八月は残酷な季節だ。くそ暑い中で体はゆったりと休息を求めているのに、いつもと同じかそれ以上の活動を求められる。その結果、気がついたら「気力減退」と「原稿遅滞」のダブルパンチに見舞われる。気ばかり焦っても、全然物事は1ミリも先に進まない。そのうち「プチ過労死」状態(つまりは「夏バテ」にすぎないが…)になる。
実際、油断していたら、八月は一回しかBLOGを書いていなかった。とにかく書く気が起きない。「夏のプチゼミ」「夏のセミナー」と週3回はクラスがある。その準備と添削・個別コーチングなどで時間を取られる。当然、原稿は出来ないから苛々。でも、どうにもならない。自分を責めて疲れる。そういう繰り返しだ。
「夏バテ」なのは、世間も同じ。ニュースを見てもろくなことがない。連日、原発関係か民主党総裁選挙のオンパレードだった。正直言って飽きる。とくに原発関係は何度も見ていると、「ベクレル」「シーベルト」という言葉に慣れっこになってしまう。「100ミリベクレル? それがどうした?」てなものである。知らなくても、自分が生きている限りは関係ない。そんなアパシー状態というか妙なエア・ポケットに落ち込んでいる。
そういえば、芥川龍之介に関東大震災後を描いた短編があった。横浜に用があって行った。瓦礫が残った住宅街。ピアノが半分埋もれて放置してある。鍵盤が露出している。そばには栗の木が一本立っている。「全体、これでも鳴るのかしら?」とそばを通り過ぎると、突然ポーンと音がする。いったい誰が弾いたのか、幽霊を疑って一瞬ゾッとして振り返る。そのとき、またポーンとピアノの音。そばの栗の木から実が落ちて鍵盤に当たった…なーんだ…。静かな昼下がりの風景なのか、そんな感じ。
それに対して、今から思い出すと、地震・津波・原発事故の一連の流れは、精神が異様にしゃっきりする出来事だった。毎日耳目を集める出来事が次々と起こり、自分の知力・気力を振り絞って考え、行動すべきことがいろいろあった。心身共にパセティックな状況に充ち満ちていた。ある意味で幸福な状態だったかも知れない。
たとえば、ボカボのある講師の弟さんは長年引きこもり状態だったのが、久しぶりに3.11直前にバイトに行った先の24時間営業のソバ屋で、地震にあったそうだ。ちょうどその時店長の奥さんが流産しかけ。心配する店長をとりあえず帰し、そこから彼はたった一人で72時間の間ソバを作り続けたらしい。頑張り続けた結果「やれば出来るんだ」とすっかり自信を取り戻し、今や完全に社会復帰しているとか。
実際『災害ユートピア』という本では、災害が起こると普通の市民が驚くべき力を発揮するという。よく言われる暴動や掠奪などほとんど起こらない。むしろ、人間たちは結束して、目の前にある危機を乗り越えようとする。それを壊すのは、社会のエリート層。彼らは、既存の社会秩序から過大な利益を得ているから、心理的にも「秩序」に執着する。そこで、過剰な警備態勢をしいて、既存の秩序が組み替えられるのを阻止しようと、かえって混乱を引き起こすのだとか。
災害は必ずしも悪いことばかりではない。人々は、危機に瀕して自分が出来ることをし、それが社会を目に見えて良くし、そこから勇気をもらって、また自信を深める。自分と関係ないところで、社会が回っている/自分がいてもいなくても何も変わらない。そういう以前の状態から、自分がいることが周囲に直接的な影響を与えられるという感覚を持てる。さらに、人間の姿もくっきりと見えてくる。佐賀県知事とか玄海町長とか、プロレスの試合のように、典型的な「ヒール」たちが見えてくる。無色だった社会に、突然色がつけられ、登場人物たちが飛び出し、生き生きと動き出す。
こういう状況はtwitterに向いている。自分が考えた一寸したことを発信する。それに反応がある。その繰り返しが一種の高揚感を生んでいた。だから、私も結構熱心にtwitterをやっていた。でも、それも一段落した感がある。騒いでも変わらないことは変わらない。出来ることと出来ないことが見えてくる。出来ないことはあきらめるほかないし、出来ることは少しずつ続けないと成就しない。いずれにしても、この状況は数十年の間続く。そのタイムスパンが見えてきたのが、原因なのかもしれない。その雰囲気が秋の始まりと重なる。ちょっと落ち着いてBLOGを書こうかな、と思ったのも、こういう気分と対応している。
そういえば、チェルノブイリは、今動物の楽園になっているとか。人間がいなくなったから、鹿や野生の馬が住み、ツバメが巣を作る。「環境論者」が聞いたら、天国のような生物多様性が実現している。フクシマ原発の近くももう人は住まない/住めないから、鹿やツキノワグマや狐のサンクチュアリになるだろう。近くの酪農家から逃げ出した牛も野生化する。大型の草食動物が増えるので、オオカミでも輸入して放したら、理想的な「持続可能な自然環境」が出来上がるだろう。
結局、物事も起こって時間が経つと、生物学的・生態学的に可能なところに落ち着いてくる。ダメージを受けてもそれなりに生きていく生き物。我々もその一員に過ぎないのかも知れない。それもまた、また違う自然の残酷さなのかもしれないが…。
さて、ボカボは九月の間はWEBや個別コーチングだけです。夏の間に起こったことをしっかりと心の中に定着させる時間かもしれませんね。10月からはまた「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」を始め、「法科大学院 適性試験 Start Up!」など、さらなる飛躍のためのさまざまな準備をします。乞うご期待。
実際、油断していたら、八月は一回しかBLOGを書いていなかった。とにかく書く気が起きない。「夏のプチゼミ」「夏のセミナー」と週3回はクラスがある。その準備と添削・個別コーチングなどで時間を取られる。当然、原稿は出来ないから苛々。でも、どうにもならない。自分を責めて疲れる。そういう繰り返しだ。
「夏バテ」なのは、世間も同じ。ニュースを見てもろくなことがない。連日、原発関係か民主党総裁選挙のオンパレードだった。正直言って飽きる。とくに原発関係は何度も見ていると、「ベクレル」「シーベルト」という言葉に慣れっこになってしまう。「100ミリベクレル? それがどうした?」てなものである。知らなくても、自分が生きている限りは関係ない。そんなアパシー状態というか妙なエア・ポケットに落ち込んでいる。
そういえば、芥川龍之介に関東大震災後を描いた短編があった。横浜に用があって行った。瓦礫が残った住宅街。ピアノが半分埋もれて放置してある。鍵盤が露出している。そばには栗の木が一本立っている。「全体、これでも鳴るのかしら?」とそばを通り過ぎると、突然ポーンと音がする。いったい誰が弾いたのか、幽霊を疑って一瞬ゾッとして振り返る。そのとき、またポーンとピアノの音。そばの栗の木から実が落ちて鍵盤に当たった…なーんだ…。静かな昼下がりの風景なのか、そんな感じ。
それに対して、今から思い出すと、地震・津波・原発事故の一連の流れは、精神が異様にしゃっきりする出来事だった。毎日耳目を集める出来事が次々と起こり、自分の知力・気力を振り絞って考え、行動すべきことがいろいろあった。心身共にパセティックな状況に充ち満ちていた。ある意味で幸福な状態だったかも知れない。
たとえば、ボカボのある講師の弟さんは長年引きこもり状態だったのが、久しぶりに3.11直前にバイトに行った先の24時間営業のソバ屋で、地震にあったそうだ。ちょうどその時店長の奥さんが流産しかけ。心配する店長をとりあえず帰し、そこから彼はたった一人で72時間の間ソバを作り続けたらしい。頑張り続けた結果「やれば出来るんだ」とすっかり自信を取り戻し、今や完全に社会復帰しているとか。
実際『災害ユートピア』という本では、災害が起こると普通の市民が驚くべき力を発揮するという。よく言われる暴動や掠奪などほとんど起こらない。むしろ、人間たちは結束して、目の前にある危機を乗り越えようとする。それを壊すのは、社会のエリート層。彼らは、既存の社会秩序から過大な利益を得ているから、心理的にも「秩序」に執着する。そこで、過剰な警備態勢をしいて、既存の秩序が組み替えられるのを阻止しようと、かえって混乱を引き起こすのだとか。
災害は必ずしも悪いことばかりではない。人々は、危機に瀕して自分が出来ることをし、それが社会を目に見えて良くし、そこから勇気をもらって、また自信を深める。自分と関係ないところで、社会が回っている/自分がいてもいなくても何も変わらない。そういう以前の状態から、自分がいることが周囲に直接的な影響を与えられるという感覚を持てる。さらに、人間の姿もくっきりと見えてくる。佐賀県知事とか玄海町長とか、プロレスの試合のように、典型的な「ヒール」たちが見えてくる。無色だった社会に、突然色がつけられ、登場人物たちが飛び出し、生き生きと動き出す。
こういう状況はtwitterに向いている。自分が考えた一寸したことを発信する。それに反応がある。その繰り返しが一種の高揚感を生んでいた。だから、私も結構熱心にtwitterをやっていた。でも、それも一段落した感がある。騒いでも変わらないことは変わらない。出来ることと出来ないことが見えてくる。出来ないことはあきらめるほかないし、出来ることは少しずつ続けないと成就しない。いずれにしても、この状況は数十年の間続く。そのタイムスパンが見えてきたのが、原因なのかもしれない。その雰囲気が秋の始まりと重なる。ちょっと落ち着いてBLOGを書こうかな、と思ったのも、こういう気分と対応している。
そういえば、チェルノブイリは、今動物の楽園になっているとか。人間がいなくなったから、鹿や野生の馬が住み、ツバメが巣を作る。「環境論者」が聞いたら、天国のような生物多様性が実現している。フクシマ原発の近くももう人は住まない/住めないから、鹿やツキノワグマや狐のサンクチュアリになるだろう。近くの酪農家から逃げ出した牛も野生化する。大型の草食動物が増えるので、オオカミでも輸入して放したら、理想的な「持続可能な自然環境」が出来上がるだろう。
結局、物事も起こって時間が経つと、生物学的・生態学的に可能なところに落ち着いてくる。ダメージを受けてもそれなりに生きていく生き物。我々もその一員に過ぎないのかも知れない。それもまた、また違う自然の残酷さなのかもしれないが…。
さて、ボカボは九月の間はWEBや個別コーチングだけです。夏の間に起こったことをしっかりと心の中に定着させる時間かもしれませんね。10月からはまた「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」を始め、「法科大学院 適性試験 Start Up!」など、さらなる飛躍のためのさまざまな準備をします。乞うご期待。
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