この頃、ハビトゥスという言葉をよく考えます。ハビトゥスとはラテン語のハベーレ(持つ、英語のhave)の完了分詞で受動の意味を持ちます。だから、意味は「持たされたもの」とか「身についたもの」で「習慣」とか「慣習」という意味になります。言わば、いつもやっていることで、やることが習慣化したもの。
語学の勉強なんかそうですね。少しで良いので、毎日毎日少しずつ学んでいく。それが積み重なって、一年あるいは数年たつと何となく進歩が分かるようになる。むしろ難しいのは、変化がゆっくりなので、日々の進歩が実感できないのに、たゆまず続けていく、という動機をどうやって持ったら良いのか、ということです。
よく「強い意志を持つ」と言いますが、「意志」はあまり信用できない。そもそも何かしようという意志をどうやって持ったら良いのか? 意志で何かしようという意志が持てたとして、何かしようという意志を持とうとする意志をどうやって持ったらいいのか? さらに何かしようという意志を持とうとする意志を持とうとする意志を…これではどこまで行っても最初が見つけられません。
経験的に言うと、人間の行動なんて、意志を持つぐらいでどうにかなるものではない。むしろ、自分を騙して気分が乗るような工夫をする必要がある。それをどうやって見つけたらいいか?
一番良いのは、外部に「学びに誘導する環境」を用意することにあります。気分が乗ろうが乗るまいが、とにかくやらなければならない。自分では、そこに参加しようという最小限の意志さえ持てば良い。やることはほんの少しで簡単にする。後は、周囲がいろいろ提供してくれることに乗れば、その内、自然に気分が乗ってくる。それが連続してくれば、勉強がハビトゥス化するわけです。
この頃の語学勉強アプリなどでは、その辺りが上手く出来ています。たとえばDuoLingoなどというアプリは、毎日「今日もやろうね」とメッセージを送ってくる。「しようがないな、やるか」と練習を始めて五分ほどやっているとすぐ一生懸命になっている自分に気づきます。人間の気分なんか当てにならないものだな、と実感します。
あるいは、健康管理アプリでは、一日の歩行数を設定して、それが達成されたかどうか、知らせてくれる。時々「よくやったね」と銀色のバッジをくれます。バッジに何の価値があるわけでもないけど、それを目安として、明日も歩こうかな、という気になります。時々の達成感をかたちにしてくれることに意義があるわけです。
8月初めから、ボカボでは恒例の「2025法科大学院小論文 夏のセミナー」が始まります。ただ、今年はトランプ政権がムチャをやるせいで民心不安定なためか、何となく出足が鈍い。私のかつての予備校時代の同僚も、今年から仕事を離れたという人も多いようでした。私の教え子で予備校講師になった若い人でさえ、今年から大学受験指導は止めて、他の国家試験対策に転身すると言います。「いったい、受験生はどこに行ってしまったのだろう?」と言っています。
若い人々のライフコースに大きな変化が生じている気がします。かつてなら「日本の大学受験は第二の誕生」などと教育社会学のテーゼがあったのですが、決定的な性格は薄くなったように思います。むしろ、大学院とか生涯教育とか、様々な転轍のチャンスがずっと続いていく、構造になっている。だから、勉強も、あるとき集中してやるのではなく、さまざまな機会を捉えて、つねに自分をプラッシュアップする形になりつつあります。
このあり方では、なかなか集中して勉強できない、という悩みが大きくなります。集中しようとしても思うとおり行かない。その内、トランプがまた変な政策を打ち出す。こんなに世界がメチャクチャなのに「はたして勉強など続ける意味があるのか」と悩むのも無理からぬことかもしれません。
これでは、なかなか勉強は始められない。いくら、本を読もうと思っても、その気力が出ない。こういう場合は、とにかく進められるように環境から変えることが大切です。「夏のセミナー」では、否が応でも10回程度の提出をしなければなりません。とりあえず目の前の課題に取り組んでみる。すると、自然に色々なことを考える。その過程自体が勉強になっているのです。
書いた文章も「ここがダメ」「ここがよく書けている」と明確な評価となって返ってくる。その評価に納得するかどうか、は別問題ですが、客観的な評価はこういうものだ、ということを見せられることで、自分の書いた手応えが分かる。それが「夏のセミナー」のもたらす経験です。
毎回、このセミナーの受講者から、有名法科大学院への合格者が出ているのも、こういうハビトゥスを作るシステムになっているからだと思っています。法科大学院を目指す方、ぜひ来てみて下さい。きっと得るところが多いと思います。