2012年4月30日月曜日

添削者「卒業」雑感


 数年にわたり、スタッフとして添削を熱心にやってくれたA君が、このたびボカボを離れることになりました。ちょっと残念ですが、彼の将来が発展していくことを祈りたいと思います。「卒業」にあたり、彼が「添削者雑感」を書いてくれました。ボカボでは明確な添削基準があります。だから、人によって添削方針がぶれたりしないのですが、彼の「雑感」はそのへんの事情をよく表していると思います。ボカボで長年添削をやっている人なら、皆同じように感じると思うので、ここで紹介します。

●添削者雑感
私は、4年ほどボカボでスタッフをしていましたが、今年の4月から別の会社で働くことになりました。はじめはちょっとしたアルバイトのつもりでやってきたのですが、始めてみると意外に面白く、気がついてみると、時間があるときはほぼボカボに入り浸りという状態。しょっちゅう、他のメンバーと添削談義を交わすようになりました。

自分の文章には思い入れがあり、客観的に見るのはなかなか難しい。ですから、文章を書くのに悩んだら、文章の仕組みを知っている人に読んでもらい、ツッコミを入れてもらう機会をつくる。これが添削ですが、添削する側から見ると、これは「自分にとっての文章の理想とは何か」が毎回試される経験となります。

一つひとつの文章と向き合って、主張は何なのか、論証は十分か、具体例が適切か、そもそもこういう問題提起でいいのだろうか? 日々考えるので、自分が文章を書くときでも、自然にスキルも上達する。その意味で、添削した私こそ、文章が一番上達したのではないかと思います。受講者の皆さんも文章がうまくなりたかったら、ボカボ・スタッフになるのが手っ取り早いかも(笑)。

やってみて驚いたのが、解答者のおかす間違いには、ほぼ決まったパターンがあるということです。「…ではないだろうか」と大げさな修辞疑問文を多用したり、「人間というものは…」などと大風呂敷を広げてみたり、自分の体験から一般化せず、すぐ結論に飛びついたり、他人の目に自分がどのように見えているのか、意識が回らないようです。私たち添削者は、そのうちコメント・テンプレートを作って、皆で共有していました。

では、そういう表現の間違いを直せば、いい文章になるのか? そうでもないのですね。添削して整理すると、意外に平凡な発想になっていることがよく分かる。この意見はA新聞の社説そのままだよな、とか、TVでよく解説者が言ってることだよな、とか。自分の個性的な意見を言っているつもりでも、実はオウムのように他人の意見を繰り返しているだけのことが多い。「個性的な意見」に到達するのは大変なことだな、とため息が出ると同時に「自分も頑張らなきゃ」という思いに駆られました。

 そういえば、私の大学院の指導教授は、論文は、実は問題提起でほとんど評価が決まると言っていました。論証の過程などはやり方は決まっているので、減点するところでしかない。つまり、読んでおくべき先行論文への言及が抜けていないか、結論に至る論理に飛躍がないか、など、いちいちケチをつける態度で見るのだとか。ちゃんと訓練を受けた人が書くと、こういうところに遺漏はない。論証は出来ていて当たり前なのです。

 実際、論理の法則には個性はありません。高校のとき「PならばQ」という命題が成り立っても「QならばP」は必ずしも成り立たないことを学習したと思います。つまり、論理は一定の法則に支配されているので、個性を発揮する余地はほとんどない。自分の解決を読み手が納得する最善の論証をする。そうすると、大抵一つに決まります。だから、どんな問題を取りあげるかの方に、論文の価値はあるというわけです。

 でも、それは一流のプロのレベルですよね。受講生の皆さんも私も、まだ訓練の途中。やるべきことは、個性の追求であるより、まずきちんとした説得の仕方を習得し、どんなときでもそれを適用して文章が書ける段階に達することです。人から指摘されないでも、論証にケチをつけられないように、きっちり構成できなければならない。それがまだうまく出来ないから、ボカボで添削を受けたりしているので、個性が発揮できるような段階なら、そもそも添削を受ける必要はないのかもしれませんね。だから「構成を決めちゃったら、個性はどうするの?」なんて心配に接すると、いつも「あー、またか」と思っちゃうのですね。

同じことは、志望理由書にも言えます。志望理由書=自己アピールと考えて、自分の「美点」をずらずらと並べる人がいます。たとえば、大学の授業で良い成績をとったとか、大学の授業で○○を履修したから○○を習得しているといったエピソード。他に、TOEICの点数がいくつだとかを志望理由書の本文に記載する。添削者としては、ホントに困っちゃうのですよね。

世の中で、たぶん評価されそうだな、と思われることを羅列する。でも、これって逆に言えば「世の中ってそんなことで決まるんだよな」と舐めている態度に感じられるのでは? 志望理由書で欲しいのは、その人のくっきりした輪郭とパワーです。どんな仕事/研究が出来るのか、どこまで深く考えているか、似たような取り組みと比較しているか、取り組んでいる問題に発展性はありそうか、解決のためのスキルを持っているのか、持っていないとして2、3年で補充できそうか、どこまで情熱があるのか、そういうことだと思うのですよね。

 実際、大学の評価は一つの尺度ではありますが、それを見るためなら成績表でも見ればよい。そもそも、大学院に入るのなら、大学教員になる人々は、大学の成績はほぼすべてA(優)なので、そんなことをアピールしても始まらない。逆に経営者だったら、大学の評価に疑問を持つ場合も少なくないでしょう。世の中で通用する「評価」を、そのまま信じて、それを志望理由書に書く、という態度自体がすでにしてナイーヴすぎる。そう思われる確率が大きいと思いますよ

そんなことよりも、アルバイトでも仕事でも、あるいは遊びでも、自分の経験の中で問題を発見し、それを解決するためにどう考えて、どんなアクションをおこしたのか、うまくいかなかったときに、その原因は何だったのか、何を利用してどう対処したのか、といった主体的に行動した事実を具体的に書いた方が良いのにな〜、といつも思う。その上で、そのエピソードが「こういうことをやりたい」という志望理由と結びつくのが理想だし、読みがいがある。

添削を重ねれば重ねるほど、志望理由書を書くということは「自分が元々書きたかったこと」という源に溯ることだと感じるようになりました。もちろん、書き始めたときには、「自分が元々書きたかったこと」など見えているわけではない。むしろ、書き始めたときは「世間でよくあること」に引っ張られていく。でも、それを乗り越えて「本当に自分がやりたいこととは何か?」を突き詰めながら書いていく。そういうプロセスが出ている志望理由書に出会ったときは、本当に嬉しいし、自分がしたアドバイスにしたがって、文章がそういう方向に変わっていくと、添削冥利に尽きるな〜と思います。

この数年は、自分の将来の道が見つからない時期でもあり、苦しかった面もありますが、ボカボでの経験は役に立ったし、何がサーッと見晴らせるときもあり、本当に楽しかった。これからも、ボカボに協力できることは、なるべくしていきたいと思っています。受講者の皆さんも、自分の進むべき道に向かって、ぜひ頑張っていただきたいと思います。ありがとうございました。

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