2011年4月16日土曜日

「風が吹けば、桶屋が儲かる」のではない生活

用事があって、しばらく日本を離れている。とはいっても、これは去年から決まっていたことなので、放射能とは関係がない。でも、成田に行ってみると、窓口はガラガラ。地震後の外国人の殺到を除いては、ずっとこんな調子らしい。「照明は暗いし、暇で仕方ない。何だか気が滅入ってしまいますよね」とスタッフは言う。

友達に聞いても、余震も続いているし、旅行なんて気にはとてもなれないとか。「あなたが心配しても、余震はなくならないよ」という言葉が口元まで出かかる。それでも、旅行する人はする。この間、vocabowで講義してくれたF講師など、「バリでceremonyやるんですってね。私ももうキップを買いましたよ」と言う。おお、バリで会おうぜ。

社会がどう変動しようと、自分が行きたいところには行く。プライヴェートとパブリックを分ける。社会の何だか不安な気分に押し流されない。現代では、そういう自律性、個人性が必要だと思うけど、たいていの人は自分の気持ちで動いているつもりで、社会の気分に流されている。

グローバル化する世界とは、世界の片隅で起こったことが、何かの通路を伝って自分にも影響を与えるシステムのことだ。「北京で蝶が羽ばたくと、カリブで台風が起こる」んだったっけ? それとも「福島の原発が壊れると、日本の子供がガンになる」か?

この連関は「風が吹けば、桶屋が儲かる」という仕組みとどこが違うのだろうか? 「風が吹けば、桶屋が儲かる」は明らかに現実妥当性がないと分かっているけど、原発はどうか? でも、その関連は考えれば考えられるから、人々は期待したり怯えたりする。いわゆるspeculation=憶測の暴走という奴。そのあげくに自縄自縛になる。それがグローバル化・情報化の必然的な帰結だ。

実際に被害がありそうなのは、チェルノブイリでもそうだったけど、原子炉の後片付けに当たっている人たちだろうけど、そういう人たちは発言しない、あるいはできないシステムになっているから、外野の「俺たちの健康はどうなるんだ」という声ばかりが大きい。「君たちには関係ないよ」と言っても、「同じ日本にいる俺たちに関係がないわけはないだろう。何か隠しているな」と勘ぐる。

つまり、問題が大きくなっているのは「放射能」ではなくて、むしろナショナリズム=国民の一体感が原因なのだ。アンダーソンも言っていたけど、国の片隅で起こったことで、自分が一度もその土地に行ったことのない事件であっても「自分のこと」のように感じる。それがナショナリズムの成立に欠かせない。

そういう意味で言えば、福島の原発のことで一喜一憂して発言するのは、国粋主義からすれば、ナショナリズムの発揚として、まことに結構なことだ。一体感がなければ、一時期の外国人たちのようにさっさと日本を後にすればいいのだ。だが、たいていの日本人たちは一時期逃れても、いつかは帰ってこなければならない。原発事故を逃れて、赤ん坊を連れてバリに逃げてきた母親だって、観光ヴィザなら一ヶ月以内で帰らねばならない。むろんその時に問題が解決しているはずはない。結局「放射能との共生」を選ぶしかないのだ。

したがって、これから日本人のアイデンティティにはヒロシマ・ナガサキに続いて、No more Fukushimas! が付け加わるだろう。原爆が東京タワーを何度も壊すゴジラという国民的悪夢を生んだように、原発も何らかのトラウマを残し、それを鎮める物語が量産されるはずだ。しかし、作っても作っても悪夢は終わらない。「複式夢幻能」ならぬ「フクシマ無限能」だね。

もうこの状況は仕方ない。だが、そこに巻き込まれるだけでは、個人はやっていけない。ある友人が言っていたが、「三半規管と心情が傷つく」のだ。社会と自分の絆をいっぺん切り離し、自分で自分を安心させる状況を作り出さねばならない。音楽でunpluggedという言葉があった。電気楽器ではなく、ギター一本で音楽を作る。それでも音楽という喜びを作れる。

同じことを生活でもすべきだと思う。電気・水・ガスを公共に頼らないのは大変だから、少なくとも気分をunpluggedにする。そのためには、情報化のチェーンのの外に行ったん出る。新しい人と会う。居場所を変える。新しい食べ物を試す。そうして、自分がいた世界を外から眺め、そこにいなくても十分充実できる自分を確認する。「平気で生きている」(正岡子規)ための環境を作って、自分を確保するのだ。

日本人が世界に示せる生きる姿勢があるとしたら、そういうことではないか。おやおや、何だかまたナショナリスト的発言になってしまった。この問題について言うと、必ずこうなる。自重しよう。

Fさんよ、早くおいで。一緒にバビ・グリン(豚の丸焼き)を食おうぜ。

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