、他のことはもう気にかけなくて良い!」と「本質を曲げて」教えることになります。でも、これは邪道ですね。

そういえば、精神医学の本に、悩んでいた人が「あー、何だ、こんな簡単なことだったんだ。悩んでいたのがバカみたいだ!」と言い出したら、まず精神病の発症を疑うべきだ、という記述がありました。現代の人は、むしろ正気でいるより、手っ取り早い満足を望んで、精神病の発症を気にかけないかもしれませんね。

その意味で、現実を説明するために、簡単で分かりやすい理屈に頼りすぎてはいけないと思います。あくまでも問題に即して、その仕組みを解きほぐしつつ、何とか解決可能な形に持ち込む。その辛抱強い時間に耐えられる体力をつけなければなりません。

7月末から、ボカボでは「法科大学院小論文 夏のセミナー」と「慶應・難関大学小論文 夏のプチゼミ」の二つが開催されます。大学や大学院受験用の講座ですが、情報があふれる中で、どうやって「病」に陥らずに、自分なりの妥当な判断の軸を立てていけるか、追求する講座です。大学も、そういう軸を持っている学生なら、のどから手が出るほど欲しいのです。


今年も、じっくりと、しかし徹底的に文章の考え方と解き方をお伝えします! 乞うご期待!

2015年9月14日月曜日

教養・知識の欠如について

自民・公明の提出した安保法案に対して、学生団体のSEALDsが反対運動を繰り広げている。70年安保を経験した世代からすると、この団体の活動はなかなか面白い。

かつての学生の反対運動は、ヘルメットとアジ演説のイメージだった。演説では「我々はー」とか「帝国主義ガー」とか、判で押したような語句を単調に並べる。ヘルメットは赤や青に塗って「中核」とか「反帝学評」とか文字が書かれ、党派やグループが強調されていた。日本の体制に反対する割には、その行動原理は「命令」「統制」「集団主義」を前面に出していた。だから、内部で反目が起こると「内ゲバ」も起こった。

それに比べると、SEALDsの特徴はラップと自分の言葉の語りだ。演説は「私たちは...」と日常の一人称でゆるやかに語られ、iPhoneに入れられた草稿を見ながら発語される。シュプレヒコールはラップのリズムに乗せて、ときにはシンコペーションなど複雑なリズムも取る。ヘルメットも誰もかぶっていない。「自発」「自由」「個人主義」が前面に出ている。

もちろん政治に関わる限り、党派性を完全に払拭できないが、それでもかなりの程度「共産党がバックにいる」などという陰謀論的批判がデマであることを示せていた、と思う。なぜなら、今までの党派風デモのスタイルとは一線を画していたからだった。

私は安部法案には反対だが、それは「日本の若者達の文化資本も、この45年の間に豊かになったのだな」と実感できるような姿だった。

それに比べて、彼らに対する反対派は、必ずしも「豊か」とは言えない。それは金を持っているかどうか、ではない。反対派の持っている「文化資本」や「教育資本」が豊かでない、とどうしても感じてしまうのだ。

たとえば、最近、反対派が、SEALDsのエンブレムが「パクリ」だと言い出した。たとえば、次のようなツイートである。

https://twitter.com/STOP_SEALDs/status/643053102136881152

あるIT会社のエンブレムと並べてそっくりなので「パクリだ」と主張したのだが、これは筋が悪い。なぜなら、盾を4分割して色分けする手法は、伝統的デザインだからだ。そこにPCやネットでよく使う記号を並べただけだから、全体的印象は否応なく似てくる。そもそも「独創性」などという文脈にないのだ。

つまり、もし、これを「そっくりだ!」と言挙げするとしたら、こういう典型的なデザインに過去に出会ったことがない、つまり美的・文化的経験が圧倒的に足りない、ということを意味する。

そういう人が「パクリだ!」と主張するのは、もちろん、最近起こった「オリンピック・エンブレム」剽窃問題があったせいだ。そこで彼は「剽窃」という概念にはじめて出会い、たまたまSEALs反対派であったので、このやり方で叩けないか、と探したのだろう。検索してみると「似ているのがあった! やった!」となったのだ。

こういうあり方を、昔は「バカの一つ覚え」と言った。素朴な人々が、何か新しい知識に触れると、それを振りかざして何にでも拡大解釈する。新興宗教も、それと同じ手法を使う。「この教えで何でも解決できる」と素朴な人々に教えるので、「そうか! 世界はこれほど簡単だったんだ!」とはまる人々が出る。

マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と書いた。マルクス主義自身が、そういう盲信・狂信を生み出したのも確かだが素朴に信じることが盲信・狂信をうむのは確かだろう。

そういう風に考えてみると、盾を4分割して色分けする伝統的手法をさらっと応用できるSEALDsの文化的豊かさと、その事情を知らず、最近の報道で覚えた概念で批判する人々の非・豊かさは歴然としている。これは「陰謀論」的言説も同じことだ。「悪人が裏で手を回している」は、大衆文化でよく使われるお馴染みのストーリーだ。「共産党ガー」とテンションを上げる人々は、そのストーリーにはまっている。教養・知識・思考力に欠けているのに、検索技術だけはあるので、こんなことになるのだ。

そういえば、ハンナ・アレントは『全体主義の起源』の中で「排外主義は、貧乏人の社会主義である」と喝破した。ここでいう「貧乏人」とは、金の多寡ではない。なぜなら、アレントは「貧乏人」の例として、都市の中小商工業の人々を挙げているからだ。日本では、こういう人々は小金を貯めていることが多い。むしろ「貧乏」なのは、ブルデュー言うところの「文化資本」の差、つまり、豊かな教養・知識の環境にいたかどうかの差なのだ。

その意味で、SEALsが「意識高い系」であり、反対派が「社会的弱者」というのは言いすぎにしても、反対派が「社会意識的な弱者」であることは間違いないだろう。「知識・教養」という言葉は嫌な響きがあるので、あまり使いたくはないのだが、こういう文化的な差を見せられると、何ともやりきれない感じがする。

70年の後、80年代から資本主義の保守化が始まった。「金が全て」となり、理想や言葉など役に立たないとされた。その傾向はずーっと続いて、その結果が今の政権の傲慢や言葉の軽さを生んでいる。そういう状況に対して、私は個人としては抵抗してきたつもりだったが、その力は全然足りなかったと思う。ある意味、私は70年以降、ずっと「敗北を抱きしめて」生きてきたような気がする。

私は、今度の法案反対運動はぜひ成功して、廃案に追い込んでほしい。しかし、その可能性は、今の自民・公明の議会での圧倒的な強さを考えると、必ずしも高くないかもしれない。それが議会制民主主義の限界だ。

それでも、今度の反対運動で「軽挙妄動の改革」に走ることはおかしい、という雰囲気は、中流の人々の間で確実に共有されたのは確かだ。だから、SEALDsなどの活躍は十分意味があると思うし、日本社会も捨てたものではなかったのだなとあらためて感じるのである。