2014年7月16日水曜日

人と同じことをしない

法科大学院の受験は、今年も低迷したらしい。「司法試験で受かるかどうか分からないのに、何百万も払うなんてリスクが多すぎる」とか「もう法科大学院構想は破綻した」とかいう言い方がネットやマスメディアを賑わしている。

まあ、そういう言い方には一理ある。次々と法科大学院の募集停止が始まり、ついに今年は新潟大学法科大学院まで募集を停止した。「これからは予備試験だー」と一気に予備試験受験者数が増えたのも当然だ。

だが、こういう事態は設立当初から予想されていた。「法科大学院を作らなければ、法学部は消滅する」と言われて、法科大学院は乱立した。修了予定人数が、司法試験の合格予定数より多すぎる。最初から「数年たったら学校の淘汰が始まるはずだ」という見方が多かった。その淘汰が二、三年前から始まって、そのショックは小さくないが「当初の想定の範囲内」という言い方もできる。

ボカボでは、今年も「法科大学院」未修者向けの講座を開く。もともと、未修者は司法予備校の守備範囲ではないらしく「未修をねらうのでしたら、ボカボに行ったら?」とI塾とかT研究所のスタッフが勧めていた。そういうボカボへの需要があるので、今年も一定の受講者がいる、と見込んだからだ。

しかし、それ以上に「今年も開講しよう」と思ったのは、世の浅薄な風潮に腹が立ったからだ。「〜が有利だ」と聞けば、一挙にそちらに雪崩打つ。数年前は、それが法科大学院であり、今度は予備試験になったにすぎない。

上昇志向が悪いというのではない。誰だって社会的に上昇はしたい。野心はいつだって努力の源だ。ただ、世の風潮に乗りさえすれば上昇できる、世間で有利だとされる方向に行けば、自分もいい思いができる、という思い込みが浅薄なのだ。

株や為替もそうだが、上がったものは下がるし、下がったものは必然的に上がる。今、有利とされないものが、数年後に有利になる。そういうものだ。就職だって、そのときの花形産業をねらうと失敗するそのときの花形産業なんて、二十年後は衰退産業に決まっている。1960年代の時点で繊維産業に入った人は、その後どうなっただろう? それだけのことが分かっているのに、相も変わらず、皆「そのときの花形」に注目するのは情けない。

そういう意味から言えば、今、法科大学院はチャンスだと思う。期待値が下がると同時に、倍率が下がっており、有名校に楽に入れる。有名校に入れば、学歴が身につくとともに、司法試験対策も短期間でできる。いくら「司法試験合格率が低い」と言っても、法科大学院以前の合格率に比べたら、20%はまだまだ驚異的な高確率だ。

金がかかるというが、奨学金制度は、少なくとも他の大学院に比べたら、ずっと恵まれている。それなりの成績を取っていれば、申請すれば通るという。そもそも教育に投資しないでリターンだけを得ようというのは、虫が良すぎやしないか?

適性試験の点数が悪くて、と悩んでいる人もいるだろう。だが、それは小論文で挽回ができる。世の人は「小論文なんて誰が書いても同じだ」とか「所詮、知識量だね」などと言う。しかし、それは完全な間違いだ。

小論文には書き方のパターンがあり、それを身につければ評価はぐっと上がる。書き方は、もちろん随筆や新聞コラムの書き方とは違う。「文章を書くのが得意だ」という人でも、訓練を受けないと書けないし、逆に訓練を受ければ、かなりのレベルで書けるようになる。

そういう事例は、ボカボに山のようにある。大学受験で失敗し、地方でくすぶっていた若者が、一念発起してボカボに通い、有名大学院に入り、向学心に燃えて、修了論文まで書いて、教授から高評価を得た。ぜひ、この「有利な」時期にロースクールを目指して欲しい。

法科大学院小論文 夏のセミナー」には、まだ残席があるので、ふるってご参加下さい。皆様のご参加お待ちしています。



2014年3月18日火曜日

現代詩のアイドルたち

 昔は「現代詩」というジャンルがあって、私もけっこう読んだ。鈴木志郎康とか白石かずことか天沢退二郎とか、いろいろアイドルやスタアがいた。私は、詩とは何か、などまったく分からなかったので、とにかく「かっこいいな」と思えるフレーズをあれこれ収集していた。「のどが裂けて砂が吹き出す」という素敵なフレーズは、たしか天沢のだったような気がする。「とにかく、すげーっ」と高校生の私は思ったものだった。

 白石かずこの詩は、よく分からなかったが、自作の朗読をするときに、長い黒の(?)のスカートをはいてきて、さて、朗読しようとするときに脚を組む。すると、スリットの入った長いスカートがさーっと割れて、すんなりとした脚が覗く、なんて「詩人紹介」の描写にしびれた。鈴木志郎康のキャラクター「処女プアプア」も、その名前のあっけらかんさと「処女」という大時代さ加減が、面白かったね。そんな中で、谷川俊太郎が「言いたいことを言うんだ」とさかんにアジっていた。「自由」に幻想が持てた時代だった。

 ところが、今はインターネットでいくらでも自分放送局・自分メディアを通した表現が出来るのに、「マネタイズ」だとか「フォロワーを増やす」とか、アメリカ経営学の手法が幅をきかせている。ネットの相互チェックも厳しい。とてもじゃないが「言いたいことを言うんだ!」なんておおらかに言っていられる状況ではない。むしろ「戦略をもって発言せよ」なんて訳知り顔のネット・ライターが大手を振ってまかり通る。

 「冗談じゃないよ」と私は思う。せっかく「言いたいこと」を満天下に向かって言える道具が手に入ったというのに、その結果は、TV局やマスコミが陥った「自主規制」や「ポリティカル・コレクトネス」「自縄自縛」なのかよ? ネットが持っていた「未来」はどこにある? 「言いたいことを言うんだ」どころか、「もの言えば唇寒し」という状況なんて、我々が望んだ自由じゃない。

 私は、10年以上前からネットを通して仕事してきたが、ホント、この頃の窮屈さはイヤになる。「自由」に何でも言えるというより、むしろ、意図しないところと知らない間につながって、そこからムチャぶりが入る、という状況の方が目立っている。自分の一挙手一投足が、誰かに監視されているような感じ。昔「電波系」という人たちがいたが、その人たちがよく言った「自分の脳の中に、誰かがラジオの電波を飛ばしてコントロールしているんですよ」という言葉が、むしろリアリティを持つ。

 M. フーコーは『監視と権力』で、パノプティコンという権力モデルを出したけど、今やインターネットは、自分のコメントやつぶやきにまで、いちいち「他の人はどう反応するか?」と予想して、自己規制しながらおそるおそる発言するパノプティコンとなってしまった。フーコーは「そこに、権力が働いている」と主張するのだが、その発言はもはや目新しくなく、日常の風景と化している。

 私は、何をしても、何を言っても、誰も注目してくれなかった昔が、今となっては懐かしい。小さな五感の働くサークルの中でとりあえず「面白い」と言われればよかったのだから、思えば牧歌的だった。多数の他者とつながったのは良いが、そのおかげで、セレブたちと同様に、顔を隠して「お忍び」で行動しなくちゃならなくなる。これってむしろディストピアでは?

 人間が五感を介して世界と関わるとしたら、それ以外の「見えない世界」とつながるのが、はたして幸せなことなのかどうか、かなり疑問だ。確実に言えるのは、今の私は、高校生のときの私より不幸である、という感じだ。これがたんなる加齢心理であってくれれば良いのだが…はて?

 

2014年3月9日日曜日

Be Independent!

 やっと春の気配が感じられるようになった、と思ったら、東亜大学大学院法学専攻に4人のボカボ受講生が合格したという知らせが入った(3/8現在)。まだ、連絡してきてない受講生もいるので、5名前後は合格していることになる。合格者50名の10分の1をボカボ出身者が占めているわけだ。すごいね。そして、おめでとうございます!

 東亜大学大学院の「法学専攻」は、税理士になるための学校で、規定の単位を取ると、税理士試験のうち、税法二科目が免除になる。三科目のうち二科目免除になるとすると、負担は大きく軽減するので、この頃大人気なのだ。

 ただ、ここの問題はけっこう面食らう。いかにも商法という感じの文面なのだが、末尾には、しっかりと「なお、この問題は知識を問うものではなく、読解力、考察力、文章力などを試すものです」という但し書きがある。

 たいていの受験生は、そんなところを読まないから、「あっ、これは商法を勉強すればいいんだ! 税理士になるための学校だから、当然だよな」と思って、入門書を読んで「準備は万全だ」と思い込み、あえなく爆沈する。

 世の中の問題を、出来合いの知識だけで押し切ろうとすると、たいてい失敗する。学校や教育で知識を教えるのは、それが思考のモデルになるからであって、知識そのものを覚えるためではない。だが、ほとんどの人は「自分の思考」までたどり着かずに、知識の使い回しだけで何とかしようとして失敗する。教育の目的を取り違えているのだから、当然だよね。

 たしかに、企業の仕事は、自分で考えず、ひたすら上司の命令を聞いて頑張る構造になっている。実際、大企業に入っても仕事は過酷だ。新人は、朝六時に起きて、八時までには会社に行き、昼飯を食べる暇も無く、夜十二時まで仕事、なんて例がごく普通だという。「労働基準法」なんて無きに等しいし、ましてや「自分の時間」など取れっこない。できることなら、独立独歩で生活をしていけたら、と思うのは当然だろう。

 しかし、企業と関係なく、Independentでやっていこうとすると、時間も自由だけど、逆に、誰もやり方を教えてくれない。仕事のやり方から客の見つけ方から、全部自分で考えて判断しなきゃならない。商法や税法の知識は、自分の判断を的確にするための道具にすぎない。「資格」を取ることは目的ではなく、出発点にすぎないのだ。司法試験など難関の試験を通った人でも、すぐに仕事ができるわけではないのは、当然のことなのだ。それなのに「資格さえ取れば」と思う人が相変わらず多いのは、困ったことだと思う。

 その意味では、東亜大学の問題は意地悪なようでいて、実は知的な体力が大事だよ、とメッセージを出している点で「正しい出題」だと思う。来年度に、ここの学校を受験する人は、そのつもりでじっくりと「考える力」を養って欲しい。

 そういえば、ときどき「御社の添削サービスを受ければ必ず受かりますか?」なんて、情けないことを言う人がいるが、そういう人頼みを言う人は必ず落ちる。ボカボが提供している添削は最高のクオリティだけど、それを使って、考える力を伸ばすのは受講生の努力なのだ。準備時間を十分にとって、着実に練習していって欲しい。実際、「これだけではいけない」とMBA&社会人入試」個別対応コースを何回か着実にこなした人が受かっている。


 そういえば、司法試験でも、今年もボカボ出身の合格者がたくさん出ました。Sさん、Kさん、法曹としてのご活躍を期待していますよ。それに、たとえ何かトラブルが起こっても、たくさん頼める弁護士がいて心強い(笑)。皆さん、頑張って欲しい。そのためのサポートなら、ボカボはいくらでもお手伝いします!