2011年3月27日日曜日

地震酔い?

地震があった日から、何となく私の環境世界は変わってきた。風呂に入ると、水がゆらゆら。「すわ地震か?」どうも違うらしい。道を歩くと、道面がいつもよりでこぼことうねっているように見える。地下鉄の通路を歩くと、壁面に向かってはげしく傾いでいる。どうも地震以来、私の三半規管はちょっとばかり変化したようだ。

地震酔いと言うらしい。「船酔い」と同じで三半規管に異常を来すというのだが、はたしてそうか? むしろ、今まで気がつかなかった揺れや傾きに敏感になったせいではないのか? 耳鼻科に行く人が増えたらしいが、私は「治療」するのはもったいないな、と思う。

なぜなら、この感覚は、昔、舞踏のグループに入って始めてスキンヘッドになったときの衝撃と似ているからだ。「舞踏やるなら髪ない方がいいね」とリーダー麿赤児に言われて剃っちゃったのだが、それから数日は何というか、至福の時だった。世界の事物を頭のてっぺんで直接感じられるからである。

たとえば、雲が太陽の前を横切る。頭のてっぺんがすーっと寒くなる。半分だけ翳るとクールさも半分。いちいち見て確かめなくても、何が世界で起こっているかすっと分かる。僧侶が剃髪するわけが分かった。世界の相貌が違って現れ、その相対性に気づくのだ。美しさの裏に衰退を見る。快楽の中の空しさを気づく。堅固さのうらにもろさを感じる。当然、解脱しやすくなるだろう。

今度の地震は、つまり、そういう感覚を鋭敏にした効果があったのではないか? 消費で満足を得てきた生き方がふっとイヤになる。頑張って働いてきた自分が疲れはてていることに気づく。目標に必死になってきたことが何の意味があったのかと思う。自分はいつまで生きていられるのだろうと疑う。そういうことだ。

経済学者やビジネスマンたちは「通常の生活を取り戻せ」と叫び立てている。消費を減らすと日本経済はダメになるというわけ。だが、たぶんそう簡単には通常の消費は取り戻せないだろう。だって海を見ても、そこに津波の映像が二重写しになるからだ。地面を見ても、それが危うい基礎であることを思い出し、確かに思えない。

地下鉄の駅だってそうだ。照明が暗くなった。ちょうど15年前のNYのように薄暗い。でも、そんな暗さでも何とかなっている。「あの明るさは必要だったのだろうか?」私たちは、そんな気分をボンヤリ感じている。そして、前に戻る必要はないのだと確認させられる。

もちろん実際的には、地震のことは半ば忘れて、日常生活にもう戻っている。地震前と同じように原稿を書き、添削をし、メールを出し、人と打ち合わせする。でも、そこに何だかそこはかとないブルーノートが混じる。「どうせ、こんなことやったって…」。倦怠感というのか何というのか。

こんな気分は、被災地の人々のことを思うと申し訳ないと思う。彼らは生きるのに必死だからだ。それを出来るだけかなえるようにするのが、被害が少なかった者のつとめだろう。だが、それとは別に、私たちの気分(エコノミストは「マインド」と言うだろう)は決定的に変わったように思う。死をもたらすもの、衰退をもたらすものとも共生していかなくてはならない。そういう覚悟/あきらめがそこはかとなく漂う。

しかし、それは決して悪いことだけではない。なぜなら、それはもともと存在したものだからだ。それを見ないようにしてきたし、忘れようともつとめた。その結果として、我々は鈍感になり、存在も忘れられたのだが、今度の地震を機にまた感覚世界に入ってきた。それに反応して、我々も敏感さを取り戻したのである。

昨日、久しぶりに本屋に行った。市場調査のつもりだったが、新書のコーナーに行くと、あまりの多さに「気が違っている」としか思えない。この大量の書物は何だったのか? どんな意味を私たちに与えてくれたのか? 新書の世界で仕事してきた自分がこんなことを言うのも何だけど、本当に価値ある情報だったのか、紙の無駄だったのではないか、深い疑念が湧いてくるのである。きっとこんな疑いの目で、他の人も新書の山を見ているに違いない。

近頃プラトンを読んでいる。病院など待ち時間が長いせいもあるのだが、彼の対話篇がいちいち腑に落ちるのだ。もちろん内容自体には異論がないわけではないけれど(「魂は不死である」なんて言われてもね)、対話を求める者には真摯に答えていこうとする姿勢が感動的なのだ。

メディア・リテラシーとか言うけれど、何のことはない。知識情報の出所を確かめることと、それから推論するロジックの吟味だけが手がかりなのだ。「思いなし/思いこみを吟味する」という意味で、プラトンの対話篇の精神は最初のメディア・リテラシーかもしれない。

確実に堅固な地面ではないけれど、とりあえず揺れの少ない、あるいは揺れを少なくしようという志を持つ。そういう志が、地震酔いの時代に手がかり=照明となる。自分の書く本も、そういう姿勢を分け持たねば、と思う。そのためにこそ、今までの感覚器官までも変化したのだと考えたい。

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