2011年12月29日木曜日

今年の結果と来年への抱負?

今年のボカボの結果も出そろいました。ロースクールは東大、阪大、早稲田、中央、明治、立命館などに合格者がたくさん。MBAは東工大、小樽商科大、早稲田など、これも例年以上です。大学受験は慶應SFCのAOなど。そのうちに、「合格者の声」とか「合格答案」などがどさどさっと出てくるでしょう。合格者の皆様、よろしくね。

さて、この頃、twitterで教育のことをつぶやくと、その度ごとに反応が妙に大きい。何でだろうね?たしかに、子供の教育は、これからの日本の将来を決めるという側面があるので、関心が強いのかもしれないけど、それにしても、子供の心配をするより、自分の心配をしたら、とつい思ってしまう。

私は、幸か不幸か子供がいないので、教育に関わっていながら、あまり教育を語ることに熱心になれない。というより、教育という営為はそもそも時間がかかり、非常に非効率なものなので、因果関係が明確に出ない。そのとき良いと思ったことでも、後から「何だかな」と感じることは少なくない。だから「こういう教育がよい」と、口角泡を飛ばして論じる人の気が知れないのだ。「あなた、何を根拠にそんなにの確信的に語るのですか?」って、つい聞き返したくなる。

実際、教育改革なんてだいたい失敗しているじゃないか? 直近の例では「ゆとり教育」。あれが始まった直後、公然と批判する人は少なかったと思う。「生きる力」とか「自分で考える力」だっけ? あれも反対は出来にくいスローガンだったと思う。でも、その結果はどうか?「学力低下が起こる」って、よってたかって非難しまくって、結局元に戻った。当初喧伝されていた「受験勉強批判」の高邁な理想はどこに行ったのかね?それと「教育再生会議」。ノーベル賞学者とか、熱血先生とか、水泳選手だとか、雑多な人々がよってたかって出した結論がお粗末だったのは記憶に新しい。

逆に、熱意を持った教師側が引っ張っていくスタイルの失敗もまた無惨に失敗している。有名な愛知管理教育がどういうものかは、もう30年も前に体験者が赤裸々に語っている。(内藤朝雄「〝熱中高校〟って何だ 愛知東郷高校で何がおこなわれているか」)体罰はし放題。校則は極限まで厳しくする。進学実績を上げるために、志望してもいない大学を受験させる。疑問を持った生徒が生徒会に立候補するのを妨害する。異分子はすぐ退学させる。

最近でも、愛知の某大企業が作った全寮制高校でガチガチの進学管理教育をやって、入学者が半減したとか。あるいは「教育再生会議」の某社長が理事長を務める高校でも、英検の不正事件が引き起こされた。事件後の対応が素晴らしい、なんてうがった意見もあるが、そもそも英検の成績を上げようと教師が不正の手伝いをする、という体質がおかしくはないか。結局、日本の企業家って「自由競争の精神」とか「次世代リーダー育成」とか、いろいろ口当たりの良いスローガンは出すけど、ほとんど日本の中に北朝鮮まがいの空間を作っているだけなのだ。どこが「自由経済」の旗手なのだろうか?。

かといって、生徒側の自主性を尊重しようとする左翼運動家の方法を取っても似たようなことが起こる。原武史は『滝山コミューン1974』の中で、日教組の全国生活指導協議会という団体の教師が、政治的手法で生徒の熱狂を煽り、結果的にどのように抑圧的な教育をしたか、克明に書いている。右でも左でも「理想の教育」を掲げる人間が、実際に教育を行うと、思想統制や洗脳に近いものとなってしまうのは、興味深い。

ここまで「理想の教育」の死屍累々たる様を見たら、外部の者が受け取るべき教訓は一つ。下手に外部から口を出してはいけない、ということではないだろうか? 効果が上がらなくても、進歩が遅々たるものに見えても、所詮人間の欲望や自然とは反する業務を行っているのだから、大目に見なくてはいけない。

もう教育制度の議論は止めたらどうか、と思う。教育の実質は制度なんかで決まるものではない。教師と生徒/学生が顔をつきあわせて、個人対個人の間で思考のやりとりをするという中にしかないのだ。それを現場でやってみる。

ボカボで行っている「教育」があるとしたら、それしかない。「自分はこの問題について、こう考える。あなたはどう考えるか。その根拠はどこにあるか」というやり取りするだけだ。ただし、そのやり取りでは「自分の考えられるギリギリの内容」を伝える。だから、相手からも「自分の考えられるギリギリの内容」が返ってくる。そういう双方向のコミュニケーションが成立すれば「自分の限度まで考え抜く」という姿勢が身につく。それだけで、だいたいはうまく行くのだ。

世の「教育制度改革」がだいたい失敗するのは、その具体的プロセスを無視して、結果を出そうとするからだ。だから英検の合格者数をあげようと不正をしたりする。だが、教育にはプロセスしかない。結果は後からついてくる。というより、結果を無視して熱中しなければ、結果は出ない。でないと、目的が自己の利益に偏り、徹底的に考える姿勢がなくなるからだ。自分の利益すら本当に大切なのか、と検討するのが、正当な理性の働きだ。

伝えられる情報/知識なんて時代とともに変わる。思い違いもあるし、エビデンスが足りなくて解決が出来ないこともしばしば。でも、徹底的に考える姿勢さえ身につけば、間違っても、後でいくらでも修正できる。もうボカボで10年やってきたけど、この方向はずっと変わらない。だから志望校には合格したけど、ボカボでの勉強はずっと続けたいですね、なんて受講者も出てくるのである。

さて、2012年はどういうことになるのか? さまざまな社会予測は飛び交うが、我々のやることは一つ。ステレオタイプの見方にかぶれたり、どっかから内部情報をもらって「得した」と感じたりすることではなく「自分で考えて問題点を発見し、その解決を考えぬく」ことだけ。そういう考えだけが「自分で選んだ、自分の生きるに値する人生」だと思うわけ。そのcreativityとrealityは見る人が見れば必ず分かる....

ちょっとエラそうな調子になりかかっちゃった。まあ、年末だからお許し願いたい。ボカボは来年も同じ姿勢で淡々とやります。だって、今までそれでちゃんと成功してきているんですからね。来年も、Real Schoolでは「小論文セミナー Weekend Gym」「法科大学院 適性試験Advanced」「大学入試 難関・慶應小論文 冬のプチゼミ」などいろいろ講座を準備しています。乞うご期待!