2011年11月26日土曜日

生産財としての読む技術

この頃「文章ブーム」らしい。そのせいだろうか「文章を書く」方の企画は、どんどん通って困るぐらい。私も来年は教育もの、論文術、反論術、など、あれこれ書かねばならないものが山積み。かなり忙しい。でも「文章を読む」方の企画は、いくつも出しているのだが、なかなか通らない。

なぜか? 編集者に言わせると「読解力では売れない」からだ。「自分が読解ができないと思っている人が本を買うわけがないでしょう。書くのなら、別だけど」。…一理ある。読者とは、本を読もうという人なのだから、自分で一応読む力はある、と思っている。そんな人に「読解力を向上させましょう」と言っても、ピンと来ない。読者心理としては、たしかにありそうだ。

でも、現場から言うと、文章を読むテクニックというのは、今の日本に一番必要なものだと思うのだけどね。私の実感では、読解力がない人、理解力がない人が日本には溢れている。インターネットで発信が容易になったのはいいけど、その分、受信の能力に注意を払わなくなった。発信に熱心な人ほど、相手を罵倒したりバカにしたりすることに一生懸命で、相手の言う「良き内容」を活かしていない。そのおかげで、膨大な時間の無駄が生ずる。

議論とは対話である、と私はずっと言ってきた。意見を言うのは、皆がその問題を気にしているからであり、根拠を出すのは、他の人からツッコミが入って応えるからであり、例示するのは理屈だけではイメージしにくい人がいるからである。つねに相手の言いそうなことを予想して、それにあらかじめ対処しておく。それが、問題・解決・根拠という議論の基本構造を形作る。

その意味で言えば、よい議論とは究極の「空気を読む」行為でもある。皆の心の中に出現しそうな、でもまだ言葉にはなっていない何かを取り出して、それを言葉化して、丁寧な検討を加える。だから、良い議論展開ができると、聴衆・読者が「あー、それが聞きたかったんだ」と溜飲を下げる。そういう構造になっている。だから、書く能力と読む能力は一体で切り離せない。

論文の添削をしているとよく分かるのだが、通常の人は10回も添削を受けると、ある程度レベルが上がる。構成の仕方、簡潔な表現の仕方、論理展開と例示の仕方、などを学んで、自分の言いたいことを整理する力がつくからだ。だが、中には10回を超えても、なかなか文章が向上しない人がいる。そういう人は、たいてい課題文が読めていない。思いこみで一方的に意見を言う。だから論理展開も出来なければ、良い例示も出来ない。技術を伝授しても、元々の理解がおかしいので、レベルが上がらないのだ。

大学院で訓練を受けたときも、毎週、本を読まされて、それについてかなりの量のレポートを書くというワンセットの訓練が延々と続いた。書くことは、自分の意見を形成するだけでよいのではない。まず相手の意見を受容して、理解・要約することから始まり、要約するのは自分の見方を確認することであり、その問題点を露わにすることである。このプロセスはすべてつながっていて、螺旋状に向上するしかない。よく読める人はよく書ける人でもある。

ところが、世の中には、議論とは、競争とか闘争のことだと勘違いしている人がいる。自分の主張が勝つか/相手の主張が勝つか、そればかりに集中する。自分の主張に刃向かう者がいると、しゃにむに潰そうとする。この前のエントリでも触れたが、自分に否定的なtweetを監視して、あらゆる手を使って消そうとしたり、ちょっと信じられない行動を取る人が出現してきた。自分の手を離れたら、作品なんてどう言われても仕方ない。そういうリベラルな態度をとれないのは、一種の偏執狂だろうね。

もちろん、私は勝ち負け自体を否定しているのではない。ゲームとはそういうものだ。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。議論もゲームなので、勝ち負けを度外視することはできない。しかし、そういう人はルールを無視しても勝ちに持ち込もうとする。人格攻撃をする、ムカツク・イラツクと自分の感情を露わにする、勝手なレッテルを貼り付け罵倒する、脅して相手を黙らせる、取引を持ちかけて手打ちにする、裏工作をして自分を有利にする、などなど。互いに公平に批判し合う、という関係が成り立たない。

こういう人たちの特徴は、思いこみが激しいこと。自分の中に、ガッチリとしたフィルターがあって、何を見ても聞いても、そのフィルターを通した歪んだ像しか見ない。相手の話を聞かない/理解しようとしないで、自分のイメージにまっしぐら。例が書いてあっても、自分流の意味で染め上げる。だから話がトンチンカンになって「よい対話を楽しむ」ことができない。何を見ても、勝ち負けという政治的原理しか思えないのである。

これを防ぐには「読む技法」を訓練して、相手の言うことをまっすぐ受け止めなければならない。私の立場では、文章は「感動」のための消費財でなくて、人と「交通」するための生産財だ。いくら感動しても、それだけでは自分は豊かにならない。他人を感動させられるような文章を自分でも作り出さねば「豊か」とは言えない。そのためには「豊かさ」のメカニズムを知る必要がある。自分が「好きな」文章の作られ方がどうなっているのか、理解せねばならない。そのうえで、何度も練習して身につける必要がある。

だけど、日本の学校では、読むことは「感情的共感」だと思われているらしく、分析的に把握する技術が教えられていない。技術が云々されるのは、受験テクニックだとバカにされる。「心をむなしうして読めばぴたりと分かる」なんて、readingは占いじゃないんだけどね。分析がないから、本を読めば「感動」するもんだと思いこむ。ときどき「先生の本を読んで感動しました!」と言われる。でも、私の本は、そういうタイプの本じゃない。感動なんてしなくてよいから、理解して役立ててくれればよろしい。

こういうベタベタした「共感」関係から離れて、顕微鏡で微生物を覗くみたいに、距離を取って吟味する、という姿勢にならないものか。感じる・昂奮するより、分かる・納得する。そのためには、主情的な文章理解を止めて、理性的にならねばならないのだが、今だに「美しい文章」なんて権威主義が国語教育でまかり通っているのを見ると、なかなか大変かなと思う。

ボカボでは、今年のロースクール、MBAの受験は一段落。やった結果はちゃんと出たと思います。来年から「小論文 Weekend Gym」を毎週土曜日に行います。小論文の講座はいろいろなところで行われていますが、内容・レベルはさまざま。文章の冷静な理解と表現、構成と分析の基本テクニックという点では、日本のどこにもない講座になると思いますよ。