2011年3月30日水曜日

ツイッターは議論の水準を上げる

ツイッターで原発の問題分析の記事が色々まわってくるが、その中に「二項対立」という言葉があった。「ああ、やっとここまで来たのか」と感慨を深くした。「デマ情報が多いとか」いろいろ言われてきたが、ツイッターには、確実に国民のリテラシーを上げる効果があると思う。

言及されていたもともとは「日経ビジネスオンライン」に書かれた武田徹の記事で、原発問題をゲーム理論の「囚人のジレンマ」を使って分析したものだ。つまり、原発賛成派と反対派が相手を信用しないために、自分だけの利益を図る構図に陥って、結局最悪の選択をしてしまった、というもの。たとえば、両者が互いに譲らないために、原発を推進する/反対するの間に妥協が生まれず、原発は存続するのだが、新しい原発の建設が不可能になり、その結果、すでに取得済みの用地に複数建てざるを得ず、福島のように、同一敷地内に6基の原発が並ぶというリスクに極端に弱い構造が出来上がったという。

これは、情報開示についても同じだ。池田伸夫も言っていたが「原発は絶対に安全か?」と問われれば、科学者は安全とは言えない。なぜなら、どんな場合でも確率的には可能性があるからだ。でもそう答えると、「では危険なのだな?」と突っ込まれるわけだ。「いや、そうはいうけど、その確率はとても小さい」などと答えようものなら「確率なんかで誤魔化すな。もっと簡単に言ってくれ。安全か危険かどちらなのだ?」(「朝まで生テレビ」の田原総一朗の口調を思い出してもらいたい)と詰問される。これじゃ答えるのはやんなっちゃうよね。

こういう関係にならないためには、とりあえず「絶対安全です」と言わなくてはならなくなる。その結果として、ちょっとした不具合も外に出せなくなる。とりあえず内部で処理して「ないこと」にするのが一番楽だということになりかねない。でも、これが東電の「隠蔽体質」と言われるのなら、ちょっと気の毒な気もする。「隠蔽体質」を作り出しているのは反対派の攻撃の仕方だ、とも言えるからだ。

実際、我々は「危険か安全か」などという「あれかこれか」という世界に住んでいるのではない。「危険」はなだらかに減少して「安全」につながっているし、「安全」も次第に危うくなって「危険」につながるという構造になっている。それなのに、不信感に凝り固まって「危険か安全か」を争うことで、よりひどい状態を引き起こす。つまり、今度の事故も「人災」というが、その責任は、東電など原発推進派だけにあるのではなく、原発反対派にも存在しているのだ、ということなのである。

こういうメカニズムがあるから気をつけようよということは、私は前からいろいろなところでちょくちょく言っていたのだが、今ひとつ理解されないと感じていた。「二項対立」というと、ただの「対立」と取られてしまうのだ。二者が対立しているのは当たり前だろう、というのである。

そうではない。「二項対立」は、対立のどちらかが正しいのではなく、対立するというあり方そのものが病的で、さらに問題を増やしている、という含意がある。でも、普通人は「対立」があると、どちらかが正しいにちがいないという思いこみがあるから、そういう言い方をすると「誤魔化すな」とか「どっちの味方なんだ」とか責められる。言っても言ってもわかってもらえない。結局損な立場に追い込まれる。やんなっちゃうな、という感じなのだ。

しかし、今度ツイッターに出てきたということは、「二項対立」はほどなく日常の日本語の言葉に入ってくるはずだ。これで、一つ日本人の言語リテラシーが上がった、と言ったら言いすぎだろうか? 少なくとも、新しい概念が使いやすくなるので、私はずいぶん活動がしやすくなる。頭が悪い人は、それでも反対・賛成と対立を繰り返すだろうが、普通の人たちはそれだけでは「何だかな」と疑問を感じ出す。

ある反原発活動をしている外国人が書いていた。「反原発というと、原発推進派はすぐ『電力は要らないのか』と詰問するけど、我々が主張しているのはそういうことではない。原発を唯一のエネルギー源としてではなく、可能なエネルギー源の一つとして、きちんとその損得を評価しましょう、ということだ。そのための情報をきちんと開示してもらいたい」。

この主張を日本人が言ったらどういうことになるか、すぐ予想できる。まず反対派から「原発を容認するのか、裏切り者!」と総スカンを食うだろうね。一方で、推進派からは「口当たりのいいことを言っているが、どうせ開示したら、曲解して批判しまくるだけだろう」と疑われる。コミュニケーションの通路をつけたつもりが、両者から攻撃され、後は「多数決」という機械的な決定プロセスに参加するしか許されない。これは不毛だと思うね。

ツイッターというメディアを使ったことで、「二項対立」がどういうものかも実感できるようになったと思う。一つの意見が述べられても、すぐそれに反対意見が述べられる。さらに、その反対意見も吟味される。対立の根源が分析されたり、両者の偏りが出てきたりする。それを他の人が見ている。ときには、自分も参加する。この中で議論が深化する。その場が時々刻々と状況によって変化する。

こういうメディアは今までなかった。たいていは、対立が固定化した後で、マスメディアが両論併記という形でまとめる。視聴者は傍観者になるか、どちらかの立場に立って活動家になるか、の選択が残されるだけ。こういう政治対立の図式が、ツイッターというメディアがあることで、すっかり変わるかも知れない。これは、とても刺激的だ。言論の中身より、言論を担う役目のメディアの変革が、言論の内容を変えるという状況はちょっぴり悔しいが、社会の変化なんて、結局そんなものなのかもしれない。とりあえず、この変化は歓迎せざるを得ない。頑張れ、ツイッター!

2011年3月27日日曜日

地震酔い?

地震があった日から、何となく私の環境世界は変わってきた。風呂に入ると、水がゆらゆら。「すわ地震か?」どうも違うらしい。道を歩くと、道面がいつもよりでこぼことうねっているように見える。地下鉄の通路を歩くと、壁面に向かってはげしく傾いでいる。どうも地震以来、私の三半規管はちょっとばかり変化したようだ。

地震酔いと言うらしい。「船酔い」と同じで三半規管に異常を来すというのだが、はたしてそうか? むしろ、今まで気がつかなかった揺れや傾きに敏感になったせいではないのか? 耳鼻科に行く人が増えたらしいが、私は「治療」するのはもったいないな、と思う。

なぜなら、この感覚は、昔、舞踏のグループに入って始めてスキンヘッドになったときの衝撃と似ているからだ。「舞踏やるなら髪ない方がいいね」とリーダー麿赤児に言われて剃っちゃったのだが、それから数日は何というか、至福の時だった。世界の事物を頭のてっぺんで直接感じられるからである。

たとえば、雲が太陽の前を横切る。頭のてっぺんがすーっと寒くなる。半分だけ翳るとクールさも半分。いちいち見て確かめなくても、何が世界で起こっているかすっと分かる。僧侶が剃髪するわけが分かった。世界の相貌が違って現れ、その相対性に気づくのだ。美しさの裏に衰退を見る。快楽の中の空しさを気づく。堅固さのうらにもろさを感じる。当然、解脱しやすくなるだろう。

今度の地震は、つまり、そういう感覚を鋭敏にした効果があったのではないか? 消費で満足を得てきた生き方がふっとイヤになる。頑張って働いてきた自分が疲れはてていることに気づく。目標に必死になってきたことが何の意味があったのかと思う。自分はいつまで生きていられるのだろうと疑う。そういうことだ。

経済学者やビジネスマンたちは「通常の生活を取り戻せ」と叫び立てている。消費を減らすと日本経済はダメになるというわけ。だが、たぶんそう簡単には通常の消費は取り戻せないだろう。だって海を見ても、そこに津波の映像が二重写しになるからだ。地面を見ても、それが危うい基礎であることを思い出し、確かに思えない。

地下鉄の駅だってそうだ。照明が暗くなった。ちょうど15年前のNYのように薄暗い。でも、そんな暗さでも何とかなっている。「あの明るさは必要だったのだろうか?」私たちは、そんな気分をボンヤリ感じている。そして、前に戻る必要はないのだと確認させられる。

もちろん実際的には、地震のことは半ば忘れて、日常生活にもう戻っている。地震前と同じように原稿を書き、添削をし、メールを出し、人と打ち合わせする。でも、そこに何だかそこはかとないブルーノートが混じる。「どうせ、こんなことやったって…」。倦怠感というのか何というのか。

こんな気分は、被災地の人々のことを思うと申し訳ないと思う。彼らは生きるのに必死だからだ。それを出来るだけかなえるようにするのが、被害が少なかった者のつとめだろう。だが、それとは別に、私たちの気分(エコノミストは「マインド」と言うだろう)は決定的に変わったように思う。死をもたらすもの、衰退をもたらすものとも共生していかなくてはならない。そういう覚悟/あきらめがそこはかとなく漂う。

しかし、それは決して悪いことだけではない。なぜなら、それはもともと存在したものだからだ。それを見ないようにしてきたし、忘れようともつとめた。その結果として、我々は鈍感になり、存在も忘れられたのだが、今度の地震を機にまた感覚世界に入ってきた。それに反応して、我々も敏感さを取り戻したのである。

昨日、久しぶりに本屋に行った。市場調査のつもりだったが、新書のコーナーに行くと、あまりの多さに「気が違っている」としか思えない。この大量の書物は何だったのか? どんな意味を私たちに与えてくれたのか? 新書の世界で仕事してきた自分がこんなことを言うのも何だけど、本当に価値ある情報だったのか、紙の無駄だったのではないか、深い疑念が湧いてくるのである。きっとこんな疑いの目で、他の人も新書の山を見ているに違いない。

近頃プラトンを読んでいる。病院など待ち時間が長いせいもあるのだが、彼の対話篇がいちいち腑に落ちるのだ。もちろん内容自体には異論がないわけではないけれど(「魂は不死である」なんて言われてもね)、対話を求める者には真摯に答えていこうとする姿勢が感動的なのだ。

メディア・リテラシーとか言うけれど、何のことはない。知識情報の出所を確かめることと、それから推論するロジックの吟味だけが手がかりなのだ。「思いなし/思いこみを吟味する」という意味で、プラトンの対話篇の精神は最初のメディア・リテラシーかもしれない。

確実に堅固な地面ではないけれど、とりあえず揺れの少ない、あるいは揺れを少なくしようという志を持つ。そういう志が、地震酔いの時代に手がかり=照明となる。自分の書く本も、そういう姿勢を分け持たねば、と思う。そのためにこそ、今までの感覚器官までも変化したのだと考えたい。

2011年3月19日土曜日

社会リスクとしての新聞報道

社会の中には一定数のバカが存在する。しかも、そのバカが誰かは決まっていない。場合によって、さまざまな人がバカになり得る。こう書いている私もバカになり得る。それまで蓄積した知識や情報量は多少関係するけど、決定的ではない。では、バカを直すにはどうするか? 誰かから「バカだ」と指摘してもらうしかない。それを繰り返せば、情報の氾濫に慣れて勘が働き、バカになる確率は減る。

その意味で言えば、今の新聞は、バカを直すチャンスを受けにくい仕組みになっていると思う。その結果、素人目にも明らかなデマ記事が出てくるようになった。象徴的なのは、福島県の病院の患者が21人亡くなったことが「院長が見捨てた」と書かれたこと。私は、当初からこの報道はおかしいと思ったが、その病院に勤めている看護師の息子がtwitterで懸命に発信したことで、真相が全く違ったことが分かった。
▶福島・双葉病院「患者置き去り」報道に関する情報

驚くべきは、新聞記者たちが、この情報の真偽に対して、まったく勘が働かなかったこと。未曾有の災害の中だから、事実が混乱して伝わることを勘定に入れねばならない。ちょっと考えれば「変だ」と思うはずだ。それを確認しないで、読者のウケが良いからと「専門家をaccuseするステレオタイプ」で煽る。

どうしてこうなっちゃうのか? これはtwitterのシステムなどと比較してみればすぐ分かる。twitterでは、デマ情報が出ても、それに対して様々な人が検証し、訂正する道が開かれている。つまり、送信はすぐreactionを生み、第一次情報に溯って、その真偽の検証に通じる機構があるわけだ。これは政府情報でも同じ事だ。不正確な情報を出すと、メディアやインターネットで叩かれる。だから慎重になる。

ところが、新聞はそういうチェックがきかない。いったん発行するとreactionまでに時間がかかる。だから、間違いをしても、なかなか訂正されない。そのうちに、世間の方が事件を忘れてしまう。裏を取らないままにaccuseし、ぼろが出ても謝罪と訂正をしない。謝罪しても、ほんの片隅に載せるだけ。その結果、事実の確認なし・論理性なし、とにかく注目を引きそうな方向に突っ走る。いきおい政府の慎重さに対しては「情報を隠している」と居丈高になり、不安におののく大衆を決まり文句で煽りまくる。しかし、専門家の意見はまったく違うのである。
▶日本の原発についてのお知らせ;英国大使館

もちろん、twitterを使う人々が特別賢いわけではない。しかし、少なくとも間違った/不正確な/行き過ぎの情報には、即座に何らかの反論・訂正が出てくる。結果的にせよ、デマを出したら強い非難が来ると覚悟しなければならない。その結果「「自分が間違っているかも知れない」という前提の元で発信するという謙虚さが生まれる。システムが人間の賢さを育てるというのか。

新聞には、その謙虚さが機構上形成されない。そのため、バカが矯正されないまま拡大される。今までは、そのコストを甘受しても、それしかないから使っていた。しかし、別なメディアが出てきてより正確な情報を伝えられるなら、新聞は、もう社会に貢献する価値はない。むしろ最後のあがきとして、ますますセンセーショナルな報道に走り「報道災害」を引き起こす。

たとえば、福島原発への放水。現場としては、空から放水しても効果は少ないという判断だったのではないか。無駄に自衛隊員を危険にさらすわけにはいかない。最悪の事態になっても、スリーマイルと同じく10km程度の立ち入り禁止で済むのなら、放水する意味はない。しかし、何か形を見せないと新聞が「政府が無能だ」と叩きまくる。だから、写真写りの良さそうなヘリコプター放水という方法を選んだ、としたらどうか?

もちろん、これは単なる空想にすぎず、事実はそうでないだろう。しかし、新聞の体質は、いずれこのようなポピュリスト的選択に政治を追い込むだろう。この傾向に抗するには、記者自身の資質をよほど高めねばならないと思うが、そろそろ手遅れなのかな、という思いを強くした地震報道の今日この頃でした。


●現地からの津波体験レポートが届きました。南三陸町発。仙台在住の小野寺宏さん記述です。


●H・S・Pのメンバーの仲間から届いた医療情報Linkを作りました。このページの右上、vocabow toppageにもリンクを張ってあります。被災地での医療活動に役立てていただければうれしいです。

2011年3月17日木曜日

災害と品性

確定申告の最終日だったので、税務署に行った。去年の最終日は長蛇の列で、税務署の建物を取り巻いていたのだけど、今年はほとんどいない。並んだら、あっという間に順番が回ってきて、「はい、これで提出完了」ということになってしまった。

地震・津波の影響があるから、提出期限を過ぎても多少は良いのだろうけど、それでも驚いた。別に、東京は大した被害を受けていないのだから、確定申告ぐらいやってできないわけではないと思うのだけど、「地震だから」というので止めちゃったのだろうか?

別に、私は税務署の味方ではないし、「税金を納めましょう」という側でもないけれど、こういう態度には何となくいい加減さを感じてしまう。本来的には、やりたくないことなのだから、なるべく言い訳を見つけて、先送りしようとしていると言ったら言いすぎだろうか。

これは、首都圏で食料やガソリンなどを買い占めをしている人にも言える。なくなったのは、即席麺だとかパンだとか、すぐ食べられるものばかり。魚や野菜などの生鮮食料品はたっぷりというわけではないけど、充分残っている。築地でも、魚は買っても冷蔵庫が必要なので、値が下がっているとか。

これも、税金と同じで「地震だから」ということで「今日は料理できないから、カップ麺ね」と都合のいい言い訳に思える。東京二十三区内は「停電」はない。今日明日の分くらいなら、充分火は使えると思うのだけど、「料理は嫌い」という気持ちがあるから、地震にかこつけて止めてしまう。怠惰って本当にしようがないね。

そのくせ「計画停電」が計画通り進まなかったからと「混乱が続く」などと文句を言う。計画なんて言ったって、ざっくりやっているだけなので、少しぐらいずれたって仕方ないだろう。もう「計画停電」なんて呼ぶのを止めて、天気予報みたいに「電気予報」と呼んで「今日の確率60%」なんてした方がよいかも知れない。

インドネシアなんて、いつ停電になるか分からない。電気が付かなくなって始めて分かる。それで人間が死ぬ訳じゃないのだから、この非常時に文句は言わない方がよい。担当者は生活レベルの電気使用だけでなく、マクロな影響も考慮しているに違いない。普段気づかないけれど、それが結局は生活の基礎を形作っているのだ。

東京は大した被害はなかったのだから、速く日常に戻れよ。疑心暗鬼になっておたおたするな。みっともない。たまたま乗ったタクシーの運転手さんもそう言っていた。私もそう思う。

一般的に、修羅場に対面すると、その人の品性がじかに出てくる。今度もtwitterなどを見る限り、ずいぶん「みっともない」姿をさらした人がいた。はやばやと東京を逃げ出したり、執拗に政府とメデイアの結託を主張したり、臆病さと政治が入り交じる。学歴とか職業とか関係ないね。その様子が白日の下にさらされると考えれば、今度の地震はけっこう興味深い。特に双方向で素早いメディアが実現した時に、どういう言説が飛び交い、それが社会的にどんな影響を及ぼすかという研究対象になるだろうね。

ところで、私の親は仙台にいるのだけど、もう電気も水もとっくに来ているという。風呂にも入れるのだけど、地域の人が大変なのに自分達だけ入るのは悪いから、と我慢しているらしい。同じ仙台でも、海側は被害がひどく、大変お気の毒だが、復興が速いところもあるのだ。

2011年3月13日日曜日

非常時の言葉

地震が起きてから、TVとPCの前に釘付けになった。私の故郷は仙台だから被災地のど真ん中。幸いにして、メールで早くに連絡が取れて、親戚が無事であることが分かった。内陸部だったので、津波の被害に遭わなかったのが原因だろう。沿岸の方々は本当にお気の毒だ。

一方、都内の連絡はツイッターが使えたので、ITネットワークの力を実感した。ただし、ツイッターは活発だったが、発信は東京が主で、肝腎の被害を受けた岩手・宮城の海岸部からの発信はほとんどない。あったとしても、せいぜい盛岡と仙台などの大都市。都市と地方の間の情報格差は認めざるを得ない。

だからかもしれない、津波の報道が一服した後から、話題は原発問題の方に集中した。放射能は目に見えるものではない。一般人は、専門家の情報・コメントに頼らざるを得ない。しかし、その言葉を理解するのは容易ではない。だから、情報の提供の仕方によっては、コメントがコメントを呼んで、妙な方向に転がりかねない。情報も錯綜して不十分であることが多いから、判断できることも限られる。コメントを述べる人は慎重にならざるを得ない。

不安に駆られて「何かを隠している」と追求して言いつのったたり、情報を全部開示せよと言ったりすれば、済むことではない。コメントを聞く人も、そのバランスを感じ取るべきなのだ。それなのに、ツイッターで「避難地域が50kmに拡がったら東京を逃げ出さなきゃ」などと書くなどは、「言論の自由」として正当化できない。

その意味で、今回の場合、傑出していたのは、理系の研究者たちの言葉だったと思う。たとえば、U-Streamで流された原子炉設計に関わった後藤氏のコメント。原発反対団体のサポートでは番組になったのだが、海水注入という政府の決定に対して「やむを得ない最後の手段であり、現在、その是非をとやかく言えない」という公平・客観的な態度を貫いた。海水注入をするにもリスクがあるが、しなくてもリスクがある。よくやるように、両面の主張を立てるという機械的方法ではなく、データと理論という客観的な方法に基づいて、我々をリスクに直面させたのである。リアリティある発言だったと思う。

それに対して、残念だったのは、後藤氏のコメントをバックアップした市民団体のコメントおよびマスコミの記者の質問。前者は「政府の対応に怒りを覚える」「NHKのでたらめコメント」などという発言を繰り返した。たしかに、原発反対団体なので当然かもしれないが、同時に開かれた枝野官房長官の会見でも、情報は後藤氏と大差なかった。その意味で、彼らの非難は行き過ぎだろう。むしろ、政府の対応は、確認できる情報に基づき、現在言えることをできるだけ分かりやすい言葉で言おうとしており、よくやっていると思う。

他方、マスコミの記者たちは「政府の対応の評価は?」などと発言する。この場合大事なのは事実の確認であり、責任の追及ではない。事実に基づかなければ、正確な判断もできない。こんな時でも、人間関係や組織に還元する傾向は困ったものだ。誰かのせいにしてaccuseを煽っても、現実に起こっている問題が解決するわけではない。現在やるべきことは、問題を何とかhandleすることであり、内部のあら探しをすることではない。問題化の方向が根本的に間違っているのだ。

一般人がツイッターなどで容易に発信できる状況だからこそ、こういう間違いをしないようにすべきだと思う。自分の手に余ること、沈黙すべきところは沈黙すべきだし、逆にロジックがおかしいところは徹底的に疑問を持つ。リツイートなどでガセ情報が出回ったようだけど、そういう態度が徹底していないから怪しいツイートに反応してしまう。ステレオタイプにのってふわふわするのは止めた方がよい。

今度の災害を悲観的に捉えることはない。『災害ユートピア』という本では、大規模災害の時には、普通の人々が特別な力を出し、理想的といっても良いほど、互助の共同体が実現すると述べている。人々は明るく悲惨な状況に対処し、その中で新しい人間関係、社会を実現するのだと言う。むしろ、そういうユートピアを混乱させるのは、強制的な力を使っても秩序を保とうとして権力をふるう人々だと言う。今回、そういう妄想的権力に絡め取られた人々がいないし、存在させてもならないと思う。そういう見分けの力の向上が、今度の災害で絶対にあるはずだと思う。

その意味で、地震の危機の不安に駆られるより、各自が自分の担当する場所でできることをやった方がよい。ボカボでも、3月20日に「公共の哲学-J.レイチェルズを読む」を開催するつもりでしたが、いろいろな事情で4月3日に延期せざるを得ませんでした。このような危機の中でこそ、「公平」とは何か、「善」とは何か、「正義」とは何か、具体的なイメージとともに理解できると思うのに、残念な感じがします。しかし、4月3日には開催いたしますので、ぜひご期待ください。

2011年3月10日木曜日

小室直樹と原理主義な日本

3月6日の日曜日、東工大で行われた「小室直樹博士記念シンポジウム」に出席しました。小室直樹は前にも書いたことがあるけど、在野の社会学者・政治学者。私は30年ほど前に、彼の東大における有名なゼミ「小室ゼミ」にいました。受講者は多士済々。リーダーは日本を代表する理論社会学者の橋爪大三郎。他にも宮台真司、山田弘など、日本社会学のbest and brightestが集まっていた。私も、その末席に連なっていたわけ。

写真は東工大の庭に咲いていた満開の紅梅

シンポジウムはなかなか面白かったですよ。とくに、午後のリアル・ポリティクスの話題は大いに盛り上がった。その焦点となったのが、政治評論家の副島隆彦と民主党の渡辺恒三でしょう。副島のスタイルは独特です。「宮台君の言葉は何を言っているのかまったく分からん!」。放言すれすれのきわどいところを突きながら、鋭い問題提起や的確な人物評になる。会場の若い人はびっくりしたでしょうね。

個人的に付き合うと、彼は実に礼儀正しい。ものごとをちゃんと考える。それを形にするエネルギーと確信がある。でも、日本社会の中ではなかなか評価されない。私は、知り合いの編集者に「副島はすごいから、君の所で本を書かせろ」と言ったのだけど「ああいう傲慢なタイプは嫌いだ」とすげなかった。しかし、結果として、彼は自力で自分の道を切り開き、独自のスタイルを持った。空気ばかり読んでいる日本社会には入りきらないスケールがある一人ですね。

しかも、それをフェアに評価する橋爪さんもお見事。「はじめて副島さんが小室ゼミに来たときには、何だこの人はと思った。その感じは今でも変わりません。でも、少なくともこの人にはインスピレーションがある。他の人とちがうことを言う。だから様子を見ることにしたんです…」。このバランス感覚と幅の広さも、やっぱり日本の枠をはみ出している。宮台真司と副島隆彦と渡辺恒三という水と油というか、ビヒモスとリヴァイアサンとフランケンシュタインのような三人組をコントロールしてまとめていく。

でも、この自由でスケールの大きい雰囲気が70年代なんだよな。さまざまな人が勝手なことを言い、談論風発。なかにはとんでもないものもあるけど、それを許容しつつ、フェアに合意できることを探っていく。橋爪さんは、ずーっとそういう役を引き受けている人だ。

他方、午前中の議論では、長年の疑問が晴れたような気分でした。私は、小室先生の学問的情熱と見識の深さには大きな感銘を受けていたけど、彼が擁護していたT.パーソンズの理論「構造―機能分析」は包括的すぎて、さほど魅力を感じず、結局社会学の大学院に進むという気もなくなってしまった。でも、午前の報告を聞くと、その「構造―機能分析」が成り立たなかったことが、小室先生の前で私と同世代のゼミ生志田さん(現横浜国立大教授)が証明したんだという。私が直感的に感じたことが、数学的に証明されたらしい。それを粛々と受け入れた小室先生も偉いと思う。

だけど、一番印象的だったのは、シンポジウム冒頭の橋爪さんの熱烈な口調。「小室先生の主張なさったことが、もっと受け入れられていたら、今の日本社会はこんな風にはならなかったはずです!」

たしかに、そうかもしれない。小室さんは、政治と道徳を峻別する近代主義者だった。政治家の能力とは経世済民、つまり国民に繁栄をもたらすことだ。そのためには、多少のダーティさは許容すべきだし必要であると、マキャベリの『君主論』を引いて主張したのです。だから、政治家田中角栄を擁護し「タナカを起訴した検察官を吊せ!」と怒鳴った。

この間、前原外務大臣も政治献金の問題で辞任した。私は、彼を政治家として好きではないので、別にどうでもいいようなものだが、しかし一般論としては、この騒ぎはまったくクレージー。外国人から献金を受けてはならないというが、杓子定規に振りかざすのはむしろ法の理念をねじ曲げている。理由は小室先生の田中擁護と同じ。

そもそも外国人とは言っても、日本には何万人も「在日外国人」がおり、日本人と変わりなく暮らしている。その人たちが自分達の味方をしてくれる政治家を応援することが禁じられたら、彼らの利益は誰が代弁するのでしょうか? 彼らはほとんど日本で生計を立て、そのすべてが「外国のスパイ」というわけではない。外務大臣として、日本の国益を犠牲にして、外国の利益を図ったという明白な証拠があるならともかく、「外相としての責任を問う」とは、あまりにもバランスを失した非難でしょうね。

自民党をはじめとする野党は、これで在日外国人の支持を大きく失ったと思う。グローバル化の時代、排外的姿勢を強調することは結局衰退を招く。欧米の新聞・雑誌も「わずかな献金で辞任するのは日本政治の異常性を表す」と口を揃えて言っている。経世済民をそっちのけで足の引っ張り合いをするのは、政治ではなく病的行動にすぎない。「政治家のダーティさに敏感すぎる国民は民度が低い」のです。

とはいっても、日本はますますこの方向に走っていくでしょう。大きな方向・デザインが見つからないので、明示された細かな規則以外に合意できるものがない状態になっているからです。「法律に書いてあるから」と極端な行動をするのは、「コーランにあるから」と女性にブルカをかぶらせるタリバンや、「聖書にあるから」と輸血を拒否する「キリスト教原理主義」と何も変わらない。

アノミーが極まるとき、極端な原理主義が民意を掴むのは、どこの社会も同じ。しかし、その末路は社会の分断と壊滅です。「聖典」への帰依という社会的ヒステリーを超えて、個人がそれぞれの正常な判断力を取り戻せるか、日本も岐路に立っているのかも知れない。そんな危機意識を思い出させてくれるシンポジウムでした。東工大の会場には中年に混ざり若い人も多く、参加者の顔つきが真剣で知的だったことが、特に印象的でした。