2011年9月30日金曜日

安全な日本と私

3.11から六ヶ月あまり。放射能問題に終わりはなさそう。リスクとの共存という日常がゆるゆると動いている。帰国すると、その空気がベターッとまとわりつく感じだ。

そんなとき、仙台の友人からメールがあり、次のような質問があった。

吉岡殿に質問。
バリ島では以前、爆弾テロがあったのに、よく行くなあと心配+感心+なぜ?の私。
その「なぜ?」の答えは次のどれ?

①現地ではもう誰もテロのことなど覚えていない。
②テロのあったところから遠いので心配していない。
③テロ集団は壊滅した。
④テロは心配だが自分は大丈夫。
⑤テロは心配だがそれより強いバリ愛。
⑥テロは心配だが私は死を恐れていない。

選択肢まで作ってくれている。彼は高校の先生なので、テストを作るのはお手の物。ただ、私も予備校講師をやっていたけど、選択肢問題には今だに馴染めない。なぜなら、提示してある以外の答えを選べないから。問題作成者が何を答えと思っているか、に合わせなければならない。それが窮屈なのだ。

では、一つ一つ検討。

①現地ではもう誰もテロのことなど覚えていない。
正確に言えば「選択的非注意」。かつてのナチス・ドイツではユダヤ人虐殺は皆知っていたが、いつも気にしていたわけではない。虐殺には反対せず、見ないふりをしていた。テロも同じで、知ってはいるのだが知らないふり。で、いつの間にかないことになる。

②テロのあったところから遠いので心配していない。
現場までは、車で一時間半。遠いと言えば遠い。近いと言えば近い。でも秋葉原の17人殺傷事件では、事務所から電車で10分。距離を基準にして心配するなら、こちらのケースの方が切実かも。

「遠さ」は距離の問題ではない。テロの現場はクタという繁華街、日本で言えば歌舞伎町みたいな場所。私のいるところは、スバトゥという田舎。人口密度が少ないので、爆弾を破裂させたって、田んぼの稲が揺れるくらい。

テロは「どこにでも起こる」わけではない。テロリストの「好む」のは、人が沢山集まってアメリカ大衆文化に染まっている「悪場所」。私は、そういうところに足を踏み入れない。テロリストと私の「好み」は違う。意地悪い言い方をすれば、テロを怖がる人は、テロリストと同じ「好み」を共有しているのかも。

③テロ集団は壊滅した。
警察ではないので知らない。たぶん、まだどこかに潜んでいるだろう。ただ、バリ人だって、テロリストは嫌い。犯人集団は徹底的に捜索されると信じている。

④テロは心配だが自分は大丈夫。
大丈夫ではない。私は要領が悪い方だから、テロが起こったら犠牲者の方に回ること確実。

⑤テロは心配だがそれより強いバリ愛。
Jane Jacobsは「町がスラムになる原因は、そこにいる人が早く出て行きたがることだ」と言っている。住人たちが町を出て行こうと思わなければ、その地区は良くなる。自分がいるところを良くするのが人間の常だから、住人たちがい続ける街はスラムではなくなる。

テロに置き換えれば、大切なのは、その場所を見捨てないこと。テロが怖いと逃げ出すと、その術中にはまる。ここでも、怖がる人はテロリストと世界観を共有している。「人は脅せばコントロールできる」。私はそんな世界観を持っていない。

これは「勇気」ではない。むしろバランスの問題だ。綺麗な景色。静かな雰囲気。信頼できる友人たち。どれも日本では実現できない豊かさ。相対的に、テロの恐怖など背景に退く。

振り返って、仙台だって放射能の危険にさらされている。でも、友人は立ち去らないだろう。慣れた環境。信頼できる知人たち。家族と共の生活。放射能の危険は相対的に小さくなる、のではないのか?

でも、これは「愛」でもない。Jane Jacobsは“trust(信頼)”と言う。環境や人間に対する信頼。それは、自分だけの思いこみではない。相互に保証されることで、醸成される客観的なあり方だ。

⑥テロは心配だが私は死を恐れていない。
残念だが、死ぬのはめちゃくちゃ怖い。

…よく考えてみれば、日本だってテロと無縁ではない。たとえば、80年代の新宿バス放火事件。乗合バスにガソリンがまかれて火をつけられ、10人ほどが亡くなった。私は現場から徒歩5分の所にいた。さらに、90年代サリン事件はよく乗っていた地下鉄で起こった。そして秋葉原。

どれも凶悪犯罪で、テロとは言われない。しかし、グローパルな定義で、不特定多数を危険にさらすなら「テロリズム」。凶悪犯罪と呼ぶのは呼称のトリック。そういえば、仙台だって東一番町を車で疾走し、歩行者をはねとばして死亡させた事件があった。テロそのものだよね。爆弾や銃撃がないのは、そういう道具がたまたま手に入れにくいからだろう。

テロがあるのに、なぜ行き続けるのか? その答えは、そこに行き続けているからだという循環しかない。

行き続ける「信頼」の代償として、特定の危険には鈍感になる。いろいろ事件はあったけど、自分は生きている。振り返ってみれば、とりあえず安全と言うしかない。「安全な日本と私」という信憑がここに生まれる。日本に住むと日本の危険に目をつぶり、バリに行くとバリの危険に目をつぶる。そういう風にしてしか、我々はある場所にいることを選べない。悲しい生き物だね。

結局、冒頭の問いには、反問で答える他ない。

「フクシマであんな爆発があったのに、なぜ日本にいるの? バリでも十分暮らしていけるだろ?」とバリの友人たちは聞く。たしかに、よくいるなあと心配+感心+なぜ?の私。被曝の危険が大きいのに、君が日本に住み続ける理由は以下のどれか?

①現地ではもう誰も原発のことなど覚えていない。
②原発のあったところから遠いので心配していない。
③原発問題は解決した。
④原発は心配だが自分は大丈夫。
⑤原発は心配だがそれより強い祖国愛。
⑥原発は心配だが私は死を恐れていない。

なるほど、自分のことはよく見えないものだね。wwww

さて、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」が始まります。国公立を受けたい人、来年受験したい人、どちらにも役立つと思います。来年受験の人は「法科大学院 適性試験 Start Up!」もどうぞ。

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