2017年7月1日土曜日

批判は役に立つか?

ある議員が「批判なき政治を」というスローガンを掲げました。「批判なき政治とは何だよ? 全体主義だろ」という声が当然のように上がる一方、「大衆にとって、批判は集団の和を乱す行為にすぎない。そういう大衆をちゃんと理解を理解しないとダメだ」という主張も出てきました。

たしかに「批判」は問題を起こすだけ、と嫌がる人は少なくありません。意見・利害も対立し、立ち往生する。だから「決められる政治」という言葉も流行った。
しかし、批判して問題を起こし、立ち往生させることは、ホントに悪いことなのでしょうか? 東大ロースクールの初年度の問題は、次のようなものでした。

 (1)下線部(a)の花子の設問に、あなたならどう応答しますか。
(引用は途中省略あり)
 太郎 日本にもやっとロースクールができて、「社会の医師」の養成を質量ともに充実させる時代がきたね。ぼくも今度受験するよ。
花子 「社会の医師」って何?
太郎 法曹、とくに弁護士のことだよ。紛争はいわば社会の病。個人の心身の病を診断し治療するのが弁護士をはじめとする法曹の仕事。だから、法曹は「国民の社会生活上の医師」と言われているんだよ。
花子 紛争って「社会の病」なの?
太郎 え?
花子 「健康な心身」の方が「病んだ心身」よりいいというのは、了解できる。でも、紛争のない社会の方が紛争のある社会よりいいなんて、本当にそうかな。
太郎 紛争のない社会なんか退屈で生きてゆけないってこと? でも、紛争がいいもんだってのは、ぼくには理解できないな。
花子 逆に考えてみて。(a)紛争を根絶した社会はどんな社会か。社会は紛争を根絶するためにどんな代償を払わなければならないのか」って。(以下略)


ここで「紛争」と言われているのは対立です。太郎は、「紛争」を病気に例えて、
「法律家」は、その病気を治す医者のようだと述べています。それに対して、花子は、その比喩が間違っていると言う。いったい、どこが違うのでしょうか? そのヒントが「紛争を根絶した社会はどんな社会か。社会は紛争を根絶するためにどんな代償を払わなければならないのか」という下線部だと言うのですが、実は、その前に、もっと根本的な問いかけがあります。それは「そもそも、紛争は完全になくすことができるのか?」です。

ちょっと考えれば「社会から、紛争/対立状況を完全になくすことは難しい」と分かります。なぜなら、人間の利害はそれぞれ違うので、ある人にとってよいことは、他の人にとってはよいとは限らないことだからです。


たとえば、経営者にとって、従業員の給料が安くて、すぐクビを切れることは都合のよいことです。でも、従業員にとって、給料が安くて、すぐクビを切られるのではたまったものではありません。だから、労使紛争も起こる。


こういう中で、もし「紛争を根絶」しようとしたら、どうなるか? たとえば、法律で「紛争を起こすことは、まかりならん!」と決めると、どうなるか? 
労使紛争が禁止されたら「給料を上げろ」と要求できないので、困るのは従業員です。一方、経営者は、文句が出ないので、いくらでも給料を下げられる。うれしくって仕方ないでしょう。つまり、たんに「あり得る紛争」が隠れて、存在しないように見えるという事態を引き起こすだけです。

そういえば、最近起こった事件では、身体障害者の男性が、「車いすのまま乗ることはできない。スタッフが手を貸すこともできない」と言われて、飛行機のタラップを手でよじ登らされた、として騒ぎになりました。会社はすぐに謝罪し、これからは、車いす乗降用の機械を導入する、と宣言しました。


これが報じられるやいなや、大バッシングが巻き起こりました。「やり方が汚い」とか「身障者の場合は事前通告するというルールを守らなかった」とか「格安航空会社だから身障者のためにコストをかけられない」とかいう意見が殺到したのです。


しかし、ホントに、この行為はまずいのか? まず、結果から評価すれば、身障者が飛行機で旅行しやすくなった。世の中は良くなっている。


では「やり方が汚い」か? でも、ルールに従ったら、おそらく、この男性は乗れなかったでしょう。身障者だと事前に知らせると、この飛行機会社は「乗機を拒否する」という内規だったそうです。おそらく、この男性は、それを知っており「門前払い」されることを避けるために、あえて通告なしで乗った。


男性は、自分でも認めているように「プロ身障者」です。航空会社のひどさを可視化するように計画をして、この行動を行った。つまり、わざわざ問題を引き起こし、紛争に仕立てたのです。これが気に入らない人がいるらしい。もうちょっと穏便にやれよ、というのでしょう。


しかし、穏便なやり方をしたら、問題は隠れて見えない。航空会社の作ったルール通りにしたら、航空会社は、本人に「乗れない」と通告する。他の乗客は状況が分からない。だから、当日、身障者は乗っていなくても、「たまたま乗っていなかった」と考える。
問題は何も起こっていない。でも、それは問題が「存在しない」ことではない。問題は、見えないだけ。実は水面下に潜んでいる。

社会の問題は、学校の数学の問題のように、目の前にあるものではない。むしろ、それをあぶり出す努力をしなければ「そこが問題なんだ!」ということすら気づかない。航空会社の「身障者を乗せない」という「ルール」のひどさは、彼のように、
果敢に、「アイデンティティを賭けて」挑戦する行為がないと、あぶり出されないのです。それが、彼の言う「プロ」意識でしょう。

わざわざ波風を立て、「問題を起こす」パフォーマンスを行ったおかげで、身障者がいかに不便を強いられているか満天下に示され、航空会社は姿勢を改め、身障者は旅行がしやすくなった。万々歳なのです。でも、バッシングは、「この場に波風を立てるデメリット」だけに注目して、このメリットの構造が見ない。


とすれば、もう上記の問題の答えはお分かりでしょう。「紛争を根絶した社会」とは、けっして理想的な状態ではない。むしろ、本当は社会の中で存在しているはずの対立や問題が、隠されて見えなくなっている状態なのです。


一方「どんな代償を払わなければならないのか」も明らかです。その場の調和を優先して、問題をあえて放置することで、改善の機会をなくしてしまう、ということです。問題を感じていても、それがないものとされ、誰も改善できない。それは、むしろ、地獄のような状態でしょう。


ちょっと複雑だったでしょうか? でも、今度のバッシング騒動を見ていて、一番感じたのは、思考能力がない人が、うかつに議論すると、いかに一見「分かりやすい」間違った結論にたどりつきやすいか、ということでした。

ボカボでは、今年も恒例の「『法科大学院小論文』夏のセミナー」と「『慶應・難関大小論文』夏のプチゼミ」を開きます。この授業では、大学やロースクールの問題を取り上げつつ、現代のニュースとも結びつけ、むしろ、入試制度を利用して、自分のスキルや能力をアップする機会にしたいと思います。一夏を、さまざまな問題に取り組めば、自分の思考力が飛躍的に引き上げられることが実感できるはずです。ご参加お待ちしています。

ところで、「格安航空会社だから、コストをかけられない」という主張が、なぜダメかおわかりでしょうか? 同様に、「もし、コストを理由にできないことがあるとして、それはどこまで許されるか」と、逆に問いかけてみればいいのです。


たとえば、「格安航空会社だから、機内食は出ない」なら許容できる。でも、「格安航空会社だから、整備に金がかけられないので、墜落しやすい」は許容できない。つまり、いかにコストをかけても、絶対に守らなければならないことはあるのです。


ある経済評論家は「格安航空会社なのだから、コストがかけられない。身障者が乗れなくても当然だ」という発言をしていました。しかし、経済コストの上昇を「人を差別すべきではない」という倫理と同列に扱うのでは「不道徳」の誹りを免れないでしょう。経済的な議論は耳に入りやすいけど、これだけで、ものごとをすべて判断しようとするのは、浅はかなのです。

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