2014年3月18日火曜日

現代詩のアイドルたち

 昔は「現代詩」というジャンルがあって、私もけっこう読んだ。鈴木志郎康とか白石かずことか天沢退二郎とか、いろいろアイドルやスタアがいた。私は、詩とは何か、などまったく分からなかったので、とにかく「かっこいいな」と思えるフレーズをあれこれ収集していた。「のどが裂けて砂が吹き出す」という素敵なフレーズは、たしか天沢のだったような気がする。「とにかく、すげーっ」と高校生の私は思ったものだった。

 白石かずこの詩は、よく分からなかったが、自作の朗読をするときに、長い黒の(?)のスカートをはいてきて、さて、朗読しようとするときに脚を組む。すると、スリットの入った長いスカートがさーっと割れて、すんなりとした脚が覗く、なんて「詩人紹介」の描写にしびれた。鈴木志郎康のキャラクター「処女プアプア」も、その名前のあっけらかんさと「処女」という大時代さ加減が、面白かったね。そんな中で、谷川俊太郎が「言いたいことを言うんだ」とさかんにアジっていた。「自由」に幻想が持てた時代だった。

 ところが、今はインターネットでいくらでも自分放送局・自分メディアを通した表現が出来るのに、「マネタイズ」だとか「フォロワーを増やす」とか、アメリカ経営学の手法が幅をきかせている。ネットの相互チェックも厳しい。とてもじゃないが「言いたいことを言うんだ!」なんておおらかに言っていられる状況ではない。むしろ「戦略をもって発言せよ」なんて訳知り顔のネット・ライターが大手を振ってまかり通る。

 「冗談じゃないよ」と私は思う。せっかく「言いたいこと」を満天下に向かって言える道具が手に入ったというのに、その結果は、TV局やマスコミが陥った「自主規制」や「ポリティカル・コレクトネス」「自縄自縛」なのかよ? ネットが持っていた「未来」はどこにある? 「言いたいことを言うんだ」どころか、「もの言えば唇寒し」という状況なんて、我々が望んだ自由じゃない。

 私は、10年以上前からネットを通して仕事してきたが、ホント、この頃の窮屈さはイヤになる。「自由」に何でも言えるというより、むしろ、意図しないところと知らない間につながって、そこからムチャぶりが入る、という状況の方が目立っている。自分の一挙手一投足が、誰かに監視されているような感じ。昔「電波系」という人たちがいたが、その人たちがよく言った「自分の脳の中に、誰かがラジオの電波を飛ばしてコントロールしているんですよ」という言葉が、むしろリアリティを持つ。

 M. フーコーは『監視と権力』で、パノプティコンという権力モデルを出したけど、今やインターネットは、自分のコメントやつぶやきにまで、いちいち「他の人はどう反応するか?」と予想して、自己規制しながらおそるおそる発言するパノプティコンとなってしまった。フーコーは「そこに、権力が働いている」と主張するのだが、その発言はもはや目新しくなく、日常の風景と化している。

 私は、何をしても、何を言っても、誰も注目してくれなかった昔が、今となっては懐かしい。小さな五感の働くサークルの中でとりあえず「面白い」と言われればよかったのだから、思えば牧歌的だった。多数の他者とつながったのは良いが、そのおかげで、セレブたちと同様に、顔を隠して「お忍び」で行動しなくちゃならなくなる。これってむしろディストピアでは?

 人間が五感を介して世界と関わるとしたら、それ以外の「見えない世界」とつながるのが、はたして幸せなことなのかどうか、かなり疑問だ。確実に言えるのは、今の私は、高校生のときの私より不幸である、という感じだ。これがたんなる加齢心理であってくれれば良いのだが…はて?

 

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