2017年5月11日木曜日

言葉の変質と自分の立場

ゴールデンウィークも、すでに終わりましたが、皆様、いかがお過ごしでしょうか? 私も、二月〜四月にまとめて本を五冊出すという「暴挙」がやっと終わって、少し落ち着いた日々を過ごしています……

と言いたいところなのですが、世の中には、何だか不穏な空気が漂っています。例の籠池事件の後に、北朝鮮危機、さらには共謀罪とか、憲法改正ロードマップとか。

私は、それほど政治的な人間ではないし、社会主義にも共産主義にも共感しません。だから、今までは「私は保守」だと称していたのですが、いつの間にか、共産党の主張が一番まともに聞こえる、という妙な事態になってきた。これは、私だけではないらしく、この間も、政治学者の中島岳志氏が「私は保守派だが、現在は共産党支持である」と発言していました。

「保守主義」の定義は、エドマンド・バーク『フランス革命の考察』に明らかです。人間の理性に全幅の信頼を置かず、それなりに長きにわたって続いてきた習俗や慣習には、歴史的な知恵が蓄積しているとして、むやみと「合理性」から判断して破壊せず、尊重すべきだという主張です。

実際、フランス革命は「理性」に全幅の信頼を寄せて、社会を変えようとして、その後100年にわたって混乱し、バークの言うように「火と血と浄化され」るという羽目になりました。

同じことは、中国の文化大革命にもソビエト革命にも、カンボジアのクメール・ルージュにも起こりました。たとえば、カンボジアでは、現在の不正の温床は「都市と農村の分断にある」と主張されました。

都市の人々は生産現場を知らず、空理空論に陥り、生産を軽視して、利益を独占する。これが社会に不正を生み出す。だから、人々が生産現場に直接関わって、現実に即した思考ができるようにすればいいはずだ。ここまでの理屈に、とりたてて間違いは見当たりません。「合理的」です。

だが、大人達は現在の体制に適応しているので、それを正当化しがちだ。だから、子どもたちの方が「正しい思考」ができる。そこで、都市のインテリ階層を農村に送って強制労働させ、子どもたちに武装させて大人の監視をさせました。その結果はどうだったか? 全土で400万人を超える人々が虐殺されました。

この話が怖ろしいのは、その主張が「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、論理の鎖で緊密につながれ、一見正しそうなことです。たしかに、今でも都市と農村で格差・不平等があるし、それは是正されるべきでしょう。大人が腐敗しているのもその通りでしょう。クメール・ルージュは、それを具体的に是正しようと、その論理を実行に移し、大規模な虐殺を引き起こしたのでした。

いったい、どこで間違ったのか? この矛盾を説明しようとしたのが、保守主義の「理性的判断を信用しすぎてはいけない」でした。理性に基づいて、性急に判断して、社会を変革しようとする態度に対して「ちょっと待てよ、何か見落としていないか?」と懐疑する態度が大事である。これが本来の「保守主義」の意味するところなのです。

しかし、現在、巷で言われる「保守派」の主張には、そういう慎重さが見られません。それどころか、ますます急進的でラディカルになろうとしています。

たとえば、戦後70年曲がりなりにも続いてきた「平和」とそれを守るための「日本国憲法」の廃棄が主張される。「そもそも国民に人権があるのがおかしい」と近代に打ち立てられた政治原理を真っ向から否定する。「自衛隊は違憲ではない」という内閣法制局が積み上げてきた解釈を捨て、「自衛隊は違憲の疑いがあるので、憲法改正すべきだ」と総理大臣が言い出す。

つまり、現在の「保守派」の主張は、それなりの長きにわたって続いてきたあり方を根底から変えてしまおうとする試みなのです。とすれば、今の「保守」は、保守主義ではなく、むしろ右派的イデオロギーによる「革命主義」です。

しかも、そのイデオロギーは「合理主義」の眼から見ても、疑問が少なくない。たとえば、現状の代わりに打ち立てようとするのは「教育勅語」「明治憲法」「戦前体制」などの「日本の伝統」です。だが、なぜ「伝統」が明治で止まるのか、よく分からない。なぜ、江戸時代まで戻って「幕藩体制」にしないのか、平安の伝統まで遡って「摂関政治」を復活しないのか?

しかし、「保守派」は、そんな理屈っぽいツッコミに関心を持ちません。「日本の伝統とは何か、もう決まっています、あなたみたいなことを言うのは、そもそも反日です(キリッ)」と取り付くシマもない。相手を敵だと認定したら、根拠を一緒に検討するのも拒否する点では「合理主義」ですらない。これは、もはや宗教的信条dogmaと言っていいでしょう。

こういう人たちとは議論はできません。なぜなら「我々の宗旨に賛同するか、それとも反対するか? ちなみに反対なら攻撃するけど(キリッ)」という二者択一になるからです。つまり、かれらの考えは「我々の信じていることは正しい。それに反対する悪魔の手先をあぶり出し、皆殺しにすれば、地上の楽園ができるはずだ」という宗教戦争の理屈なのです。

近代の政治理念は、このような宗教戦争の理屈の否定から始まりました。宗教戦争では、カトリックとプロテスタントが対立して、住民同士の殺し合いになったため、ヨーロッパ全土を巻き込んだ大虐殺を引き起こし、大きな社会的損失を引き起こしたからです。

だから「政教分離」で宗教が権力と結びつくことを禁止し、真実の究明より「人権」を大事にし、正義を性急に貫徹することより「適切な法手続」を優先した。「宗教」「真実究明」「正義」などが暴走すると、どういう悲惨を引き起こすか、身にしみて感じたからです。

もちろん、これは歯がゆいやり方でしょう。「人権」や「適切な法手続」を優先すれば、当然、悪の一部分は見逃される。理想の社会も実現しない。それが許せないなら「人権」「適切な法手続」を無視して「正義」を追求することになります。だが、それが徹底されると、逆に、無実の人が罪に陥れられることも出てくる。さて、どっちを取るか?

このとき、近代政治では、「宗教」「真実究明」「正義」が暴走するコストがとてつもなく大きくなることを知って、「人権」「適切な法手続」を優先して、小さい悪は見逃しても、社会が安定する方を選択するのです。こういう歴史的経緯を大事にしようというのが、中島氏の「保守主義」なのです。

そこまでは分かるとして、それが、なぜ今「共産党の主張がましだ」と結びつくのか? 共産党は「合理主義」の権化で、ソビエト革命という混乱も引き起こしているのに。

それは、「合理主義」は、少なくとも懐疑の手段として使うなら、宗教的dogmaより、相手との議論の余地ができるだけ、まだましだからです。「悪魔の手先は殺す」というような宗教右翼とは、そもそも話できません。だから、「保守主義者」が、きちんと理屈に基づいて話せるだけ、共産党がましだと広言するのは、おかしくないのです。

私も、彼の言うような意味なら「保守主義者」です。だから、数年前までは、そう広言もしてきました。でも、そのうちに「保守」の意味が変わって、もう自分が使ってきたような意味を、この言葉に込めることは不可能になりました。同じ言葉なのに、180度意味が違って使われる。こういう急速な変化の中、世間に流されず、自分の立場を見極めることの難しさを感じますね。


言葉をきちんと定義するということは、雰囲気に流されずに、状況を検討し、自分の位置を築く、という根本につながっています。「保守主義」という言葉を取り巻く状況を見ていると、これがけっして簡単なことではないことがよく分かる。私も、まだまだ、やらなければならないことはたくさんある。五冊ぐらいで、泣き言を言っている場合ではないのかもしれませんね。