2011年5月27日金曜日

モグラ叩き社会

原発の海水注水が55分中断した責任はどこにあるか、ということで日本は大騒ぎになっているらしい。菅総理が指示したから遅れたのだという人あり、指示していないという人あり、専門家のアドバイスに従ったからだという人あり、いや俺はそんなこと言っていないという人あり、実は現場の判断で中断していなかったという人あり、しっちゃかめっちゃかなのである。

今更そんなこと言ったって、現に原発から放射能は漏れているのだし、55分の中断が誰かの責任であることが分かったとして、状況が変わるわけではない。そもそもが原発を推進させてきたのは、今までの国・政府の決定の蓄積なのだし、それを許してきたのは国民の総意。私も、ことあるごとに原発は危険だと言ってきたつもりだが、結局、何の影響も与えられなかった。これでは、同意書名をしていたと同じ。自分だけ被害者面して、責任者は誰だ!と呼ばわるのは、もういい加減に止めた方がよい。

「リスク社会」と言うが、たぶん日本は、黙っていると責任を負わされる社会になっているのだろう。だから、我先に「被害者」の肩を持とうとする。でも、本当に自分は「被害者」の側になっているのか? 

自民党の追求がどこか見苦しいのは、過去に自分達が原発を推進するのに荷担していたくせに、急にフクシマの被害者にすり寄ったからだろう。過去の責任を負わされる前に、とりあえず他者を批判する。あわよくば、自分達が「被害者たる国民」の代表になれたら、ともくろむ。でも、それをするには、自分達が原発推進派だった記憶が少し新しすぎやしないか?

前にも取りあげた佐々淳行は、はしなくもホンネを吐いている。「福島第1原発の所長の判断を支持したい。私も警察時代、現場を見ていない上層部から下りてくるむちゃな命令を何度も握りつぶした経験がある。そのまま従うとさらに大変な事態になるためで、今回も処分すべきは所長ではなく、官邸の顔色をうかがって中途半端な指示を出した東京電力の上層部ではないか。それにしても東電の対応は危機管理の体をなしておらず、これほどあきれた組織だとは思わなかった」

つまり、彼の言によれば、日本の組織なんてまったく上意下達ではないのだ。どんなに上層部が判断したって、現場の判断の方が優先する。面従腹背は、命令服従が原則の警察も同じ。警察だって「いい加減な組織」なのだ。こういう有様なのだから、日本の権力組織はだいたい同じだろう。総理が何を言おうが、東電幹部が何を言おうが、やるべきことは現場の判断でやる。でも、もし現場が上層部の命令を「握りつぶす」組織なら、上層部の責任を追求することに何の意味があろうか?

いったい、佐々はどっちがいいのだろうか? 上意下達の権力的組織なのか、現場の判断を尊重する弾力的(つまり「いい加減な」)組織なのか。後者を是とするなら、上層部の命令に従わなかった現場責任者がいる組織は、むしろ素晴らしい組織になる。実際、自らがいた組織もそうだったと豪語している。それを「これほどあきれた組織だとは」と言ったら、現場責任者を罰しなくてはならない。天に唾するとはこのことである。

あれを叩き、これを批判しているうちに、いつの間にか自分をもぐら叩きしてしまうわけだ。本人はもう少し首尾一貫したことを言ったつもりかもしれないけど、こういう状況は普通「支離滅裂」と言われる。しかし、それに気づかないで「東電批判」を続けてしまう。けっこう論理的に素朴な人なのかも。でも、理屈の支離滅裂さに気づかないまま、平気で掲載するS新聞も相当なものである。

これを見ると、日本のコメンテイターやメディアの論理力、国語力はたしかに低い。ある評論家が言ったように、「今回の原発事故で一番感じたのが、この国の政治家や科学者や技術者の日本語の表現が下手すぎる」こと。ただ、そのために「国語教育を全面的に改革」して「書く教育」にシフトする必要があるとまで言われると、ちょっとね。さすがに、危機対応の失敗は国語教育のせいじゃないだろう。

まあ、でも、この改革は昔からボカボでも言っていたし、本当にやってくれるのなら、大歓迎なんだけどね。嘆くだけでなく、実行可能なヴィジョンも提示してもらいたいね。

2011年5月18日水曜日

感覚のリテラシーを育てる

我々は、だいたい会社や組織に属して忙しく働く生活を強いられる。コストをかけるな、利益を上げろ、とヘトヘトになるほど使いまくられる。だから、休みになると、その反動で豪勢に金を使い、暴飲暴食し、着飾ってホテルライクな空間に自分を置く。そういう富を蕩尽する生活が豊かだと思う。

でも、これらは、所詮金を巡ってのゲームに過ぎない。金の奴隷になっているからこそ、金を自分が奴隷にする幻想を楽しむ。だから、この傾向は金がない人にも顕著だ。たとえば、バックパッカーの楽しみは「いかに安い金で宿に泊まれたか?」の自慢話だ。「何円でインドを回ったか」の競争で話が盛り上がる。我々は、生活のコストを考え、そこから逆算するから、やるべき事が自動的に決まってくる。だから生活に追いまくられる。

自由を楽しむには、金銭比較というラットレースを超越しなければならない。金という共通尺度より、自分個人の感覚を優先する。その自由さがどうやったら、身につけられるのか。人生は短い。自由を実現しようと思ったら、そのための準備をしておかなくてはならない。そうしないと、物質的・金銭的に自由になってからも、忙しく働いていた頃の生活に取り憑かれる。

試験のための勉強を教えていると、よく「合格までの最短の道を教えてくれ」と言われる。焦っているから当然の質問なのだが、こういう短絡は結局上手く行かない。「…のために」という発想でいると、そこから一生抜け出せない。「合格のために」「就職のために」「より金を稼ぐために」。自由は先送りされ、遠くの目標はおぼろげに霞む。いつの間にか、勉強のイメージも苦役にしか思えなくなる。外から明確な目標を設定されなくなると、やることを見失う。「自分は一体何をしたいのか?」

活動のすべてにおいて、個人的に楽しむ余地を見つけること。これしか、自由へ至る道はないように感じる。読書しても勉強しても、組織が要求してくる目標とは別に、どこかで自分流に歪め、工夫する領域を見つけること。法律の文面の中に哲学を読む、とか、経済の中に文学を見る、とか。最短どころか、できるだけ遠回りして、そのプロセスをあれこれ楽しむ。それが、自分のもっている指向を発見させ、外の世界に流されない自分なりの指針=リテラシーを作る。その抵抗の感覚が分からないとね。

ボカボでは、たしかに受験対策のプログラムも提供しているけど、その裏にはこういうポリシーが貫かれている。学校に入るのは直前の目標だけど、その後のヴィジョンと結びついてはじめて意味が出てくる。我々は、受験準備の中で、その手がかりも提供してきた。また、講師と受講者、および受講者同士の議論・歓談の場を拡げてきたし、「公共の哲学を読む」などの講座も充実させてきた。こういう方向は、これからさらに力を入れていきたい。

直前の目標しか目に入らないと、現実との結びつきを見失い、過去に体験した一番簡単な快楽しか見えなくなる。それを世間では「娯楽」というのだが、所詮貧しい生き方にすぎない。養老孟司が言った「バカの壁」とは、そのことをいう。アメリカの評論家スーザン・ソンタグは「なぜ、あなたみたいな知識人が、CBGB(当時のNYの有名ディスコティック)なんかに行くのか?」と問われて「私はドストエフスキーを読んでいるから、ダンスをより楽しめるのよ」と答えたとか。

世界をより楽しむために、感覚とイメージを広げるために、豊かな世界を経験するために、それを他の人にも伝えるために、勉強はある。旅も議論も読書も同じこと。それが信じられない人は、一度ボカボに来て欲しいと思う。

2011年5月1日日曜日

来る人と来ない人

オープニング・セレモニーの日が三日後に近づいた。出席者はざっと数えてみたら70人くらいで、大きな儀式ではない。ただ、この地域の慣習として、やらないではすまされない。あまり高くつかないことを祈る。

どうしても必要なのは、お坊さんの読経と闘鶏。とくに闘鶏は、お浄めとして欠かせない。土に血が流れなければ、bad spiritを押さえ込めないらしい。こちらの友人たちも、いろいろ踊ったり演奏したりしてくれる。仮面ダンスとかワヤンクリ(影絵芝居)とか、声をかけるとさっと集まってくる。お金なんかいらないよ、ぜひやらしてくれ、と言う。ありがたいことだと思う。

めったにない機会だと思うので、日本の友人たちにもいろいろと声をかけておいた。だけど「行ってはみたいけど余震が…」という人が多い。天災は一人一人心配していても、しようがないと思うのだが、やっぱり不安らしい。

その中でやってくる人もいる。職業もいろいろ。主婦、大学の先生、ビジネスマンなど。忙しいのに、無理して休みを取った人もいる。逆に、自由業で時間が取れるはずなのに、なかなか来れない人もいる。この違いは時間が取れるか取れないか、という環境の違いではない。

来た人たちに際だっているのは、個人の意思が明確にあることかな。たとえば、70代の女性は、娘から言われて、あまり外国に行ったことはないのに、急に来てみようという気持ちになってやってきた。地震とか放射能とか、オタオタ迷走する女性をたくさん見てきたので、彼女の決然たる行動力には驚く。「だって、東京にいると色々嫌なことが多いのですよ」

そういえば「外国に家を作る」と言ったら「仕事がなくなるぞ」と脅かされたことがある。「編集者との付き合いが減って依頼が来なくなる」そうだ。私は編集者とつきあって仕事をもらう形ではないと言ったら、「それでもやっぱりなくなるよ」と言い張る。「海外情報など書く内容を変えるんだな」ともう一人もよけいな口を挟む。

反論しても仕方がないと思ったので黙ってしまったが、こういうムラ的発想とは付き合いにくいな。出版界だとか言論界だとか、狭い世界の中でやりとりして、仕事をした気になっている。インターネットとか情報社会とか言っても、結局、基本は「顔を合わせる範囲」に交際は限られているのだね。その中で「仕事をやった」「もらった」という互恵関係を結ぶ。

だから、他人の意向をつねにうかがう姿勢ばかりが身につき、世間の空気にも敏感になる。「結局は、人から可愛がられるかどうかで決まるね」。嫌だなー、この同調圧力は。

今回の地震・原発騒ぎでも、出所の分からない「自粛ムード」が広まり、その趨勢に乗った「意見」を生産するという傾向が強い。知り合いに聞くと「震災後の何々」(何々には自分の専門分野が入る)という原稿を現在書いているよ、と自慢げに言う。「烏合の衆」というか「付和雷同」というか、そういう行動も自粛してもらいたいと思うのだが…

もちろん、私は「来なかった人たち」が皆こういうムードに流されているなどと言うつもりはない。それは明らかに言いすぎだ。親の介護をしているとか、病気になったとか、仕事が忙しい、とかそれぞれの事情は大変だ。しかし、それでも「来る人」は他人の都合より自分を優先させてやってくる。共同体と自分を切り離すやり方をどこかで知っているということなのかもしれない。

そもそも、共同体に貢献しても、最後は裏切られる。個人には寿命があり、貢献できる体力もやがて失われる。そのときに、共同体は個人の面倒を見てくれるか? 現在の日本の状態を見ていると、それは望み薄だ。むしろ、代替がきく人間は、さっさと捨てる。その方が社会にとってのコストは少ない。個人にできるのは、お金を貯めて自分で自分の面倒を見られる環境を作ることぐらいだ。それだって、ほとんどの人が十分実現できない。

そういえば「仕事がなくなるぞ」と言った人は、病気で倒れてリハビリ生活になった。企業戦士が病に倒れる構造のようで、何とも心が痛む。世間の基準に従って頑張るだけだと、個人の身体は確実に蝕まれる。どこかで切り離さないと、共同体の方を向いている間に、あっというまに自分の寿命が来てしまう。これは悲劇だ。

そういう意味で、今回来た人は、どの人もキャラクターがハッキリしていて、悲劇にはなりそうもない。周囲から何を言われようと、自分の興味関心は自分のモノ。地震や津波があろうが、それが何か? もちろんこういう人たちは、一人一人は同情心に溢れているし、礼儀正しい。きっと、地震・津波の被害者たちにも何か貢献しているのではないか、と思う。

でも、それと日本から離れるのは別。自分がこれから残された時間をどう生きたいか、それぞれが独自の思考をしている。先の70代女性も、東京郊外の農家の生まれで、そのときの暮らしぶりをここにも見たらしい。「戦争までは、お神楽を皆で練習したり、お寺の祭礼に一生懸命になったり、こことまったく同じでした。それが戦争に負けてから、外から人が入ってきたり、昔からの人が出て行ったり、で、こういう生活がなくなっちゃったんです。昔の日本そのままですよね」と懐かしがる。

彼女のイメージが、どれだけ正しいか私は分からない。しかし、ここに来ることで自分のルーツに気づき、もう一度その幸福の原点に戻りたいと感じる。その願いは理解できるし、ぜひ実現して欲しいと思う。地震・津波・原子力などという世間を浮遊する話題とは別に、自分の生き方をどうするか、どう実現するか、という話は確実に存在する。世間との間を往還しつつも、そこに気づき、しっかり自分にフォーカスしている。それが今回やってきた人の特徴かもしれない。