ツイッターで原発の問題分析の記事が色々まわってくるが、その中に「二項対立」という言葉があった。「ああ、やっとここまで来たのか」と感慨を深くした。「デマ情報が多いとか」いろいろ言われてきたが、ツイッターには、確実に国民のリテラシーを上げる効果があると思う。
言及されていたもともとは「日経ビジネスオンライン」に書かれた武田徹の記事で、原発問題をゲーム理論の「囚人のジレンマ」を使って分析したものだ。つまり、原発賛成派と反対派が相手を信用しないために、自分だけの利益を図る構図に陥って、結局最悪の選択をしてしまった、というもの。たとえば、両者が互いに譲らないために、原発を推進する/反対するの間に妥協が生まれず、原発は存続するのだが、新しい原発の建設が不可能になり、その結果、すでに取得済みの用地に複数建てざるを得ず、福島のように、同一敷地内に6基の原発が並ぶというリスクに極端に弱い構造が出来上がったという。
これは、情報開示についても同じだ。池田伸夫も言っていたが「原発は絶対に安全か?」と問われれば、科学者は安全とは言えない。なぜなら、どんな場合でも確率的には可能性があるからだ。でもそう答えると、「では危険なのだな?」と突っ込まれるわけだ。「いや、そうはいうけど、その確率はとても小さい」などと答えようものなら「確率なんかで誤魔化すな。もっと簡単に言ってくれ。安全か危険かどちらなのだ?」(「朝まで生テレビ」の田原総一朗の口調を思い出してもらいたい)と詰問される。これじゃ答えるのはやんなっちゃうよね。
こういう関係にならないためには、とりあえず「絶対安全です」と言わなくてはならなくなる。その結果として、ちょっとした不具合も外に出せなくなる。とりあえず内部で処理して「ないこと」にするのが一番楽だということになりかねない。でも、これが東電の「隠蔽体質」と言われるのなら、ちょっと気の毒な気もする。「隠蔽体質」を作り出しているのは反対派の攻撃の仕方だ、とも言えるからだ。
実際、我々は「危険か安全か」などという「あれかこれか」という世界に住んでいるのではない。「危険」はなだらかに減少して「安全」につながっているし、「安全」も次第に危うくなって「危険」につながるという構造になっている。それなのに、不信感に凝り固まって「危険か安全か」を争うことで、よりひどい状態を引き起こす。つまり、今度の事故も「人災」というが、その責任は、東電など原発推進派だけにあるのではなく、原発反対派にも存在しているのだ、ということなのである。
こういうメカニズムがあるから気をつけようよということは、私は前からいろいろなところでちょくちょく言っていたのだが、今ひとつ理解されないと感じていた。「二項対立」というと、ただの「対立」と取られてしまうのだ。二者が対立しているのは当たり前だろう、というのである。
そうではない。「二項対立」は、対立のどちらかが正しいのではなく、対立するというあり方そのものが病的で、さらに問題を増やしている、という含意がある。でも、普通人は「対立」があると、どちらかが正しいにちがいないという思いこみがあるから、そういう言い方をすると「誤魔化すな」とか「どっちの味方なんだ」とか責められる。言っても言ってもわかってもらえない。結局損な立場に追い込まれる。やんなっちゃうな、という感じなのだ。
しかし、今度ツイッターに出てきたということは、「二項対立」はほどなく日常の日本語の言葉に入ってくるはずだ。これで、一つ日本人の言語リテラシーが上がった、と言ったら言いすぎだろうか? 少なくとも、新しい概念が使いやすくなるので、私はずいぶん活動がしやすくなる。頭が悪い人は、それでも反対・賛成と対立を繰り返すだろうが、普通の人たちはそれだけでは「何だかな」と疑問を感じ出す。
ある反原発活動をしている外国人が書いていた。「反原発というと、原発推進派はすぐ『電力は要らないのか』と詰問するけど、我々が主張しているのはそういうことではない。原発を唯一のエネルギー源としてではなく、可能なエネルギー源の一つとして、きちんとその損得を評価しましょう、ということだ。そのための情報をきちんと開示してもらいたい」。
この主張を日本人が言ったらどういうことになるか、すぐ予想できる。まず反対派から「原発を容認するのか、裏切り者!」と総スカンを食うだろうね。一方で、推進派からは「口当たりのいいことを言っているが、どうせ開示したら、曲解して批判しまくるだけだろう」と疑われる。コミュニケーションの通路をつけたつもりが、両者から攻撃され、後は「多数決」という機械的な決定プロセスに参加するしか許されない。これは不毛だと思うね。
ツイッターというメディアを使ったことで、「二項対立」がどういうものかも実感できるようになったと思う。一つの意見が述べられても、すぐそれに反対意見が述べられる。さらに、その反対意見も吟味される。対立の根源が分析されたり、両者の偏りが出てきたりする。それを他の人が見ている。ときには、自分も参加する。この中で議論が深化する。その場が時々刻々と状況によって変化する。
こういうメディアは今までなかった。たいていは、対立が固定化した後で、マスメディアが両論併記という形でまとめる。視聴者は傍観者になるか、どちらかの立場に立って活動家になるか、の選択が残されるだけ。こういう政治対立の図式が、ツイッターというメディアがあることで、すっかり変わるかも知れない。これは、とても刺激的だ。言論の中身より、言論を担う役目のメディアの変革が、言論の内容を変えるという状況はちょっぴり悔しいが、社会の変化なんて、結局そんなものなのかもしれない。とりあえず、この変化は歓迎せざるを得ない。頑張れ、ツイッター!
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