2013年4月28日日曜日

ベーコンと実存



 この間、F・ベーコンの展覧会を近代美術館で見てきた。35点と展示は少ないが、体力的にちょっと弱っているときにはちょうど良い規模だ。どれもレベルが高くて素晴らしい。ベーコンと言えば、Screaming Pope(叫ぶ教皇)のシリーズが有名で、その強烈さから、かつては「実存的」絵画だとか言われたけど、そういうスタイルはもう見飽きている。むしろ、晩年の三幅対の絵が色も鮮やかでバランスが良い。明るいベーコンというのは、新鮮だった。

 晩年の絵画は「物語らない身体」を描いているという。複数の対象が描かれているのだが、その中に安易なストーリーを読み込ませようとしない。むしろ、空間の中に対象を並置して、いかなる物語も拒否することで、「そうである」としか言いようのないあり方を際立たせる。それがなんだか潔くて好きだ。

 関連した展示で印象的だったのが、現代舞踊への影響。会場では、土方巽の『疱瘡譚』とフォーサイスのダンスが上映されていた。私は断然土方がすごいと思った。フォーサイスは、ベーコンの使った身体ポジションを次々にたくみに重ねていく。その一つ一つは絵画の中にあったものだが、そこから現れてくるのは、むしろ、うまいダンサーの「機能的な身体」だ。手や足、あるいは胴体の動きを一つ一つ分解して、それぞれを別々に働かせる。身体運動をいくつかの要素に分節化・構成して、ダンスというジャンルに見事にはてはめる。

 しかしながら、土方はそんな「分解と構成」をしない。ベーコンのポーズ化に出発しながらも、それを「起きようとしても起きられない」起き上がりこぼしのような動きにする。力を入れ、あきらめ、別な方法を試して失敗し、中途まで立ち上がって、またへなへなと崩れる。腕も脚も動きは分節化されない。だから、フォーサイスのように「ダンサーの身体」とならず、むしろ、しようとしてもできない「不器用でどうしようもない身体」が現れる。

 こっちの方がベーコンの描こうとしたものに近い感じがするね。プロフェッショナルで社会に適合した「機能的な身体」ではなく、むしろ、この世の中で適当な居場所が見つけられずに、檻のような場所でうごめいたり叫んだりする身体。フォーサイスは、ベーコンのポーズを引用しつつ、巧みな振りやアクロバティックな動きを見せるが、その名人芸はどんなに整理されているとしても「バレエ」や「ダンス」という大きな物語=枠組みの中における動きでありつづける。

 そういえば、前にフォーサイスの踊りを見に行ったことがあるが、前半の古典バレエっぽい動きの方が格段に良かったことを思い出した。ダンサーたちは禁欲的なグレーの衣装で、一つ一つの動きがくっきりし、明確な構成意識が感じられる。さすが洗練の極致という感じだった。

 ところが、後半のポスト・モダンあるい脱構築的な動きになると悲惨なのだ。まず色がバラバラ。踊りも統一感もをなくして、わざと動きをはずす。それが意図だということは分かる。でも美しくない。グロテスクですらない。バレエやダンスの秀才が、モダン・ダンスという物語=身体の構えの中で、ちょっと組み合わせを換えて、いつものスタイルを崩してみせる。そんな「脱構築」はこっちが恥ずかしくなるほど浅い。

 それに対して、土方はダンスっぽい動きなどハナから放棄している。古典バレエもできますけど、わざと「現代的な表現」のためにこんな振り付けにしているんです、という嫌味がない。全身白塗りにほぼ裸体。腰にぼろをまとい、頭は日本髪を結う。何でそうするのか? それしか出来ないからだ。全身全霊で「出来ない自分」をやっている。このスタイルを選ぶしかないという切実感がそもそも違うのだ。

 ベーコンは犬の糞を見たとき「人間は結局これだ」と思ったとか。それは、人間は汚いとかダメだとかいう意味ではないと思う。むしろ、「そこにある」という以外に何の意味も見つけられない、あるいは「そこにある」というだけで、十分意味づけを必要としないほど充実している。ベーコンを見るということは、その存在を感じ取ることだと思う。そういうところが「実存的」だと言うなら「実存」も悪くないのかもしれないな。

 でも、同じものを参考にしても、人によって、これだけ違った受け取り方が出てくるのはやっぱり驚きだ。人間の理解の多様性に呆然としてしまう。でも、分かる人にはわかり、そうでない人もそれなりに感じる。いや、そんな自分も、実は何も分かっていないのかもしれない。そういう風にあれこれと考え、迷わせるところが、すぐれた芸術の特徴なのだろうね、きっと。

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