2011年3月10日木曜日

小室直樹と原理主義な日本

3月6日の日曜日、東工大で行われた「小室直樹博士記念シンポジウム」に出席しました。小室直樹は前にも書いたことがあるけど、在野の社会学者・政治学者。私は30年ほど前に、彼の東大における有名なゼミ「小室ゼミ」にいました。受講者は多士済々。リーダーは日本を代表する理論社会学者の橋爪大三郎。他にも宮台真司、山田弘など、日本社会学のbest and brightestが集まっていた。私も、その末席に連なっていたわけ。

写真は東工大の庭に咲いていた満開の紅梅

シンポジウムはなかなか面白かったですよ。とくに、午後のリアル・ポリティクスの話題は大いに盛り上がった。その焦点となったのが、政治評論家の副島隆彦と民主党の渡辺恒三でしょう。副島のスタイルは独特です。「宮台君の言葉は何を言っているのかまったく分からん!」。放言すれすれのきわどいところを突きながら、鋭い問題提起や的確な人物評になる。会場の若い人はびっくりしたでしょうね。

個人的に付き合うと、彼は実に礼儀正しい。ものごとをちゃんと考える。それを形にするエネルギーと確信がある。でも、日本社会の中ではなかなか評価されない。私は、知り合いの編集者に「副島はすごいから、君の所で本を書かせろ」と言ったのだけど「ああいう傲慢なタイプは嫌いだ」とすげなかった。しかし、結果として、彼は自力で自分の道を切り開き、独自のスタイルを持った。空気ばかり読んでいる日本社会には入りきらないスケールがある一人ですね。

しかも、それをフェアに評価する橋爪さんもお見事。「はじめて副島さんが小室ゼミに来たときには、何だこの人はと思った。その感じは今でも変わりません。でも、少なくともこの人にはインスピレーションがある。他の人とちがうことを言う。だから様子を見ることにしたんです…」。このバランス感覚と幅の広さも、やっぱり日本の枠をはみ出している。宮台真司と副島隆彦と渡辺恒三という水と油というか、ビヒモスとリヴァイアサンとフランケンシュタインのような三人組をコントロールしてまとめていく。

でも、この自由でスケールの大きい雰囲気が70年代なんだよな。さまざまな人が勝手なことを言い、談論風発。なかにはとんでもないものもあるけど、それを許容しつつ、フェアに合意できることを探っていく。橋爪さんは、ずーっとそういう役を引き受けている人だ。

他方、午前中の議論では、長年の疑問が晴れたような気分でした。私は、小室先生の学問的情熱と見識の深さには大きな感銘を受けていたけど、彼が擁護していたT.パーソンズの理論「構造―機能分析」は包括的すぎて、さほど魅力を感じず、結局社会学の大学院に進むという気もなくなってしまった。でも、午前の報告を聞くと、その「構造―機能分析」が成り立たなかったことが、小室先生の前で私と同世代のゼミ生志田さん(現横浜国立大教授)が証明したんだという。私が直感的に感じたことが、数学的に証明されたらしい。それを粛々と受け入れた小室先生も偉いと思う。

だけど、一番印象的だったのは、シンポジウム冒頭の橋爪さんの熱烈な口調。「小室先生の主張なさったことが、もっと受け入れられていたら、今の日本社会はこんな風にはならなかったはずです!」

たしかに、そうかもしれない。小室さんは、政治と道徳を峻別する近代主義者だった。政治家の能力とは経世済民、つまり国民に繁栄をもたらすことだ。そのためには、多少のダーティさは許容すべきだし必要であると、マキャベリの『君主論』を引いて主張したのです。だから、政治家田中角栄を擁護し「タナカを起訴した検察官を吊せ!」と怒鳴った。

この間、前原外務大臣も政治献金の問題で辞任した。私は、彼を政治家として好きではないので、別にどうでもいいようなものだが、しかし一般論としては、この騒ぎはまったくクレージー。外国人から献金を受けてはならないというが、杓子定規に振りかざすのはむしろ法の理念をねじ曲げている。理由は小室先生の田中擁護と同じ。

そもそも外国人とは言っても、日本には何万人も「在日外国人」がおり、日本人と変わりなく暮らしている。その人たちが自分達の味方をしてくれる政治家を応援することが禁じられたら、彼らの利益は誰が代弁するのでしょうか? 彼らはほとんど日本で生計を立て、そのすべてが「外国のスパイ」というわけではない。外務大臣として、日本の国益を犠牲にして、外国の利益を図ったという明白な証拠があるならともかく、「外相としての責任を問う」とは、あまりにもバランスを失した非難でしょうね。

自民党をはじめとする野党は、これで在日外国人の支持を大きく失ったと思う。グローバル化の時代、排外的姿勢を強調することは結局衰退を招く。欧米の新聞・雑誌も「わずかな献金で辞任するのは日本政治の異常性を表す」と口を揃えて言っている。経世済民をそっちのけで足の引っ張り合いをするのは、政治ではなく病的行動にすぎない。「政治家のダーティさに敏感すぎる国民は民度が低い」のです。

とはいっても、日本はますますこの方向に走っていくでしょう。大きな方向・デザインが見つからないので、明示された細かな規則以外に合意できるものがない状態になっているからです。「法律に書いてあるから」と極端な行動をするのは、「コーランにあるから」と女性にブルカをかぶらせるタリバンや、「聖書にあるから」と輸血を拒否する「キリスト教原理主義」と何も変わらない。

アノミーが極まるとき、極端な原理主義が民意を掴むのは、どこの社会も同じ。しかし、その末路は社会の分断と壊滅です。「聖典」への帰依という社会的ヒステリーを超えて、個人がそれぞれの正常な判断力を取り戻せるか、日本も岐路に立っているのかも知れない。そんな危機意識を思い出させてくれるシンポジウムでした。東工大の会場には中年に混ざり若い人も多く、参加者の顔つきが真剣で知的だったことが、特に印象的でした。

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