言葉が大事だとはいろいろな人が言う。論理の大切さもしばしば強調される。しかし、具体的な方法論にはなかなかお目にかかれない。論理が大切だという人が、必ずしも論理的だとは限らない。言葉を尊重せよと言う人の言葉は大抵美しくない。
たとえば、猪瀬直樹の『言葉の力』。twitterで褒め言葉がやたらと送られてくるので一応目を通した。言葉の力が落ちているから何とかせねば、という趣旨は文句ないのだが、その中身は、今どきの若者はタテの関係に弱いから理解力がない。あるいは、フィンランドの教育は素晴らしい。俳句も短歌も伝統的な文章技能だから盛んにしよう。…どれもこれもどこかで聞いたようなステレオタイプの話になっている。後半は、政治談義と官僚批判、それに自分が都政でやったことの自慢話が主。
これのどこが、言葉の力を伸ばす「言語技術」なのだろうか? そもそも俳句も短歌も現在、大流行しているのだから、日本の言葉は安泰のはずでは?……こんな風に「言葉」や「論理」に対する言説には、曖昧な話が少なくない。実質的に「言葉の力を上げる」ことを目指すなら、自分なりに実証した方法の一つぐらい開陳すべきだと思うのだけど、そういう本にはめったにお目にかからないのだ。そういえば、猪瀬は前にも『小論文の書き方』という本を出しているけど、これは「書き方」についてまったく書いていないというチョー荒技を使っている。
話は違うが、この間、私はある仕事のオファーを受けた。全国規模の「論理能力テスト」をやりたいから手伝ってくれないかというのだ。問題作成者を聞いてみたら、ある予備校で教えていらした有名先生。問題はかなりのレベルだし、これはまともかも知れないと、期待して話を聞いてみたら、「私が理事長です」と出てきた人がどうもなじめない。
自分のことを「投資バンク」をやってきた「国際ビジネスマン」で海外のMBAを出たと言いながら、外国に住んだことはあまりないと口走り、投資で小金をもうけたと言いながら、問題はしばらく無料で作れと言い、将来のリターンは保証すると言いながら、直近のイベントの礼金はなかなか開示しない。どうも理屈がすんなりと流れないのだ。
とくに、問題だと思ったのは、今やっているボカボよりも彼らの仕事を優先しろと、やたらと強調すること。いくら将来のリターンが大きくても、とりあえずのコスト負担もしぶるような態度の人が、一方的に命令するのは理屈に合わない。そのうち、「論理能力テスト」が説明会をやったときに、外人の投資家らしき人もスピーチしたのだが、それを通訳した「理事長」の訳がメチャクチャだったとかいう話も耳にして……結局、我々は参加直前でキャンセル。
こんな風に、教育や言語について声高に主張する人はどっか怪しい感じが漂う。特にブロードな提案をしている人々は、眉に唾を付けて聞いた方がよいと思う。現場の経験を元にして、細かな方法論を営々と積み上げるべきなのに、偉くなった「私」というポジションを利用して、好き勝手なことを吹くのはちょっと見苦しい。
これは、誰でも、教育と言語についての体験があるせいだと思う。自分がしゃべれるから、自分が子供だったときがあるから、一定の発言権があるという気になりやすい。しかし、自分の体験なんて、かなり偏ったものにすぎない。何十年も前の狭い経験を元にして、一般的に教育や言語を批評したり、改革したりすることについては、抑制的であるべきだろう。
そういえば、猪瀬も「言葉の力」についてのテストをやろうとしているとか。都が関係するので、矛盾だらけの組織ではないと思うが、かつて『交通事故鑑定人S氏の事件簿』で、専門家からその知識不足・勉強不足・論理不整合・データの誤魔化しなどをするどく指摘されたノンフィクション作家が「作家の視点から」組織化するのでは、あまり安心できるものとは言いにくいだろう。
後になって気がついたのだが、私の所に来るtwitterで猪瀬本を賞賛する声は、すべて猪瀬自身によるリツイートだった。営業努力の一環だから、やって悪いとは言わないが、彼ほどの有名人がちょっと恥ずかしくはないのかな? 私も真似して新著『東大入試に学ぶロジカルライティング』のリツイートやってみたが(この本では非力ながら、具体的な言語技術の提示をやってみたつもり)、30分ほど恥ずかしさでのたうち回っちゃった。しかも「賛辞」は「『言葉の力』読了」とか「『仕事力』一気に読みました」などと文体も似通っている。大丈夫かこれ? 何だか例の理事長の「国際ビジネスマン」という名乗りと似たような感じがするのだが…
結局、言葉力・論理力を上げるのは、個人が努力する他ないのだが、努力ばかりだとイヤになるから、なるべく楽しくなるように工夫する。とくに論理という性質上、そういう楽しさがなくちゃいけないと思う。説教口調を取るのは最もいけない。すぐれた論理・言葉についての本って、権威を振りかざすのではなく、むしろ楽しさを強調するものだと思うんだけどな。
まあ、ボカボは独立独歩。今度の夏も「法科大学院小論文 夏のセミナー」と大学入試用の「夏のプチゼミ」を行います。世に溢れる説教節(エラソーに振る舞いたい人は世に多い)に負けず、ロジックをきちんと通した主張をする楽しさを教えたい。真の議論を学びたい人よ、来たれ! 毎年、これらのセミナーからはたくさんの合格者が出ているから、効果も実証されているしね。今年も、暑く熱い議論の夏になるかもしれないけど、それだけが文章力・思考力を上げる方法と知っているので「やるっきゃない」という心境です。
たとえば、猪瀬直樹の『言葉の力』。twitterで褒め言葉がやたらと送られてくるので一応目を通した。言葉の力が落ちているから何とかせねば、という趣旨は文句ないのだが、その中身は、今どきの若者はタテの関係に弱いから理解力がない。あるいは、フィンランドの教育は素晴らしい。俳句も短歌も伝統的な文章技能だから盛んにしよう。…どれもこれもどこかで聞いたようなステレオタイプの話になっている。後半は、政治談義と官僚批判、それに自分が都政でやったことの自慢話が主。
これのどこが、言葉の力を伸ばす「言語技術」なのだろうか? そもそも俳句も短歌も現在、大流行しているのだから、日本の言葉は安泰のはずでは?……こんな風に「言葉」や「論理」に対する言説には、曖昧な話が少なくない。実質的に「言葉の力を上げる」ことを目指すなら、自分なりに実証した方法の一つぐらい開陳すべきだと思うのだけど、そういう本にはめったにお目にかからないのだ。そういえば、猪瀬は前にも『小論文の書き方』という本を出しているけど、これは「書き方」についてまったく書いていないというチョー荒技を使っている。
話は違うが、この間、私はある仕事のオファーを受けた。全国規模の「論理能力テスト」をやりたいから手伝ってくれないかというのだ。問題作成者を聞いてみたら、ある予備校で教えていらした有名先生。問題はかなりのレベルだし、これはまともかも知れないと、期待して話を聞いてみたら、「私が理事長です」と出てきた人がどうもなじめない。
自分のことを「投資バンク」をやってきた「国際ビジネスマン」で海外のMBAを出たと言いながら、外国に住んだことはあまりないと口走り、投資で小金をもうけたと言いながら、問題はしばらく無料で作れと言い、将来のリターンは保証すると言いながら、直近のイベントの礼金はなかなか開示しない。どうも理屈がすんなりと流れないのだ。
とくに、問題だと思ったのは、今やっているボカボよりも彼らの仕事を優先しろと、やたらと強調すること。いくら将来のリターンが大きくても、とりあえずのコスト負担もしぶるような態度の人が、一方的に命令するのは理屈に合わない。そのうち、「論理能力テスト」が説明会をやったときに、外人の投資家らしき人もスピーチしたのだが、それを通訳した「理事長」の訳がメチャクチャだったとかいう話も耳にして……結局、我々は参加直前でキャンセル。
こんな風に、教育や言語について声高に主張する人はどっか怪しい感じが漂う。特にブロードな提案をしている人々は、眉に唾を付けて聞いた方がよいと思う。現場の経験を元にして、細かな方法論を営々と積み上げるべきなのに、偉くなった「私」というポジションを利用して、好き勝手なことを吹くのはちょっと見苦しい。
これは、誰でも、教育と言語についての体験があるせいだと思う。自分がしゃべれるから、自分が子供だったときがあるから、一定の発言権があるという気になりやすい。しかし、自分の体験なんて、かなり偏ったものにすぎない。何十年も前の狭い経験を元にして、一般的に教育や言語を批評したり、改革したりすることについては、抑制的であるべきだろう。
そういえば、猪瀬も「言葉の力」についてのテストをやろうとしているとか。都が関係するので、矛盾だらけの組織ではないと思うが、かつて『交通事故鑑定人S氏の事件簿』で、専門家からその知識不足・勉強不足・論理不整合・データの誤魔化しなどをするどく指摘されたノンフィクション作家が「作家の視点から」組織化するのでは、あまり安心できるものとは言いにくいだろう。
後になって気がついたのだが、私の所に来るtwitterで猪瀬本を賞賛する声は、すべて猪瀬自身によるリツイートだった。営業努力の一環だから、やって悪いとは言わないが、彼ほどの有名人がちょっと恥ずかしくはないのかな? 私も真似して新著『東大入試に学ぶロジカルライティング』のリツイートやってみたが(この本では非力ながら、具体的な言語技術の提示をやってみたつもり)、30分ほど恥ずかしさでのたうち回っちゃった。しかも「賛辞」は「『言葉の力』読了」とか「『仕事力』一気に読みました」などと文体も似通っている。大丈夫かこれ? 何だか例の理事長の「国際ビジネスマン」という名乗りと似たような感じがするのだが…
結局、言葉力・論理力を上げるのは、個人が努力する他ないのだが、努力ばかりだとイヤになるから、なるべく楽しくなるように工夫する。とくに論理という性質上、そういう楽しさがなくちゃいけないと思う。説教口調を取るのは最もいけない。すぐれた論理・言葉についての本って、権威を振りかざすのではなく、むしろ楽しさを強調するものだと思うんだけどな。
まあ、ボカボは独立独歩。今度の夏も「法科大学院小論文 夏のセミナー」と大学入試用の「夏のプチゼミ」を行います。世に溢れる説教節(エラソーに振る舞いたい人は世に多い)に負けず、ロジックをきちんと通した主張をする楽しさを教えたい。真の議論を学びたい人よ、来たれ! 毎年、これらのセミナーからはたくさんの合格者が出ているから、効果も実証されているしね。今年も、暑く熱い議論の夏になるかもしれないけど、それだけが文章力・思考力を上げる方法と知っているので「やるっきゃない」という心境です。
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