2026年1月1日木曜日

新しい年に向けて

2026年あけましておめでとうございます! 

年末は、いつものことながら、私は、おせちを作るのに追われていました。正月のおせち料理を作るようになってから、もう30年近くになります。

慈姑、筍、蓮、八つ頭、椎茸、人参、蒟蒻、牛蒡、黒豆、膾などの伝統的おせちとともに、焼豚、鶏酒蒸、魚味噌漬、鰈煮付など。どれも別々の味付けなので手間が掛かります。

今年は、煮豆を二種作りました。我ながら良くできたと思います。若い頃は、豆より肉が好きだったのですが、年と共に、肉の味は単純すぎる感じがして、野菜や豆の素材の味をどう活かすか、という方に拘るようになりました。

尊敬する先輩から「年取るのは面白い経験だよ」と言われたことがありますが、自分の味覚の変遷を思うと、たしかに興味深い。肉類の強烈な味から、豆の素朴な味の追求へ。

それとともに、こういう料理をずっと作ってきた昔の女の人は、一体どういう気持ちだったんだろう、と思いを馳せるようになりました。

「小正月」とか「女正月」という言葉があるように、本来の正月は、男達が宴会を盛り上がっている間に、女の人は、料理、盛り付け、給仕、後片付け、洗い物と台所にこもりきりだったのではないか、と思います。それが辛くなかったのか?「おかしいな」と思いつつも、その気持ちを押し殺したまま、何十年も過ごしてきたのか?

そんなことも、自分が一つ一つ時間をかけて作ってみなければ、実感を持って迫って来ない。

正月料理は、専ら私が作るけど、その出来は家族から評価されます。「味付けが薄い!」「煮方が足りない」などと容赦ない(勝手な?)批判を浴びます。そのたびに「何が悪かったのか? 次にどうしようか?」と反省しながら、来年への課題として心に刻む。

文章もそうなのだけど、物事は実際に手を動かして作ってみて、作ったものを他から批判されて、初めて次の試みに踏み出せるのでは? そんなことをおせち料理を作りながら考えています。

今年も、何冊か著書を出す予定です。もう50册は越しているでしょうか? 有り難いことに友人は「目指せ100册」と励ましてくれます。添削も頑張ります。

皆様にとっても、今年が充実した良い年でありますように。A Happy New Year!

2025年7月17日木曜日

不安な時代に生きること

今年になってから、一気に世界が不安定化しました。大きな原因はトランプ政権でしょう。「相互関税」とかいう理屈でアメリカへの輸出を制限する。それがいやなら「取引に応じろ!」と相手を屈服させる。

上手く行っているとは思えません。「関税」の本格的発動は何度も延期され、その裏で物価は上昇を続け、GDPも落ち込む。関税は原理上価格に転嫁されるので、インフレは必然。企業に圧力を掛けて価格を上げさせまいとする。世界の不条理をまざまざと感じさせます。

10年程前、ヨーロッパに行った時、フランス在住の陶芸家の家に泊まりました。周囲はまったくの田舎で退職者たちが住んでいます。仕事がないので、若者はいられない。ただ、どの人たちも感じが良い人ばかりで、「この地域に来た初めての日本人だ」と歓迎してくれました。

500m先に住んでいる夫婦は、旦那さんがもう80歳を超えて、元ウクライナ移民。「アペリティフ飲みにおいでよ」と言うので、夕方に行ったら、いきなり「移民問題」の大議論になりました。

驚いたのは、ウクライナ出身移民の彼が大の移民嫌いだということです。「今の移民は質が悪い、もう移民は禁止すべきだ」と言う。いや、だって自分が移民だったでしょ、と突っ込まれるが、まったく動じない。「俺の頃は優秀な人たちが来た。だから自分も成功した。だが、今の移民はクズだ」と。

彼は生活も安定し、フランス人女性と結婚したのだけど、そうなる権利を他の同国人にも認めない。どう考えてもおかしいのだけど、本人は大真面目。信じて疑わない。もし、私たちが移民して彼の隣に住んだら、差別されること必定でしょう。

友人は「良い人たちだけど、私たちと違ってNon-educatedなんでね」と言います。生活を安定させるために必死で働いて、年金で暮らせる今の生活を築いた。その実感の方が大切なのでしょう。自分の成功は、フランスの唱導する公平とか平等とかのおかげなのかもしれないとは考えもしない。

その点では、トランプも同じかも。世界の自由や公平が基盤となって自分が成功したかも、と思いもせず、ひたすら「頑張った自分の実感に立てこもる。それができない他人はクズだと。

こういう偏見を壊して全体を見させるのはEducationなのだけど、彼には教育が身につかない。法も経済も理解しないで、がむしゃらに自分の思うことを行う、それがどんな混乱を引き起こすかも頓着しない。

インターネット後の世界は「新しい中世」とも言われます。情報の洪水とともに、すべての知識の相対化が起こって近代以降に苦労して築き上げた理念が崩され、各々の「信念」しか頼るものがなくなる。その信念に基づいて、互いに相手を否定し、激しく抗争する。ほとんど宗教戦争まがいの状態。

こういう混乱に対抗するするには、やはり自分がEducatedになるしかありません。広く深く知識を集めて、それを元に様々な問題を考える。失敗を受け止め、さらに努力する。安易に「個人的信念」に頼らない。そういう辛抱強い訓練を自分に課す。その訓練が、社会に圧倒的に欠けているように思います。

八月には「法科大学院小論文 夏のセミナー」が始まります。毎年のことですが、社会や法の問題を元に、自分の持つ知識を総動員して、法科大学院の出題する問題を考え抜くことをおよそ10回にわたって行います。毎年、この講座の中から、合格者が出て、社会の様々な具体的問題に取り組んでいくと思うと、小さいけれども重要な機会でしょう。

法曹になろうとする人々、不安な社会の中に、正しい知識と判断と思考力を持とうとする人々にぜひ利用していただきたいと思います。

2025年7月10日木曜日

ハビトゥスということ

この頃、ハビトゥスという言葉をよく考えます。ハビトゥスとはラテン語のハベーレ(持つ、英語のhave)の完了分詞で受動の意味を持ちます。だから、意味は「持たされたもの」とか「身についたもの」で「習慣」とか「慣習」という意味になります。言わば、いつもやっていることで、やることが習慣化したもの。

語学の勉強なんかそうですね。少しで良いので、毎日毎日少しずつ学んでいく。それが積み重なって、一年あるいは数年たつと何となく進歩が分かるようになる。むしろ難しいのは、変化がゆっくりなので、日々の進歩が実感できないのに、たゆまず続けていく、という動機をどうやって持ったら良いのか、ということです。

よく「強い意志を持つ」と言いますが、「意志」はあまり信用できない。そもそも何かしようとい意志をどうやって持ったら良いのか? 意志で何かしようとい意志が持てたとして、何かしようとい意志を持とうとする意志をどうやって持ったらいいのか? さらに何かしようとい意志を持とうとする意志を持とうとする意志を…これではどこまで行っても最初が見つけられません。

経験的に言うと、人間の行動なんて、意志を持つぐらいでどうにかなるものではない。むしろ、自分を騙して気分が乗るような工夫をする必要がある。それをどうやって見つけたらいいか?

一番良いのは、外部に「学びに誘導する環境」を用意することにあります。気分が乗ろうが乗るまいが、とにかくやらなければならない。自分では、そこに参加しようという最小限の意志さえ持てば良い。やることはほんの少しで簡単にする。後は、周囲がいろいろ提供してくれることに乗れば、その内、自然に気分が乗ってくる。それが連続してくれば、勉強がハビトゥス化するわけです。

この頃の語学勉強アプリなどでは、その辺りが上手く出来ています。たとえばDuoLingoなどというアプリは、毎日「今日もやろうね」とメッセージを送ってくる。「しようがないな、やるか」と練習を始めて五分ほどやっているとすぐ一生懸命になっている自分に気づきます。人間の気分なんか当てにならないものだな、と実感します。

あるいは、健康管理アプリでは、一日の歩行数を設定して、それが達成されたかどうか、知らせてくれる。時々「よくやったね」と銀色のバッジをくれます。バッジに何の価値があるわけでもないけど、それを目安として、明日も歩こうかな、という気になります。時々の達成感をかたちにしてくれることに意義があるわけです。

8月初めから、ボカボでは恒例の「2025法科大学院小論文 夏のセミナー」が始まります。ただ、今年はトランプ政権がムチャをやるせいで民心不安定なためか、何となく出足が鈍い。私のかつての予備校時代の同僚も、今年から仕事を離れたという人も多いようでした。私の教え子で予備校講師になった若い人でさえ、今年から大学受験指導は止めて、他の国家試験対策に転身すると言います。「いったい、受験生はどこに行ってしまったのだろう?」と言っています。

若い人々のライフコースに大きな変化が生じている気がします。かつてなら「日本の大学受験は第二の誕生」などと教育社会学のテーゼがあったのですが、決定的な性格は薄くなったように思います。むしろ、大学院とか生涯教育とか、様々な転轍のチャンスがずっと続いていく、構造になっている。だから、勉強も、あるとき集中してやるのではなく、さまざまな機会を捉えて、つねに自分をプラッシュアップする形になりつつあります。

このあり方では、なかなか集中して勉強できない、という悩みが大きくなります。集中しようとしても思うとおり行かない。その内、トランプがまた変な政策を打ち出す。こんなに世界がメチャクチャなのに「はたして勉強など続ける意味があるのか」と悩むのも無理からぬことかもしれません。

これでは、なかなか勉強は始められない。いくら、本を読もうと思っても、その気力が出ない。こういう場合は、とにかく進められるように環境から変えることが大切です。「夏のセミナー」では、否が応でも10回程度の提出をしなければなりません。とりあえず目の前の課題に取り組んでみる。すると、自然に色々なことを考える。その過程自体が勉強になっているのです。

書いた文章も「ここがダメ」「ここがよく書けている」と明確な評価となって返ってくる。その評価に納得するかどうか、は別問題ですが、客観的な評価はこういうものだ、ということを見せられることで、自分の書いた手応えが分かる。それが「夏のセミナー」のもたらす経験です。

毎回、このセミナーの受講者から、有名法科大学院への合格者が出ているのも、こういうハビトゥスを作るシステムになっているからだと思っています。法科大学院を目指す方、ぜひ来てみて下さい。きっと得るところが多いと思います。




2025年6月1日日曜日

「2025夏のセミナー」に向けて

この間、2025年が始まったと思ったら5月ももう終わり。一年の半分過ぎ去ったと思うと呆然としますが、紫陽花は今年一層美しく見えます。

今年、世界はアメリカ大統領が「相互関税」や「大学への制裁」をやり出したおかげで大混乱しました。製造業衰退で困窮した大衆が支持しているようですが、残念ながら「関税」や「大学制裁」で、この問題の解決はできないと思われます。なぜなら、アメリカの製造業衰退は資本主義経済の必然的発展だからです。

製造業が発展すると、賃金とともに製品価格も高くなるので、競争力がなくなります。だから、製造業は賃金の安い外国に出て、そこで生産する。国内では経営や開発が主になり、そのスキルがある人、つまり学歴が高く専門技能がある人々への需要が高くなる。一方で、海外でもできる作業の労働者には仕事がなくなる。残るのは、生活の小さな用事をその場その場で解決する「エッセンシャルワーカー」ばかり。

この「発展」のプロセスを政治で変えるわけにはいかない。一時的には、影響を与えたようでも、今の資本主義を続ける限り、この傾向は止まらないからです。トランプも、今のところ、ことごとく失敗し、ウォール街ではすでにTACO=Trump Always Chickens Out(トランプはいつも怖じ気づく).という言葉が流行しているとか。

経済法則を無視しているなら、この結果は当然です。ウクライナ紛争も「三日で解決できる」と言いながら、平和を実現できない。無理なことは、いくら強権をかざしても出来ないのです。

そういえば、アメリカは過去にも同様な失敗をしています。「禁酒法」では、酒の販売を禁止して、社会に平和と繁栄をもたらそうとした。でも反対に、法律を破っても利益を上げようとするマフィアたちが大もうけし、彼らの抗争が激化して、社会の安全も危険にさらされました。

社会を変えるには、原因に働きかけねばならないのですが、その手間を省いて強権でコントロールしようとすると事態は悪化する。社会を変えるには、社会の原理を理解し、そのメカニズムに沿って辛抱強く働きかけていかねばなりません。現在の米国大統領は、それを理解することができないようですが、こういう蛮勇にしか、もはや期待できなくなるほど、アメリカ社会は絶望的なのかもしれません。

しかし、どんな権力者も無力であるという事態は、我々にとって逆に朗報かも知れません。権力を持たなくても出来ることがあるからです。まず、すべきは社会のメカニズムを理解すること。次に、何処に働きかけるべきか、を判断すること。最後に辛抱強くやり続けること。

法曹になる、というのも、その世界理解のための第一歩かもしれません。社会のあり方を知って、どこに働きかければ、どういう結果が出て来るか予想する能力を持って、そこに働きかける。トランプもその支持者たる大衆も、メカニズムが分からないのに、やたらと命令・脅迫でことを動かそうとする。しかし、社会が動くとは、自分がすべてに目を光らしてなくても、他の人が進んでやるようなメカニズムを作ることです。

法律というと、裁判とか判決とかを考える人が多いと思いますが、私が、かつて医療裁判の事例で習ったのは、裁判に持ち込まれる時点で、医療側患者側の当事者双方にとって「敗北」だということでした。

無益な「対決」にならないようにするのが、法律の専門家としての重要な役割なのだそうです。むやみに「対決」を否定しないが、たんなる「対決」に終わらないように知恵を絞る。そのためには、過去の「対決」のメカニズムを深く理解し、それを現実に起こる事例の参考にして考え抜くことでしょう。

今年もボカボでは、法科大学院小論文 夏のセミナーが行われます。この講義と演習が、上記のような意味で、参加者の社会と秩序に対する考えとセンスを深める契機になれば、開催者とすれば、これに過ぎる仕合わせはありません。夏の暑い時期ですが、一緒に頑張っていきましょう!




 

2025年2月17日月曜日

グローバル化と教育

10日ほど前から、インドネシア・バリ島の自宅に来て、原稿三昧の日々を送っています。某出版社から出している問題集が好評なので、今年は改訂版を出したいというのです。日本だと、執筆中さまざまな雑用が出て来るのですが、慣れた環境からったん遮断されると集中しやすくなるのです。

このような仕事の形態を始めたのは、今から15年前で、インターネットが充実し始めたころでした。家は、近くの村から1km以上離れているのですが、そこから電話線を引っ張って、この地域でも初めてネットが使えるようにしたのです。

電柱もなく、電話線は木に這わせたり、田んぼのあぜ道に竹をに刺したり、むちゃくちゃな突貫工事でした。おかげで、雨が降るごとに線が切れて、工事の人を呼ぶ羽目になりました。ネットが通じるまでの数時間、じりじりしながら待っている感じは今でも鮮明に覚えています。

そんな状況が変わり始めたのは、ここ数年です。光ケーブルが島内に完備され、インターネットの速度も爆増しになって、今ではZoomも使えます。

昨日も、バリ在住の日本人声楽家と話したのですが、彼は音大受験生をZoomで教えているそうです。最近だと、むしろ対面の方が少ないのだとか。受験直前に「次回は受験直前なので、対面でやろうか。ちょうどその時なら日本にいるし」と言うとビックリされるのだとか。

場所や空間の縛りなしに仕事ができる状態の方が普通になり、私の教えている人も、沖縄とテキサスと東京と長野と、という風に居場所さまざま。どこにいても、日時を合わせて、教えたり打ち合わせしたり、という感じになりました。

世界中の人々と瞬時に繋がるので、教育で残っている問題と言えば、何を学ぶべきか、という判断力と、どんな人と繋がるか、という情報力と、粘り強く学びを続ける持続力にかかってくるようになりました。どこにいても、正しい人々とつながり、しつかりした教えを受け、着実に練習すれば、一年後には結果が大きく違う。ある意味、怖い時代になったな、と思います。

ボカボでも、3月1日から「小論文セミナー」Weekend Gymを始めます。これは、大学・大学院受験・転職の志望理由など、論理的な文章を書きたい方々のために、基礎から書き方を練習する講座です。大学院などの試験は、夏から秋にかけてでしょうが、小論文を書く力は比較的ゆっくりと向上します。早めに始めて、今の自分にどこが足りないか、自覚することがまず大切です。そうなって始めて、努力目標も効果的な学習法も見えてくるものです。

世界中の人々とフラットに競い合う状況は、人間が初めて経験する状況かもしれません。しかし、そんな世界の中で力を得るための方法は、2000年以上も前から変わっていません。学び、経験し、自分のものとする、というだけです。Weekend Gymを、その力を磨く最初のきっかけにしていただければ幸いです。皆様のご参加をお待ちしています。