2011年10月31日月曜日

ディベート好きの議論下手!

この一両日ほどTwitter上で、京大准教授T氏なる人と論争していた。ことのおこりは、編集者に彼のディベートの本を勧められたこと。読んだら初歩的でびっくり。「主張には根拠を出す」という、通常の解説なら最初の30ページで終わることで終始する。Twitterを見ると、やや言葉はキツかったが、批判的な意見も書き込んである。同感なのでRT。ところが、その次の日、T氏から妙なtweetが来ていた。

「黙殺されるのも自由ですが、論文指導業界には残念ながら、そう言う方もいるのだなと認識させて頂きます」

???? 私が何を「黙殺」したというのか?しかも「そう言う方もいるのだな」とは、何の喧嘩を売っているのだ?

TLをみると、どうやらT氏が批判tweetを見つけて「どういうことだ!」と文句をつけたようだ。相手は面倒だと思ったのか「ただのつぶやきです」と弁解。そしたら、Tは「最初のtweetを取り消せ!」と迫ったらしい。そこまで工作しておいて、私宛に「RT する前にその後のやりとりもチェックいただけるとよいと思いますが」と書いたことが分かった。

でも、どうなんですかね、こういう態度。

私は、twitterは自由な発言の場だと思っている。デマ・中傷は別として、作品に対する評価は自由だ。とくに一度出版したものなら、評価は読者に委ねるべきだ。それを、自分に気に入らない書評を見つけるや、しゃにむに潰しにかかるとは、ちょっと執念深すぎやしないか?私の返事。

「…似たような第一印象の人がいたのでRTしただけ。『その後のやりとり』も見ましたが読者をやりこめるのは?? でもこのような初歩的内容を京大でやられているとは状況憂慮すべきですね。私は高校講演でももう少し先まで話しています」

そしたら、次のようなリプライ。

「本はあくまでもエッセンスですから。大学の授業でははるかに先をやります。あとは、演習リサーチが大半を占めます」

でも、これじゃ「東大×京大×マッキンゼーの最強授業」という売り文句と違い、京大の授業と関係ないと認めているようなもの。弁解としてもうまくない。そんなわけでさらに追求。

「要するに新書は総論ということですね。ただ、…原理はこれだけ?という思いを禁じ得ません」

彼のリプライ。

「ディベートとしての基本原理は突き詰めれば極めてシンプルで、事例も新書一般読者に解けるものにしてあります。この本を見て京大のレベルを勝手に想像されたりとか…ご自分が持ってきたい方向の議論で挑発されている様に思いますが、的外れです」

ようやく自身の発言の不用意さに気づいたらしい。だけど、読者が本から想像するのは当然の権利。本だけで判断するな、と文句をつけるより、むしろ講義の高度なレベルを描写するのが筆者のつとめだろう。それが出来ないままに「的外れ」と言うのもどうかな。

もちろん私は「挑発」していない。本の評価をしているだけ。T氏も認めるように、この本は「極めてシンプル」…すぎで、もっと前に理解しておくべき内容だ。実際、私は「主張には根拠が必要だ」と高校での講演の最初の部分で触れる。もし、これを大学であらためて教える必要があるなら、レベルが低すぎる気がする。実際、後でT氏は次のように述べている。

「(この本の)大元って、SEG(数学中心の大学受験予備校) の春期講習でディベートの授業をやった所から始まっているのですよ。…医学部受験生を念頭に置いた…授業だったので、安楽死とか出生前診断とか代理母とかも扱って、自己決定とその限界みたいな話もしました。…そう言う意味では、かなり意識の高い中学生もターゲットだったわけです。そこから、取捨選択をして、…現在の本を作った」

つまり,これは予備校の医学部受験生向け講義だったわけ。なるほど、それなら分かる。医学系小論文なんかでは、面倒な問題が頻繁に出てくる。当然、賛成/反対が拮抗する。ディベートすると、自分で立論を考えて両論の理屈がより分かる。とくに、大学受験など知識を覚える作業ばかりを強いられていると、思考を刺激されてたしかに面白い。

でも、ディベートで両論を理解すれば、代理母の問題を確信を持って是認/否定できるわけではない。むしろ、対立がハッキリして、どちらにも一応の理があることが分かる。だから、現場の医療者だって考えれば考えるほど、問題の困難さの前に立ちすくむ。そういう構造になっている。それを「ディベートさえやればサクサク決断できますよ」と煽るのはちょっと違うのでは? そこでもう一度確認のtweet。

「つまり、あの本の内容は京大で実際におやりになっている授業とは関係がないわけですね?」

彼のリプライ。
「関係なくはないですね。レジメの大半を、採用してます…」

急に調子が弱くなった。

「…ご自身のポジショントークだと思うし、吉岡さんは吉岡さんのビジネスをやっていれば良いでしょう。吉岡さんがどういうバックグラウンドの方かよくわかったのでもう気にしません」

都合が悪くなって議論からの逃走にかかったみたい。でも、議論の相手に対して「ポジショントーク」はやや失礼。あなたが批判するのは、悪意があるからだ。だからもう「気にしない」し、聞くつもりもない、だって!?

でも、悪意を指摘しても、相手の主張の正当性は一ミリも後退しない。あくまで中身に従って論破しなくてはならない。この論法だと、彼を批判する人はすべて自分を陥れて、自分の利益を拡大しようとする「ビジネス上のライバル」になる。実際、T氏は次第に脱線し、私の素性/素行調査に精出す。

「気になったのが、吉岡さんのいう『関係』概念がゼロイチの点です。具体的には…書籍の内容が平易すぎれば当然授業も平易であり学生レベルも低いというところです。…残念ながら、吉岡さんの指導教官や卒論、修士論文をチェックできなかったので、ハッキリしませんが、社会構造を割と一体でとらえる古典的な理論に近い人なのかなと感じました。時代的には吉田民人さんとかだと何となく整合します。富永健一さんではないだろうなと」

人の過去を詮索するのは勝手だけど、この批判もおかしい。教授の影響で学生が同じ発想をする?でも、それこそゼロイチ思考、つまり「社会構造を割と一体でとらえる古典的な理論」だろう。

どうも、この人は議論するうちに、自分の主張と矛盾することを言い出す癖があるらしい。これでディベートなんて危なっかしくて仕方がない。付け加えると彼の推理も間違い。私はれっきとした富永健一ゼミ。もっとも不肖の弟子で、富永先生はまったく私のことを覚えていなかった。こんな風に、教師と弟子はすれ違う場合もあるのだ。

「…お互い、ジセダイの若者の育成に戻りませんか?私の本は結構有名な大学の基礎ゼミでも推薦されているらしいのでその点から大学の学力低下を批判されるのは正当だと思いますし、またそのギャップを埋めることを吉岡さんがビジネスにされているわけですから」

地方の談合じゃあるまいし。私は同業扱いされたくないなー。「結構有名な大学の基礎ゼミでも推薦されている」と権威主義を丸出しにしたあげく、「吉岡さん」も「ビジネスに」しているから「お互い」様でしょう、とウヤムヤにする。何だかオヤジっぽい。そもそも、教育の話なのに、いつの間にかビジネスの話にするのは「論点のすり替え」だと思うけど。

以上、彼の議論の特徴を列挙すると以下のとおり。

1 他者からの批判を許さない/拒否する
2 批判者から容易に突っ込まれる主張をする
3 批判をポジショントークだと反撃する
4 自己矛盾した議論をする
5 自己の正当性を権威に訴える
6 一方的に論点をすり替える

どれも議論の時にはやってはいけないことばかり。これが「ディベート思考」を唱導する正体だと思うと、ちょっと情けなくなる。こんな風に大学生がディベートを習う状況も不幸だし、それを権威ある方法だと思わされて、本を読む人はもっと不幸。私も、出版が「知的貧困ビジネス」になることが多いことは知らないわけではない。しかし、それは「ノストラダムスの大予言」ぐらいにしといてね。

少なくとも教育に関するものは、最低「ちゃんとしたレベルを教える」というコンセプトにしないと。リベラル・アーツが大事だという主張自体は悪くないのになー。その中身がこれでは残念。でも、こういう考えは、厳しい経済情勢の中で甘ちゃんすぎると言われるのかもしれない。売れるためには何でもやらなくっちゃ。うーむ、いやな世の中だなー。