2011年9月17日土曜日

次々と合格者が…

クラスをしばし小休止している間に「夏のセミナー」の受講者たちから、次々と合格速報が来ました。中央大学法科大学院、早稲田大学法科大学院、龍谷大学法科大学院、明治大学法科大学院エトセトラエトセトラ。いろいろあって、すべて発表できないのが残念。うーむ、今年も悪くない。どころか、かなり良い成績です。

そんなことを思っていたら「司法試験合格しました」というメールもやって来ました。明治大学法科大学院の卒業生。彼女はWEB講座を受講していたけど、自他ともに認める適性試験成績不振組。でも明治大学法科大学院の社会人枠(未修)なら「適性試験の点数より、提出書類・小論文を重視する」というので、何とか完璧な提出書類・小論文を書きたいというので、ボカボに来たのです。

ご存知のように、ボカボの添削では、文章を書いてあげるなんて不届きなことはしません。しかし、受講者自身が書いた文章をじっくりと読み、そのどこが不十分か、どこに可能性があるか見極め、「ここの部分を再考したらどうか?」とアドバイスする。

これは我々の文章観に基づくものです。文章は自己表現ではない。むしろ、文章は対話です。自分の言ったこと「…は…です」という主張に対して、周囲から「なぜ、そうなのか?」「くわしく言うと、どうなるか?」「具体的には、何があるか?」などのツッコミが出てくる。それに対して「なぜなら、…からです」「詳しく言うと、…です」「たとえば、…です」と応答していく。そうすると、自分の言った主張に対して、根拠を出すことになる。これは論理的文章の構造と一致するのです。

これは、志望理由書などでも同じこと。「自分は…をやりたい」と志望を書く。すると、「なぜ、そうなのか?」「くわしく言うと、どうなるか?」「具体的には、何があるか?」などのツッコミが出てくる。それに自分の体験を絡めて、丁寧に答えていけばいい。そうすれば、自ずと「分かりやすい文章になる」のです。

「君はなぜ法曹になりたいのか?」自分のやりたいことの根本を巡って対話するのが志望理由書。「この(社会)問題に対して、君はどう判断するのか?」を書くのが小論文。どちらも同じ種類の文章なのだけど、日本人はこういう対話が苦手ですね。個人攻撃かとうろたえて、しどろもどろになったり、逆ギレしたり、つっこまれても冷静に対話をしていくスキルに欠けている。小学校以来の訓練が欠けているとしか思えない。

その訓練を徹底的にやるのがボカボ方式。最初のドラフトを出すと赤字だらけになって返ってくる。「問題意識が不明確」「意味不明の表現」「論理がつながっていない」「体験との結びつきが弱い」「結論がいい加減」。指摘することは山のようにあります。

そもそも現代の若い人(という言い方はやや一般的に過ぎますが…)は、気がやさしくて、他の人の気持ちを思いやることでは、年上世代よりずっとすぐれています。(私に言わせると、バブル世代・高齢者の方が身勝手)。それだけに、周囲で「よい言葉」として流通するステレオタイプの表現をそのまま使うという行動に慣れすぎて、自分の意志を表明する言葉が使えない。

それを具体的に指摘されることで「え、こんなに自分は言葉をいい加減に使っていたのか?」とはじめて自覚する。それから「自分なりの言葉を見つける」までが大変です。何せ、今までそういう風に言葉を使っていなかったのですから。結構苦しむわけ。おそらく生涯ではじめて、そういう言葉遣いにぶつかる。何回も提出し「ここがまだダメ」と指摘され「それではどんな表現がよりよいか?」と自分の語彙の中をさまよって悩む。

こういう体験を通して、はじめて「自分が何を望んでいたか?」に到達するのです。だから、志望理由書のドラフトが完成した暁には「これこそ自分の言いたかったことだ!」とほとんどが達成感に浸る。いわば、ボカボは言葉の誕生を助ける産婆役なわけです。

上述の彼女は、そのプロセスに見事に耐えた。時間もなかったので、次々にドラフトや答案が送られてくる。それを次々に添削して返す。すると、さらにそれを書き直して…。5回も繰り返すと、見違えるほどよくなる。本人は、最後まで不安だったようだけど、力は自然に付いてくる。

きっと、ここでやったことはロースクールに行っても役だったのではないかな、と思います。「何もかも、全ては吉岡先生のステートメント添削で法科大学院に合格できたことから始まっているので、感謝の気持ちでいっぱいです。これから修習に行って、小六からの夢だった弁護士になります」

いやあ、これからも大変でしょうけど、この人ならきっと出来る、と私は思います。頑張ってね。日本は、放射能でバタバタしているけど、その中でも一つずつ積み重ねたことは、必ず成果になっている。そういうものです。

さて、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」が始まります。夏の私立がイマイチだった人、来年名門を受験したい人、どちらもぜひ来てみてください。きっと「目から鱗」の連続だと思う。自分の不明にまず気づく。それがすべての始まりです。来年受験の人は「法科大学院 適性試験 Start Up!」もお勧め。

2011年9月2日金曜日

アパシーとアクティヴィティ

八月は残酷な季節だ。くそ暑い中で体はゆったりと休息を求めているのに、いつもと同じかそれ以上の活動を求められる。その結果、気がついたら「気力減退」と「原稿遅滞」のダブルパンチに見舞われる。気ばかり焦っても、全然物事は1ミリも先に進まない。そのうち「プチ過労死」状態(つまりは「夏バテ」にすぎないが…)になる。

実際、油断していたら、八月は一回しかBLOGを書いていなかった。とにかく書く気が起きない。「夏のプチゼミ」「夏のセミナー」と週3回はクラスがある。その準備と添削・個別コーチングなどで時間を取られる。当然、原稿は出来ないから苛々。でも、どうにもならない。自分を責めて疲れる。そういう繰り返しだ。

「夏バテ」なのは、世間も同じ。ニュースを見てもろくなことがない。連日、原発関係か民主党総裁選挙のオンパレードだった。正直言って飽きる。とくに原発関係は何度も見ていると、「ベクレル」「シーベルト」という言葉に慣れっこになってしまう。「100ミリベクレル? それがどうした?」てなものである。知らなくても、自分が生きている限りは関係ない。そんなアパシー状態というか妙なエア・ポケットに落ち込んでいる。

そういえば、芥川龍之介に関東大震災後を描いた短編があった。横浜に用があって行った。瓦礫が残った住宅街。ピアノが半分埋もれて放置してある。鍵盤が露出している。そばには栗の木が一本立っている。「全体、これでも鳴るのかしら?」とそばを通り過ぎると、突然ポーンと音がする。いったい誰が弾いたのか、幽霊を疑って一瞬ゾッとして振り返る。そのとき、またポーンとピアノの音。そばの栗の木から実が落ちて鍵盤に当たった…なーんだ…。静かな昼下がりの風景なのか、そんな感じ。

それに対して、今から思い出すと、地震・津波・原発事故の一連の流れは、精神が異様にしゃっきりする出来事だった。毎日耳目を集める出来事が次々と起こり、自分の知力・気力を振り絞って考え、行動すべきことがいろいろあった。心身共にパセティックな状況に充ち満ちていた。ある意味で幸福な状態だったかも知れない。

たとえば、ボカボのある講師の弟さんは長年引きこもり状態だったのが、久しぶりに3.11直前にバイトに行った先の24時間営業のソバ屋で、地震にあったそうだ。ちょうどその時店長の奥さんが流産しかけ。心配する店長をとりあえず帰し、そこから彼はたった一人で72時間の間ソバを作り続けたらしい。頑張り続けた結果「やれば出来るんだ」とすっかり自信を取り戻し、今や完全に社会復帰しているとか。

実際『災害ユートピア』という本では、災害が起こると普通の市民が驚くべき力を発揮するという。よく言われる暴動や掠奪などほとんど起こらない。むしろ、人間たちは結束して、目の前にある危機を乗り越えようとする。それを壊すのは、社会のエリート層。彼らは、既存の社会秩序から過大な利益を得ているから、心理的にも「秩序」に執着する。そこで、過剰な警備態勢をしいて、既存の秩序が組み替えられるのを阻止しようと、かえって混乱を引き起こすのだとか。

災害は必ずしも悪いことばかりではない。人々は、危機に瀕して自分が出来ることをし、それが社会を目に見えて良くし、そこから勇気をもらって、また自信を深める。自分と関係ないところで、社会が回っている/自分がいてもいなくても何も変わらない。そういう以前の状態から、自分がいることが周囲に直接的な影響を与えられるという感覚を持てる。さらに、人間の姿もくっきりと見えてくる。佐賀県知事とか玄海町長とか、プロレスの試合のように、典型的な「ヒール」たちが見えてくる。無色だった社会に、突然色がつけられ、登場人物たちが飛び出し、生き生きと動き出す。

こういう状況はtwitterに向いている。自分が考えた一寸したことを発信する。それに反応がある。その繰り返しが一種の高揚感を生んでいた。だから、私も結構熱心にtwitterをやっていた。でも、それも一段落した感がある。騒いでも変わらないことは変わらない。出来ることと出来ないことが見えてくる。出来ないことはあきらめるほかないし、出来ることは少しずつ続けないと成就しない。いずれにしても、この状況は数十年の間続く。そのタイムスパンが見えてきたのが、原因なのかもしれない。その雰囲気が秋の始まりと重なる。ちょっと落ち着いてBLOGを書こうかな、と思ったのも、こういう気分と対応している。

そういえば、チェルノブイリは、今動物の楽園になっているとか。人間がいなくなったから、鹿や野生の馬が住み、ツバメが巣を作る。「環境論者」が聞いたら、天国のような生物多様性が実現している。フクシマ原発の近くももう人は住まない/住めないから、鹿やツキノワグマや狐のサンクチュアリになるだろう。近くの酪農家から逃げ出した牛も野生化する。大型の草食動物が増えるので、オオカミでも輸入して放したら、理想的な「持続可能な自然環境」が出来上がるだろう。

結局、物事も起こって時間が経つと、生物学的・生態学的に可能なところに落ち着いてくる。ダメージを受けてもそれなりに生きていく生き物。我々もその一員に過ぎないのかも知れない。それもまた、また違う自然の残酷さなのかもしれないが…。

さて、ボカボは九月の間はWEBや個別コーチングだけです。夏の間に起こったことをしっかりと心の中に定着させる時間かもしれませんね。10月からはまた「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」を始め、「法科大学院 適性試験 Start Up!」など、さらなる飛躍のためのさまざまな準備をします。乞うご期待。

2011年8月9日火曜日

大変さの中で平常心を保つ

3月の地震以来、ボカボでも法科大学院志望者が例年よりやや減っていたのですが、結局「夏のセミナー」は去年以上の集まりになりました。もう第二週目になりますが、出席者が熱心なためか、毎回楽しく議論しています。あまり楽しかったためか、ブログの更新が滞ってしまいました。ごめんなさい。

こういう傾向は、東日本の震災から始まって、中国の高速鉄道事故、アメリカの国債引き下げ、イギリスの暴動など、今年は世界的にひどい状況が続いていますが、そんなことにいちいち振り回されていても仕方がない、腰を据えてじっくり自分の力を引き上げるしかないのだ、という気持ちの表れなのでしょうか? そういう風に感じられるだけ、神保町のボカボの周囲は落ち着いている。勉強に精進する中で、一種「護られた空間」になっているのかもしれません。

でも、怯える人は世の中の情報に煽られ、安心感がどうしても得られないらしい。この間も、京都の大文字焼きで陸前高田の松林の薪を燃やそうとしたら「放射能が危ないんじゃないか」とクレームが出て、やめたとか。それをあるコラムニストが批判したら「放射能の専門家でもない人間が何を言う。心配するのは当然だ。それを分からないのは最大のバカ」という罵倒twitterが来たとか。すごいね。

陸前高田といえば、仙台よりはるかにフクシマからは遠い。たとえ放射能があったとしても、東京と同じくらいか、それ以下でしょう。しかも、薪は、放射線の計測をしてO.K.ということは分かっているのに、なお「心配するのは当然だ」と言いつのる。きっとクレーマーたちは陸前高田とフクシマの位置関係も知らないのだろう。「最大のバカ」はどっちだと言いたい。

これでフクシマの小学生が京都に転校してきたら、どんな扱いを受けるのか、ちょっと怖い感じがします。差別されたり、いじめられたり、しかねないのでは? 昔から差別がキツイところらしいから、かなり心配。原発事故の後、福島県民の「疎開」を唱えた人もいるようだが、この結果を見ると、放射能より「疎開」が与える精神的トラウマの方が大きいかもしれない。まあ、京都の人のほとんどはまともだろうから、そんなことにはならないと思うけど。

しかも、もっともがっかりさせられるのは、この決定が宗教者によって行われたことだ。五山の送り火はそもそも死者の霊を送る宗教行事。宗教者ならば、非業の死をとげた者を回向するのが役割のはず。こういう国難の時こそ、犠牲者を弔う役割を持つ。ところが、来世より現世のクレーマーの声ばかりを慮るというのでは、宗教者としてどうなのかな? クレーマーが数十人出てくるのは仕方ないにせよ、そういう低脳(⁈)たちを説得する言葉さえ持たないようでは、どんな立派な寺院を持っていようが「宗教の力」なんてなきに等しい。リーダーシップに欠けているのは、政治・経済の世界だけじゃないね。日本のあらゆる分野がそうなのかもしれない。

こういうグチャグチャの状況の中でこそ、原則を確認し、優先順位を立てておかなければ、しっかりと世の流れを見極めなければならない。そうでないと、声の大きい「バカ」たちがあちこちでのさばって、排除と非寛容のムードがはびこる。3.11の後の情報混乱の中で、その必要を痛感した若い人々が確実にいるようです。だから、ボカボの講座のようなところも盛況になってきたのだと私は思うのです。世の危機に右往左往していても展望はありません。自分の考える力をまず上げる以外に、先を見通すことは出来ない。そういう地味な作業に立ち返っていくべきだと思うのです。

そういえば、世の条理を正す方法を解説した『東大入試に学ぶロジカルライティング』もはやばやと重版。これから三刷を目指します。といっても、書き終わってしまった著者は今更頑張りようもないのですけどね。真面目に読んでいただければ、これからの日本及び未来に対するヒントがきっと見つかるはず。読んだ方々はアマゾンにでも書評を送ってくださいね。

この暑い夏が終わったら、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow up!」「法科大学院 適性試験 Start up!」が始まります。前者は来年の受験に役立つだけでなく、今年の国公立を目指したい方にもおすすめです。

2011年7月17日日曜日

暑い夏のロジカルシンキング

現今の「政治の混乱」を見ていると、マスコミを初めとして「議論力」「論理的思考力」がまったく欠如しているのを感じる。たとえば、菅首相の「辞任表明」にしたって、私はTVを逐一見ていたけど、まったく「辞める」とは言っていない。むしろ、ロジカルに考えれば、問題が片付くまでは「辞めない」と受け取れる。もちろん、菅はそのつもりで意識的にダブル・ミーニングを利用しているんだけど。

その構造を見抜けないで、マスコミは「退陣表明」と一方的なテロップをつける。要約力に欠けているとしか思えない。尻馬に乗って、民主党の野心を持った政治家(そもそも野心を持たない政治家は政治家ではないけどね)が「いつ辞めるんだ、七月か八月か」と騒ぎだす。菅は当然辞任時期を明らかにしない。するとマスコミが鳩山に「菅さんが辞めないって言っているけど」と追求する。鳩山も「菅は嘘つきだ」と言わざるを得ない。事態収拾してバランスを保つ会談のはずが、強引に政局にねじ曲げられる。

こういうマスコミのマッチポンプ的な態度は、一貫している。すでに、ネット上でもいろいろ取りあげられているが、次の報道を見れば「マスコミのねじ曲げ」がどのように起こっているのか、一目瞭然だ。

●脱・原発依存」を表明 首相(東京新聞)
菅直人首相は十三日夕、官邸で記者会見し、今後のエネルギー政策について「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べ、深刻な被害をもたらした福島第一原発事故を踏まえ、長期的には原発のない社会を目指す考えを表明した。
首相は事故後、原子力の活用を中心にした現在のエネルギー基本計画の見直しには言及してきたが、「脱原発」に転換する方針を初めて打ち出した。「原発に依存しない社会を目指すべきだと考え、計画的、段階的に原発依存度を下げる」と指摘したが、時期など具体的な目標は「中長期的展望に基づいて議論し固めていきたい」と述べるにとどめた。

「脱原発」宣言…電力供給確保の根拠もなく(読売新聞)
菅首相が13日の記者会見で、将来的な「脱原発」を表明したのは、自らがエネルギー政策の見直しという歴史的な転換に着手することで、首相としての実績を作る狙いがあったと見られる。

ただ、原子力発電所に全く依存しない社会を作るための道筋や十分な電力供給が確保できる根拠は示されず、閣内で十分に議論された形跡もない。場当たり的ともいえる対応に、実現性を疑問視する声も多い。●●

東京新聞の方は、首相発言をそのまま報道しているのに、読売の方は「実績を作る狙い」という憶測や「場当たり的」という評価、さらに「疑問視する」という批判まで満艦飾。だが、肝腎の、いったい誰がこういう憶測・評価・批判をしているのか、まったく書いていない。評価の根拠は「閣内で十分議論された形跡もない」とあり、誰か閣内の人の伝聞なのだろうが、そのソースは示されない。こんなあやふやな根拠で首相の発言を否定してよいのか?

たしかに、大問題の場合は、意見や方向が対立するのは仕方がない。今までのエネルギー政策の方向を変えるというのだから、反対意見を言っても構わないだろう。閣内にだって反対者は少なくないかも。しかし、いやしくも批判・否定するなら、それが誰の意見・主張なのか、せめて明示すべきではないだろうか? それをしないで、むやみと「否定的言辞」を暗闇から貼り付けて、信頼性を既存しようというのは、いささか卑劣すぎる。

こういうレッテルづけが「辞めるといった首相が何を言っても聴かない」という問答無用の態度をひろめているとしたら、由々しきことだ。そういう「空気」を利用して「脱原発なんてよい方向と思うけど、同じことを野田が言うなら、全然違う」(自民党議員の言葉)という発言まで出てきた。内容ではなく、人の好き嫌いで評価を決めるのか? 

まあ、セイジ大好きオヤジたちが、伝聞情報で「誰が次の総理になるか」と昂奮し「祭り状態」になっていると考えれば不思議はないのだけど……それにしてもバカというか低レベルというか。ボカボの講座に出席したら、ボコボコに批判されるのは必定だね。

ところで話は変わるけど、かつての受講者から、以下のようなメールをもらった。

●ご無沙汰しております。
吉岡先生が私のことをまだ覚えてて下さるとよいのですが、5年ほど前に法科大学院の入試の際、小論文の添削でお世話になりました。その後、K法科大学院の未修コースに進み、無事に司法試験に合格し、現在弁護士として働いております。
 
司法修習中、文章が読みやすいと褒めていただくことがあったのですが、あのとき吉岡先生の指導のおかげだと思っております。 文章力の基礎、ひいてはリーガルマインドの土台を築いて下さり、本当にありがとうございました。●●

もちろん覚えていますよ。WEB上の添削のやり取りだけだけど、彼女の文章のいくつかも「ああ、あれか」と見当が付く。司法試験に合格して弁護士になっていたとは。おめでとうございます!これに限らず、この頃思いがけず、はじめて会った人から「お世話になりました」と声をかけられることがある。小室先生を偲ぶパーティでも,若い弁護士の方からいわれてびっくり。たしかにボカボももう10年以上やっているので、そういう人が出てきても不思議ではないけど、実際に言われてみると感慨もひとしお。

とくに「リーガルマインドの土台」と言われるのは、ホントにうれしい。まじめな国民性なのか、日本では、問題に立ち向かうときに、つい知識を増すというsolutionを取りがちだ。「これが解けないのは、知識が足りないためだ」と思いたがる。そういう場合もあるけど、実際にその問題を解くための知識がこの世に存在しない場合も少なくない。というより、正解に至る定型的知識が存在していないから「大問題」になる。

でも「リーガルマインド」とは、そういうことではない。次のようなcreativeなスキルだと思う。

(1)問題に定型的な解決法がなくても動揺しない
(2)今まで培った教養・知識を枠組みとして新たな解決を模索する
(3)論理的構造と情報のソースを明示する
(4)空気を左右するのではなく、正々堂々と周囲からの納得を得る

それは、まだ道が切り開かれていない山にはいるようなものです。とりあえず、手持ちのナイフやザイルなどを使って、道なき道を切り開いて目の前に展望を開く「修羅場での工夫」が重要になる。公式で解ける問題にばかり熱中していると、この能力が衰退する。では、どうするか? 修羅場のシミュレーションをしておくしかない。見果てぬ正解を希求するのではなく、手持ちの道具で「しのぐ」。その結果として、他の手本となる新しいモデルや公式を作り出す。こういうcreativeな力は「修羅場の中で論理的な解決を模索・提案する」という経験を繰り返す中からしか生まれない。

こういう「マインド」を、若い人々は少しずつ身につけて世に出始めている。それなのに、セイジ・オヤジたちは伝聞に頼って、人の意見・主張をねじ曲げて理解したり、それを煽って問題化したり、それに乗じて権力をねらったり、と闇の中でうごめき続けている。結果として、民主主義へ不信や社会の混乱を招く。こういう理解力不足、要約力不足、議論力不足の人たちを一掃しないといけない。

「専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するにものごとを自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです」(山本義隆)

ボカボが、混乱した世相に対して対抗する手段を少しでも提供でき、問題解決能力を持っている人を輩出しているのだとしたら、本当に喜ばしいことです。でも、ボカボが活躍できることは、それだけ社会が未成熟なままだということでもある。暑い夏に相応しく、何だか悩ましい結論ですね。

さて「法科大学院小論文 夏のセミナー」および「慶應・難関大学入試 小論文 夏のブチゼミ」まで、後二週間足らず。司法試験で未修は不利だとか囁かれたが、こうやって司法試験を突破し、法曹界で活躍している人もちゃんと出ています。いくら法的知識をつけても、いつか意見が対立した未知の領域にぶつかる。また、そうでなければ大問題は扱えない。夏のセミナーで培う「マインド」とはそういう修羅場に対応していく精神の強靱さ=修羅場をしのぐ力のことをいうと思うのです。夏の暑い時期、集中して勉強に賭けましょう!

2011年7月5日火曜日

充実した人々・充実した時間

ちくま新書『東大入試に学ぶロジカルライティング』が、アマゾンでは早々と品切れ状態になっているようで、ご迷惑をおかけしました。紀伊国屋Bookwebの該当ページなどからも注文できますので、そちらをご覧ください。一ヶ月足らずで重版になりそうで、とりあえず良かったと思います。

ところで、「新しい本が出ました」という案内メールを出したら、過去の受講生の方から、続々と近況報告が来ました。たとえば、定年退職なさってから、ロースクールに挑戦なさった方からは、こんな調子のメールが来ました。

●法科大学院で論文をよく書かされます。その時、ボカボで教えて頂いた論文の書き方が非常に役に立っております。本当に有難うございました。今年の択一の合格者で71歳の人がいましたので、非常に励みになりました。今は、毎日毎日ひたすら勉強に打ち込むことができますので、本当に幸せです。●●

おーっ「毎日毎日ひたすら勉強に打ち込むことができますので、本当に幸せです」と言い切っちゃえるところがスゴイですね。最近「リア充」という言葉があるようだけど、まさに究極の充実の一言。人生の後半期に、こういう時間を持てている人が確実にいるわけ。もう一人は、血気盛んな若者。こんな感じです。

●近状報告ですが、一言で言うとhard but rewarding です。さすがは旧帝大。自分の場合、仙台に来てからほぼ毎日が次のようなタイムテーブルで動いています。
 
×月×日
7時起床 神棚の水を取り換え、ネット起動、新聞のサイトとブログを巡回。
8時にビリーズブートキャンプを35分間、その後入浴。外出の支度を整える。
9時30分ぐらいに登校、自習室へ入室。
11時過ぎに学食で朝食兼昼食。青山学院出身の友人(既修入学)が言うには値段が高い。
11時30分には自習室に戻り勉強再開。
2時40分から授業。憲法。(中略)
4時10分授業終了。とはいえ自習でためておいた質問をしない手はないので有効活用。
友人と少し話し、自習室へ。
6時からリーガルリサーチの授業。判例等の法令情報の検索方法を解説する授業。
ただ聞いていればよいので暇。思索や自習の授業と化す。ひどい人はノートパソコンでYou tubeを見ていたりする。
7時30分修了。友人と学食で夕食。
8時に自習室へ戻る。
11時に下校。
11時30分帰宅。ネット、読書。実家から持ってきた『光抱く友よ』を読む。さすがに光文社文庫でもニーチェは読む気力なし。卒業までに読めるのか?
2時就寝。●●

個人情報に関わりそうなところは微妙にカット。でも、これもスゴイ。次から次と勉強すべきことが出てきて、時間が沸き立つように流れる。それを次々とこなしていくドライヴ感。とくに「ビリーズブートキャンプ」を毎朝やるなんて…。張り切りすぎて、体を壊さないかと心配になるくらい。
 最後に、もう少しクールな充実も紹介しておきます。

●大学院の生活は、グループワークがたくさんあり、様々なバックグランドの人ととのディスカッションはとても刺激になっています。(課題が溜まってしんどくなる時もありますが…)論理的に自分の主張を組み立て、それをわかりやすくプレゼンする難しさを日々感じています。何度もトライ&エラーすることで少しずつ成長できているのかなと思います。
もうすぐ一年経ちますが、大学院受験して良かったと思っています。去年の大学院受験のご指導はありがとうございました。次のステップとして、就職をいろいろな選択肢の中からどのように決めていくかが現在の課題です。そこで、9月から1か月間シリコンバレーのインターンプログラムに申し込もうと考えています。●●

これも前途洋々の感じが溢れている。今の日本の沈滞の中「政府が悪い」だの「日本は終わり」だとマスコミで五月蠅い状況で、個人が自立して、こういう感じを持てるということは本当に貴重。ボカボを受講なさった人が、こういう毎日を過ごしているとは、本当に嬉しい。そのお手伝いが出来たことは、我々の喜びです。

どうせ放射能と共存するしかないのなら「外国に逃げたい」と念じるより、現実的な対処法=生き方を一人一人が考えねばならない。それが明確でなければ、日本では生きていかれない。そんな感じがします。

さて、今月末から、このような「充実する人々」を次々に生み出してきた「法科大学院小論文 夏のセミナー」と「大学入試小論文 夏のプチゼミ」が始まります。参加者の答案を互いに開示しながら、その発想・構造・論理を徹底的に検証するという講座。真の意味でのロジカル・シンキング、ロジカル・ライティングを修得したい方は、是非お出でください。そのクオリティは、日本でも希有なレベルに達していると思いますよ。きっと皆様が「リア充」になるお役に立てると思います。夏にお目にかかりましょう!