原発の海水注水が55分中断した責任はどこにあるか、ということで日本は大騒ぎになっているらしい。菅総理が指示したから遅れたのだという人あり、指示していないという人あり、専門家のアドバイスに従ったからだという人あり、いや俺はそんなこと言っていないという人あり、実は現場の判断で中断していなかったという人あり、しっちゃかめっちゃかなのである。
今更そんなこと言ったって、現に原発から放射能は漏れているのだし、55分の中断が誰かの責任であることが分かったとして、状況が変わるわけではない。そもそもが原発を推進させてきたのは、今までの国・政府の決定の蓄積なのだし、それを許してきたのは国民の総意。私も、ことあるごとに原発は危険だと言ってきたつもりだが、結局、何の影響も与えられなかった。これでは、同意書名をしていたと同じ。自分だけ被害者面して、責任者は誰だ!と呼ばわるのは、もういい加減に止めた方がよい。
「リスク社会」と言うが、たぶん日本は、黙っていると責任を負わされる社会になっているのだろう。だから、我先に「被害者」の肩を持とうとする。でも、本当に自分は「被害者」の側になっているのか?
自民党の追求がどこか見苦しいのは、過去に自分達が原発を推進するのに荷担していたくせに、急にフクシマの被害者にすり寄ったからだろう。過去の責任を負わされる前に、とりあえず他者を批判する。あわよくば、自分達が「被害者たる国民」の代表になれたら、ともくろむ。でも、それをするには、自分達が原発推進派だった記憶が少し新しすぎやしないか?
前にも取りあげた佐々淳行は、はしなくもホンネを吐いている。「福島第1原発の所長の判断を支持したい。私も警察時代、現場を見ていない上層部から下りてくるむちゃな命令を何度も握りつぶした経験がある。そのまま従うとさらに大変な事態になるためで、今回も処分すべきは所長ではなく、官邸の顔色をうかがって中途半端な指示を出した東京電力の上層部ではないか。それにしても東電の対応は危機管理の体をなしておらず、これほどあきれた組織だとは思わなかった」
つまり、彼の言によれば、日本の組織なんてまったく上意下達ではないのだ。どんなに上層部が判断したって、現場の判断の方が優先する。面従腹背は、命令服従が原則の警察も同じ。警察だって「いい加減な組織」なのだ。こういう有様なのだから、日本の権力組織はだいたい同じだろう。総理が何を言おうが、東電幹部が何を言おうが、やるべきことは現場の判断でやる。でも、もし現場が上層部の命令を「握りつぶす」組織なら、上層部の責任を追求することに何の意味があろうか?
いったい、佐々はどっちがいいのだろうか? 上意下達の権力的組織なのか、現場の判断を尊重する弾力的(つまり「いい加減な」)組織なのか。後者を是とするなら、上層部の命令に従わなかった現場責任者がいる組織は、むしろ素晴らしい組織になる。実際、自らがいた組織もそうだったと豪語している。それを「これほどあきれた組織だとは」と言ったら、現場責任者を罰しなくてはならない。天に唾するとはこのことである。
あれを叩き、これを批判しているうちに、いつの間にか自分をもぐら叩きしてしまうわけだ。本人はもう少し首尾一貫したことを言ったつもりかもしれないけど、こういう状況は普通「支離滅裂」と言われる。しかし、それに気づかないで「東電批判」を続けてしまう。けっこう論理的に素朴な人なのかも。でも、理屈の支離滅裂さに気づかないまま、平気で掲載するS新聞も相当なものである。
これを見ると、日本のコメンテイターやメディアの論理力、国語力はたしかに低い。ある評論家が言ったように、「今回の原発事故で一番感じたのが、この国の政治家や科学者や技術者の日本語の表現が下手すぎる」こと。ただ、そのために「国語教育を全面的に改革」して「書く教育」にシフトする必要があるとまで言われると、ちょっとね。さすがに、危機対応の失敗は国語教育のせいじゃないだろう。
まあ、でも、この改革は昔からボカボでも言っていたし、本当にやってくれるのなら、大歓迎なんだけどね。嘆くだけでなく、実行可能なヴィジョンも提示してもらいたいね。
今更そんなこと言ったって、現に原発から放射能は漏れているのだし、55分の中断が誰かの責任であることが分かったとして、状況が変わるわけではない。そもそもが原発を推進させてきたのは、今までの国・政府の決定の蓄積なのだし、それを許してきたのは国民の総意。私も、ことあるごとに原発は危険だと言ってきたつもりだが、結局、何の影響も与えられなかった。これでは、同意書名をしていたと同じ。自分だけ被害者面して、責任者は誰だ!と呼ばわるのは、もういい加減に止めた方がよい。
「リスク社会」と言うが、たぶん日本は、黙っていると責任を負わされる社会になっているのだろう。だから、我先に「被害者」の肩を持とうとする。でも、本当に自分は「被害者」の側になっているのか?
自民党の追求がどこか見苦しいのは、過去に自分達が原発を推進するのに荷担していたくせに、急にフクシマの被害者にすり寄ったからだろう。過去の責任を負わされる前に、とりあえず他者を批判する。あわよくば、自分達が「被害者たる国民」の代表になれたら、ともくろむ。でも、それをするには、自分達が原発推進派だった記憶が少し新しすぎやしないか?
前にも取りあげた佐々淳行は、はしなくもホンネを吐いている。「福島第1原発の所長の判断を支持したい。私も警察時代、現場を見ていない上層部から下りてくるむちゃな命令を何度も握りつぶした経験がある。そのまま従うとさらに大変な事態になるためで、今回も処分すべきは所長ではなく、官邸の顔色をうかがって中途半端な指示を出した東京電力の上層部ではないか。それにしても東電の対応は危機管理の体をなしておらず、これほどあきれた組織だとは思わなかった」
つまり、彼の言によれば、日本の組織なんてまったく上意下達ではないのだ。どんなに上層部が判断したって、現場の判断の方が優先する。面従腹背は、命令服従が原則の警察も同じ。警察だって「いい加減な組織」なのだ。こういう有様なのだから、日本の権力組織はだいたい同じだろう。総理が何を言おうが、東電幹部が何を言おうが、やるべきことは現場の判断でやる。でも、もし現場が上層部の命令を「握りつぶす」組織なら、上層部の責任を追求することに何の意味があろうか?
いったい、佐々はどっちがいいのだろうか? 上意下達の権力的組織なのか、現場の判断を尊重する弾力的(つまり「いい加減な」)組織なのか。後者を是とするなら、上層部の命令に従わなかった現場責任者がいる組織は、むしろ素晴らしい組織になる。実際、自らがいた組織もそうだったと豪語している。それを「これほどあきれた組織だとは」と言ったら、現場責任者を罰しなくてはならない。天に唾するとはこのことである。
あれを叩き、これを批判しているうちに、いつの間にか自分をもぐら叩きしてしまうわけだ。本人はもう少し首尾一貫したことを言ったつもりかもしれないけど、こういう状況は普通「支離滅裂」と言われる。しかし、それに気づかないで「東電批判」を続けてしまう。けっこう論理的に素朴な人なのかも。でも、理屈の支離滅裂さに気づかないまま、平気で掲載するS新聞も相当なものである。
これを見ると、日本のコメンテイターやメディアの論理力、国語力はたしかに低い。ある評論家が言ったように、「今回の原発事故で一番感じたのが、この国の政治家や科学者や技術者の日本語の表現が下手すぎる」こと。ただ、そのために「国語教育を全面的に改革」して「書く教育」にシフトする必要があるとまで言われると、ちょっとね。さすがに、危機対応の失敗は国語教育のせいじゃないだろう。
まあ、でも、この改革は昔からボカボでも言っていたし、本当にやってくれるのなら、大歓迎なんだけどね。嘆くだけでなく、実行可能なヴィジョンも提示してもらいたいね。
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