2011年5月18日水曜日

感覚のリテラシーを育てる

我々は、だいたい会社や組織に属して忙しく働く生活を強いられる。コストをかけるな、利益を上げろ、とヘトヘトになるほど使いまくられる。だから、休みになると、その反動で豪勢に金を使い、暴飲暴食し、着飾ってホテルライクな空間に自分を置く。そういう富を蕩尽する生活が豊かだと思う。

でも、これらは、所詮金を巡ってのゲームに過ぎない。金の奴隷になっているからこそ、金を自分が奴隷にする幻想を楽しむ。だから、この傾向は金がない人にも顕著だ。たとえば、バックパッカーの楽しみは「いかに安い金で宿に泊まれたか?」の自慢話だ。「何円でインドを回ったか」の競争で話が盛り上がる。我々は、生活のコストを考え、そこから逆算するから、やるべき事が自動的に決まってくる。だから生活に追いまくられる。

自由を楽しむには、金銭比較というラットレースを超越しなければならない。金という共通尺度より、自分個人の感覚を優先する。その自由さがどうやったら、身につけられるのか。人生は短い。自由を実現しようと思ったら、そのための準備をしておかなくてはならない。そうしないと、物質的・金銭的に自由になってからも、忙しく働いていた頃の生活に取り憑かれる。

試験のための勉強を教えていると、よく「合格までの最短の道を教えてくれ」と言われる。焦っているから当然の質問なのだが、こういう短絡は結局上手く行かない。「…のために」という発想でいると、そこから一生抜け出せない。「合格のために」「就職のために」「より金を稼ぐために」。自由は先送りされ、遠くの目標はおぼろげに霞む。いつの間にか、勉強のイメージも苦役にしか思えなくなる。外から明確な目標を設定されなくなると、やることを見失う。「自分は一体何をしたいのか?」

活動のすべてにおいて、個人的に楽しむ余地を見つけること。これしか、自由へ至る道はないように感じる。読書しても勉強しても、組織が要求してくる目標とは別に、どこかで自分流に歪め、工夫する領域を見つけること。法律の文面の中に哲学を読む、とか、経済の中に文学を見る、とか。最短どころか、できるだけ遠回りして、そのプロセスをあれこれ楽しむ。それが、自分のもっている指向を発見させ、外の世界に流されない自分なりの指針=リテラシーを作る。その抵抗の感覚が分からないとね。

ボカボでは、たしかに受験対策のプログラムも提供しているけど、その裏にはこういうポリシーが貫かれている。学校に入るのは直前の目標だけど、その後のヴィジョンと結びついてはじめて意味が出てくる。我々は、受験準備の中で、その手がかりも提供してきた。また、講師と受講者、および受講者同士の議論・歓談の場を拡げてきたし、「公共の哲学を読む」などの講座も充実させてきた。こういう方向は、これからさらに力を入れていきたい。

直前の目標しか目に入らないと、現実との結びつきを見失い、過去に体験した一番簡単な快楽しか見えなくなる。それを世間では「娯楽」というのだが、所詮貧しい生き方にすぎない。養老孟司が言った「バカの壁」とは、そのことをいう。アメリカの評論家スーザン・ソンタグは「なぜ、あなたみたいな知識人が、CBGB(当時のNYの有名ディスコティック)なんかに行くのか?」と問われて「私はドストエフスキーを読んでいるから、ダンスをより楽しめるのよ」と答えたとか。

世界をより楽しむために、感覚とイメージを広げるために、豊かな世界を経験するために、それを他の人にも伝えるために、勉強はある。旅も議論も読書も同じこと。それが信じられない人は、一度ボカボに来て欲しいと思う。

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