2013年7月2日火曜日

ツイートと論理


この間ツイッターで妙な理屈を見た。

「児ポ法を通さないために自民党に投票しません!」  何だろうね、この「健康の為なら死んでもいい」のバージョン違いみたいな奴は。

児童ポルノ法反対を批判しているらしい。そんなことより、自民党に投票しろよ、と。

児ポ法を通さないために自民党に投票しません
 ‖比喩・同等
健康の為なら死んでもいい

この人の中では、こういう等式が成り立っているらしいので、対応関係は、つぎのように書ける。

児ポ法を通さない=健康である
死んでもいい=自民党に投票しない

要するに「死ぬのはいやだ」という誰でも分かる価値基準を手がかりにして、「自民党に政権を取らせる」ことを主張しているのである。

死んでもいい(ダメ)=自民党に投票しない(ダメ)→自民党に投票せよ

なぜ、「健康」は「死ぬ」ことに比べたら重大事ではないか? 生きていればこそ「健康」には意味があるので、死んでしまったら、「健康」には意味がないからである。つまり、「健康」は「生きている」=「死なない」を前提条件にして始めて価値がある。死んだら健康なんて何の役にも立たないじゃないか。では、同じ関係が「児ポ法を通さない」と「自民党に投票しない」にも成り立つのか?

ちょっと具体的すぎる議論なので「児ポ法を通さない」は「表現の自由」のためであると単純化してみよう。一方、「自民党に投票しない」とどうなるか? 最近の自民党の売りは「アベノミクス」という金融緩和策。これが有効であるかどうかの議論はひとまず置く。経済指標は上向いているが、投資家ジム・ロジャーズのように「一時的現象だ」という批判もある。とりあえず、これも単純化して、自民党の金融緩和策が有効で経済が上向いているという仮定を受け入れよう。上の論者もそういう立場だろう。

すると「自民党に投票する=経済状態がよくなる」という等式が成り立つ。つまり「死んでもいい」は「経済が悪くなってもいい」という主張と同じになる。結局、先の人が批判していた主張は、次のような内容だ。

児ポ法を通さないために、自民党に投票しない
  ‖意味
表現の自由を守るために、経済状態が悪くなってもいい

さて、ここに、先ほどの「健康」は「生きている」「死なない」を前提条件にして始めて価値になるという理屈を適用すると、次のように書き換えられる。

表現の自由は、経済がよくなって始めて価値になる
 ‖
経済状態が悪かったら、表現の自由など価値ではなくなる
 ‖
経済状態が悪かったら、表現の自由など何の意味もない

このように整理してみれば分かるが、これはけっこう過激な主張である。だが、経済が良ければ、自由はどうなってもいいのか? これはけっこうcontroversialな議論であろう。

たとえば、同じような議論は、原発設置の問題でもかつて出た。新潟県巻町では、原発を作るという提案が出てきて、リコールや住民投票など、町政が大騒ぎになった。原発反対派は、共産党・社民党の支持者ではない。むしろ、長年の自民党支持者だった。しかし「原発に反対」しようとすると困惑する。原発反対を言うのは共産党・社民党だけなどで、自分の政治信条は相容れない。だからといって自民党議員に入れれば、原発推進を肯定してしまう。いったい、どうすればいいか?

これは価値観の問題だろう。選択は、我々が「安全」「自由」と「経済」のどちらを選ぶか、にかかっている。経済が繁栄するのなら「危険」「不自由」を忍ぶべきである。これは一つの判断だが、同様に経済が繁栄しても、「危険」「不自由」が大きくなるのはいやだ、というのも一つの価値基準である。少なくとも、「『健康の為なら死んでもいい』のバージョン違い」と揶揄される筋合いではない。

巻町の原発反対派の住民はどうしたか? 原発に反対するために、自分たちの政治的信条とは適合しているはずの首長・議会をリコールしたのである。原発というシングル・イシューのために、政治・経済などで自分たちと一致している人々を拒否した。そんなことを呟いたら、次のような反論が来た。

今後の政治のかじ取りをどこに任せるかは、児ポ法ごときでは決められないと思いますね。

私の返答。
そもそもナチスはドイツ経済を復興させたという大きな功績がある。それだからといって、全体主義を容認していいことにはならない。「経済が回復するなら、表現の自由はどうでもいい」でしょうか?

相手の反応。
というより、「自民党=全体主義」という決め付けがある時点で齟齬があるのでは?

この反応がずれていることは分かるだろうか? 私の全ツイートは、わざと刺激的な比喩で書いているのだが、前半は比喩であり、後半がメインのメッセージである。ところが、彼は、前半に引っかかる。

私の返答。
決めつけではありません。今の政権にそういう印象を持つ人がいることは認めるべきです。そもそも国民に義務を課すことにばかり熱心なのに「自由主義」とは言えませんよね。経済が回復しても不自由はイヤだと拒否するのは当然です。

相手は、急に感情的になる。
自分はそういう手合いとは距離を置かせてもらってますんで。精神衛生の為にも。

そこで追撃。
要するに、あなたは金のためには自由は犠牲にしてもいいという立場なのですね?

相手。
両立しようという頭は持ち合わせていないんですか?

私の返答。
私は両立させたいですが、踏み絵を迫っているのは、むしろ自民党でしょうね。経済を立て直したいなら、国民の権利を制限する憲法改正もセットだよ、と。

相手。
つ「金の無いのは首の無いのと同じ」

予想通り。結局、経済のためなら、自由などという原則はどうでもいいという立場にたどり着くのである。でも、最初はそういう自覚はない。「経済」と「自由」を両立しているつもりなのだ。でも、論理を追っていくと、自分の主張が分かってくる。最初は、自分の議論の建て方がそもそも何にたどり着くかがシミュレートできないままに、主張しているのである。

ちょっと浅はかではないだろうか? 経済なんて、あっという間に変化するものである。そんなものに翻弄されて「表現の自由」という、過去からもらった政治的遺産を投げ捨てていいのか? もう少しよく考えたらいいと思う。

もう一つ、ツイートで見た議論。共産党の議員が討論番組で「侵略されたらどうするんですか?」と問われて「市民が武器をとって防衛するんです」と言ったので「バカか! 自衛隊がなくなったら国を守る人間がいなくなって困るだろう」という意見があった。

これも「バカ」と言った方の認識が浅いね。自衛隊を、国防サービスを提供する企業と間違えていないか? 軍隊とは、国民が国家を防衛するために作った組織だ。したがって、侵略されたなら、当然、市民もその組織下に入って戦うことになる。だから、徴兵制も正当化される。自衛隊は傭兵ではない。国民の代表として、戦うわけ。だから、何らかの事情で軍隊がなくなったら、市民が戦うのは当然なのだ。

こういう覚悟を理論化したものが「共和主義」だ。自分たちの国家を、よりよいものにしていくために主体的に関わるべきだという考え方だ。この「共和主義」はアメリカも同じだ。自分たちの土地が侵略されたら、自分たちが銃を持って戦う。共産党の人は、期せずして、アメリカ民兵思想のも正当化していたわけ。ちょっと皮肉だけど。

こういう「共和主義」が徹底的に軽蔑するのは、戦争を「他人事」として丸投げしてしまう人間。だって、そういう人間は、結局国家建設という理想には無縁だからだ。自衛隊の人だって、俺たちは国民を守るために死ぬかもしれないと覚悟しているわけ。それを「戦争が丸投げできるから、ボクは自衛隊が好き」って言われたら「何だかな」と思うだろう。

この頃出てくる自称保守派の議論は、「えっ、こんな程度だったの?」って議論が多くて、ちょっと危惧している。私も「保守派」のつもりだったけど、これでは保守思想の「劣化」だろう。せめて、自分の言っている議論がどういう立場にコミットしているか、どんな結末を生むのか、どんな社会を生み出すか、先を考えてから呟けばいいと思うのだが、あまりにもその訓練がなさ過ぎるのだろうね。でも、そんな感じで「日本万歳」なんて無邪気に言うのだから、余計危ないのだけど…

とは言っても、私はこういう人たちを責めたり批判したりしているわけではない。むしろ、自分たちの生活の中でいろいろ感じていることがあり、それを何とか言葉や思想、あるいは主張としようとしていることは素晴らしいことだ。ただ、その主張の一貫性をチェックしたり、ロジックを構成したりする道具が足りない。だから、説得力も足りなくなるし、自分の意見の方向性も間違える。その道具が見つかれば、もっときちんと現実を考察できるはずなのに、とちょっと残念な感じがする。

ボカボの夏は例年通り、議論の訓練の講座を始めます。726日からは大学受験生のための「慶應・難関大小論文 夏のプチゼミ727日から、ロースクール受験生のための「法科大学院小論文 夏のセミナー」が始まります。現場でいろいろ考え、世の中を変えたいという志がある人々を応援したいと思います。自分の論理を徹底的にシミュレーションすることで、主張のねじれをなくし、証明・例示の正確さを向上させます。自分の意見の方向性を見極め、議論で「説得力を上げる」ためには、何が必要なのか、会得できるはず。きっと、自分の意見・主張を一段高いレベルにまで引き上げられると思います。皆様のご出席をお待ちしています。