2011年8月9日火曜日

大変さの中で平常心を保つ

3月の地震以来、ボカボでも法科大学院志望者が例年よりやや減っていたのですが、結局「夏のセミナー」は去年以上の集まりになりました。もう第二週目になりますが、出席者が熱心なためか、毎回楽しく議論しています。あまり楽しかったためか、ブログの更新が滞ってしまいました。ごめんなさい。

こういう傾向は、東日本の震災から始まって、中国の高速鉄道事故、アメリカの国債引き下げ、イギリスの暴動など、今年は世界的にひどい状況が続いていますが、そんなことにいちいち振り回されていても仕方がない、腰を据えてじっくり自分の力を引き上げるしかないのだ、という気持ちの表れなのでしょうか? そういう風に感じられるだけ、神保町のボカボの周囲は落ち着いている。勉強に精進する中で、一種「護られた空間」になっているのかもしれません。

でも、怯える人は世の中の情報に煽られ、安心感がどうしても得られないらしい。この間も、京都の大文字焼きで陸前高田の松林の薪を燃やそうとしたら「放射能が危ないんじゃないか」とクレームが出て、やめたとか。それをあるコラムニストが批判したら「放射能の専門家でもない人間が何を言う。心配するのは当然だ。それを分からないのは最大のバカ」という罵倒twitterが来たとか。すごいね。

陸前高田といえば、仙台よりはるかにフクシマからは遠い。たとえ放射能があったとしても、東京と同じくらいか、それ以下でしょう。しかも、薪は、放射線の計測をしてO.K.ということは分かっているのに、なお「心配するのは当然だ」と言いつのる。きっとクレーマーたちは陸前高田とフクシマの位置関係も知らないのだろう。「最大のバカ」はどっちだと言いたい。

これでフクシマの小学生が京都に転校してきたら、どんな扱いを受けるのか、ちょっと怖い感じがします。差別されたり、いじめられたり、しかねないのでは? 昔から差別がキツイところらしいから、かなり心配。原発事故の後、福島県民の「疎開」を唱えた人もいるようだが、この結果を見ると、放射能より「疎開」が与える精神的トラウマの方が大きいかもしれない。まあ、京都の人のほとんどはまともだろうから、そんなことにはならないと思うけど。

しかも、もっともがっかりさせられるのは、この決定が宗教者によって行われたことだ。五山の送り火はそもそも死者の霊を送る宗教行事。宗教者ならば、非業の死をとげた者を回向するのが役割のはず。こういう国難の時こそ、犠牲者を弔う役割を持つ。ところが、来世より現世のクレーマーの声ばかりを慮るというのでは、宗教者としてどうなのかな? クレーマーが数十人出てくるのは仕方ないにせよ、そういう低脳(⁈)たちを説得する言葉さえ持たないようでは、どんな立派な寺院を持っていようが「宗教の力」なんてなきに等しい。リーダーシップに欠けているのは、政治・経済の世界だけじゃないね。日本のあらゆる分野がそうなのかもしれない。

こういうグチャグチャの状況の中でこそ、原則を確認し、優先順位を立てておかなければ、しっかりと世の流れを見極めなければならない。そうでないと、声の大きい「バカ」たちがあちこちでのさばって、排除と非寛容のムードがはびこる。3.11の後の情報混乱の中で、その必要を痛感した若い人々が確実にいるようです。だから、ボカボの講座のようなところも盛況になってきたのだと私は思うのです。世の危機に右往左往していても展望はありません。自分の考える力をまず上げる以外に、先を見通すことは出来ない。そういう地味な作業に立ち返っていくべきだと思うのです。

そういえば、世の条理を正す方法を解説した『東大入試に学ぶロジカルライティング』もはやばやと重版。これから三刷を目指します。といっても、書き終わってしまった著者は今更頑張りようもないのですけどね。真面目に読んでいただければ、これからの日本及び未来に対するヒントがきっと見つかるはず。読んだ方々はアマゾンにでも書評を送ってくださいね。

この暑い夏が終わったら、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow up!」「法科大学院 適性試験 Start up!」が始まります。前者は来年の受験に役立つだけでなく、今年の国公立を目指したい方にもおすすめです。

2011年7月17日日曜日

暑い夏のロジカルシンキング

現今の「政治の混乱」を見ていると、マスコミを初めとして「議論力」「論理的思考力」がまったく欠如しているのを感じる。たとえば、菅首相の「辞任表明」にしたって、私はTVを逐一見ていたけど、まったく「辞める」とは言っていない。むしろ、ロジカルに考えれば、問題が片付くまでは「辞めない」と受け取れる。もちろん、菅はそのつもりで意識的にダブル・ミーニングを利用しているんだけど。

その構造を見抜けないで、マスコミは「退陣表明」と一方的なテロップをつける。要約力に欠けているとしか思えない。尻馬に乗って、民主党の野心を持った政治家(そもそも野心を持たない政治家は政治家ではないけどね)が「いつ辞めるんだ、七月か八月か」と騒ぎだす。菅は当然辞任時期を明らかにしない。するとマスコミが鳩山に「菅さんが辞めないって言っているけど」と追求する。鳩山も「菅は嘘つきだ」と言わざるを得ない。事態収拾してバランスを保つ会談のはずが、強引に政局にねじ曲げられる。

こういうマスコミのマッチポンプ的な態度は、一貫している。すでに、ネット上でもいろいろ取りあげられているが、次の報道を見れば「マスコミのねじ曲げ」がどのように起こっているのか、一目瞭然だ。

●脱・原発依存」を表明 首相(東京新聞)
菅直人首相は十三日夕、官邸で記者会見し、今後のエネルギー政策について「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べ、深刻な被害をもたらした福島第一原発事故を踏まえ、長期的には原発のない社会を目指す考えを表明した。
首相は事故後、原子力の活用を中心にした現在のエネルギー基本計画の見直しには言及してきたが、「脱原発」に転換する方針を初めて打ち出した。「原発に依存しない社会を目指すべきだと考え、計画的、段階的に原発依存度を下げる」と指摘したが、時期など具体的な目標は「中長期的展望に基づいて議論し固めていきたい」と述べるにとどめた。

「脱原発」宣言…電力供給確保の根拠もなく(読売新聞)
菅首相が13日の記者会見で、将来的な「脱原発」を表明したのは、自らがエネルギー政策の見直しという歴史的な転換に着手することで、首相としての実績を作る狙いがあったと見られる。

ただ、原子力発電所に全く依存しない社会を作るための道筋や十分な電力供給が確保できる根拠は示されず、閣内で十分に議論された形跡もない。場当たり的ともいえる対応に、実現性を疑問視する声も多い。●●

東京新聞の方は、首相発言をそのまま報道しているのに、読売の方は「実績を作る狙い」という憶測や「場当たり的」という評価、さらに「疑問視する」という批判まで満艦飾。だが、肝腎の、いったい誰がこういう憶測・評価・批判をしているのか、まったく書いていない。評価の根拠は「閣内で十分議論された形跡もない」とあり、誰か閣内の人の伝聞なのだろうが、そのソースは示されない。こんなあやふやな根拠で首相の発言を否定してよいのか?

たしかに、大問題の場合は、意見や方向が対立するのは仕方がない。今までのエネルギー政策の方向を変えるというのだから、反対意見を言っても構わないだろう。閣内にだって反対者は少なくないかも。しかし、いやしくも批判・否定するなら、それが誰の意見・主張なのか、せめて明示すべきではないだろうか? それをしないで、むやみと「否定的言辞」を暗闇から貼り付けて、信頼性を既存しようというのは、いささか卑劣すぎる。

こういうレッテルづけが「辞めるといった首相が何を言っても聴かない」という問答無用の態度をひろめているとしたら、由々しきことだ。そういう「空気」を利用して「脱原発なんてよい方向と思うけど、同じことを野田が言うなら、全然違う」(自民党議員の言葉)という発言まで出てきた。内容ではなく、人の好き嫌いで評価を決めるのか? 

まあ、セイジ大好きオヤジたちが、伝聞情報で「誰が次の総理になるか」と昂奮し「祭り状態」になっていると考えれば不思議はないのだけど……それにしてもバカというか低レベルというか。ボカボの講座に出席したら、ボコボコに批判されるのは必定だね。

ところで話は変わるけど、かつての受講者から、以下のようなメールをもらった。

●ご無沙汰しております。
吉岡先生が私のことをまだ覚えてて下さるとよいのですが、5年ほど前に法科大学院の入試の際、小論文の添削でお世話になりました。その後、K法科大学院の未修コースに進み、無事に司法試験に合格し、現在弁護士として働いております。
 
司法修習中、文章が読みやすいと褒めていただくことがあったのですが、あのとき吉岡先生の指導のおかげだと思っております。 文章力の基礎、ひいてはリーガルマインドの土台を築いて下さり、本当にありがとうございました。●●

もちろん覚えていますよ。WEB上の添削のやり取りだけだけど、彼女の文章のいくつかも「ああ、あれか」と見当が付く。司法試験に合格して弁護士になっていたとは。おめでとうございます!これに限らず、この頃思いがけず、はじめて会った人から「お世話になりました」と声をかけられることがある。小室先生を偲ぶパーティでも,若い弁護士の方からいわれてびっくり。たしかにボカボももう10年以上やっているので、そういう人が出てきても不思議ではないけど、実際に言われてみると感慨もひとしお。

とくに「リーガルマインドの土台」と言われるのは、ホントにうれしい。まじめな国民性なのか、日本では、問題に立ち向かうときに、つい知識を増すというsolutionを取りがちだ。「これが解けないのは、知識が足りないためだ」と思いたがる。そういう場合もあるけど、実際にその問題を解くための知識がこの世に存在しない場合も少なくない。というより、正解に至る定型的知識が存在していないから「大問題」になる。

でも「リーガルマインド」とは、そういうことではない。次のようなcreativeなスキルだと思う。

(1)問題に定型的な解決法がなくても動揺しない
(2)今まで培った教養・知識を枠組みとして新たな解決を模索する
(3)論理的構造と情報のソースを明示する
(4)空気を左右するのではなく、正々堂々と周囲からの納得を得る

それは、まだ道が切り開かれていない山にはいるようなものです。とりあえず、手持ちのナイフやザイルなどを使って、道なき道を切り開いて目の前に展望を開く「修羅場での工夫」が重要になる。公式で解ける問題にばかり熱中していると、この能力が衰退する。では、どうするか? 修羅場のシミュレーションをしておくしかない。見果てぬ正解を希求するのではなく、手持ちの道具で「しのぐ」。その結果として、他の手本となる新しいモデルや公式を作り出す。こういうcreativeな力は「修羅場の中で論理的な解決を模索・提案する」という経験を繰り返す中からしか生まれない。

こういう「マインド」を、若い人々は少しずつ身につけて世に出始めている。それなのに、セイジ・オヤジたちは伝聞に頼って、人の意見・主張をねじ曲げて理解したり、それを煽って問題化したり、それに乗じて権力をねらったり、と闇の中でうごめき続けている。結果として、民主主義へ不信や社会の混乱を招く。こういう理解力不足、要約力不足、議論力不足の人たちを一掃しないといけない。

「専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するにものごとを自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです」(山本義隆)

ボカボが、混乱した世相に対して対抗する手段を少しでも提供でき、問題解決能力を持っている人を輩出しているのだとしたら、本当に喜ばしいことです。でも、ボカボが活躍できることは、それだけ社会が未成熟なままだということでもある。暑い夏に相応しく、何だか悩ましい結論ですね。

さて「法科大学院小論文 夏のセミナー」および「慶應・難関大学入試 小論文 夏のブチゼミ」まで、後二週間足らず。司法試験で未修は不利だとか囁かれたが、こうやって司法試験を突破し、法曹界で活躍している人もちゃんと出ています。いくら法的知識をつけても、いつか意見が対立した未知の領域にぶつかる。また、そうでなければ大問題は扱えない。夏のセミナーで培う「マインド」とはそういう修羅場に対応していく精神の強靱さ=修羅場をしのぐ力のことをいうと思うのです。夏の暑い時期、集中して勉強に賭けましょう!

2011年7月5日火曜日

充実した人々・充実した時間

ちくま新書『東大入試に学ぶロジカルライティング』が、アマゾンでは早々と品切れ状態になっているようで、ご迷惑をおかけしました。紀伊国屋Bookwebの該当ページなどからも注文できますので、そちらをご覧ください。一ヶ月足らずで重版になりそうで、とりあえず良かったと思います。

ところで、「新しい本が出ました」という案内メールを出したら、過去の受講生の方から、続々と近況報告が来ました。たとえば、定年退職なさってから、ロースクールに挑戦なさった方からは、こんな調子のメールが来ました。

●法科大学院で論文をよく書かされます。その時、ボカボで教えて頂いた論文の書き方が非常に役に立っております。本当に有難うございました。今年の択一の合格者で71歳の人がいましたので、非常に励みになりました。今は、毎日毎日ひたすら勉強に打ち込むことができますので、本当に幸せです。●●

おーっ「毎日毎日ひたすら勉強に打ち込むことができますので、本当に幸せです」と言い切っちゃえるところがスゴイですね。最近「リア充」という言葉があるようだけど、まさに究極の充実の一言。人生の後半期に、こういう時間を持てている人が確実にいるわけ。もう一人は、血気盛んな若者。こんな感じです。

●近状報告ですが、一言で言うとhard but rewarding です。さすがは旧帝大。自分の場合、仙台に来てからほぼ毎日が次のようなタイムテーブルで動いています。
 
×月×日
7時起床 神棚の水を取り換え、ネット起動、新聞のサイトとブログを巡回。
8時にビリーズブートキャンプを35分間、その後入浴。外出の支度を整える。
9時30分ぐらいに登校、自習室へ入室。
11時過ぎに学食で朝食兼昼食。青山学院出身の友人(既修入学)が言うには値段が高い。
11時30分には自習室に戻り勉強再開。
2時40分から授業。憲法。(中略)
4時10分授業終了。とはいえ自習でためておいた質問をしない手はないので有効活用。
友人と少し話し、自習室へ。
6時からリーガルリサーチの授業。判例等の法令情報の検索方法を解説する授業。
ただ聞いていればよいので暇。思索や自習の授業と化す。ひどい人はノートパソコンでYou tubeを見ていたりする。
7時30分修了。友人と学食で夕食。
8時に自習室へ戻る。
11時に下校。
11時30分帰宅。ネット、読書。実家から持ってきた『光抱く友よ』を読む。さすがに光文社文庫でもニーチェは読む気力なし。卒業までに読めるのか?
2時就寝。●●

個人情報に関わりそうなところは微妙にカット。でも、これもスゴイ。次から次と勉強すべきことが出てきて、時間が沸き立つように流れる。それを次々とこなしていくドライヴ感。とくに「ビリーズブートキャンプ」を毎朝やるなんて…。張り切りすぎて、体を壊さないかと心配になるくらい。
 最後に、もう少しクールな充実も紹介しておきます。

●大学院の生活は、グループワークがたくさんあり、様々なバックグランドの人ととのディスカッションはとても刺激になっています。(課題が溜まってしんどくなる時もありますが…)論理的に自分の主張を組み立て、それをわかりやすくプレゼンする難しさを日々感じています。何度もトライ&エラーすることで少しずつ成長できているのかなと思います。
もうすぐ一年経ちますが、大学院受験して良かったと思っています。去年の大学院受験のご指導はありがとうございました。次のステップとして、就職をいろいろな選択肢の中からどのように決めていくかが現在の課題です。そこで、9月から1か月間シリコンバレーのインターンプログラムに申し込もうと考えています。●●

これも前途洋々の感じが溢れている。今の日本の沈滞の中「政府が悪い」だの「日本は終わり」だとマスコミで五月蠅い状況で、個人が自立して、こういう感じを持てるということは本当に貴重。ボカボを受講なさった人が、こういう毎日を過ごしているとは、本当に嬉しい。そのお手伝いが出来たことは、我々の喜びです。

どうせ放射能と共存するしかないのなら「外国に逃げたい」と念じるより、現実的な対処法=生き方を一人一人が考えねばならない。それが明確でなければ、日本では生きていかれない。そんな感じがします。

さて、今月末から、このような「充実する人々」を次々に生み出してきた「法科大学院小論文 夏のセミナー」と「大学入試小論文 夏のプチゼミ」が始まります。参加者の答案を互いに開示しながら、その発想・構造・論理を徹底的に検証するという講座。真の意味でのロジカル・シンキング、ロジカル・ライティングを修得したい方は、是非お出でください。そのクオリティは、日本でも希有なレベルに達していると思いますよ。きっと皆様が「リア充」になるお役に立てると思います。夏にお目にかかりましょう!

2011年6月25日土曜日

国境を越える文化

義弟の通夜と葬式に、シューマンやブラームスの音楽を使ったと言ったら、「日本人が西洋古典音楽を本当の意味でこころから楽しむことができるのか?」という軽い非難めいたメールが来た。

●私の妻の父親(秋田県)のお通夜で流れた音楽…は御詠歌でした。親類や近所の人たちが薄暗い座敷に集まって棺に向かいそれぞれに御詠歌の歌詞の手書きのコピーを持ち、一人の先導者が1行目の最初のフレーズをゆるゆると読み上げると残り全員が声をそろえ抑揚を合わせてゆるゆると歌いだす。同じ抑揚が5番、10番と繰り返される。秋田の山間部の伝統的(といってもたかだか100年くらいではなかろうか)な葬儀。自分たちでうたう、というところが、地域住民の信仰心の深さと近代的思想や都市文化などからの距離感とを印象づけます。●●

なるほどね。でも、これって本当に「日本」のイメージなのだろうか? むしろ、私にとっては珍奇な「民俗」にしか思えない。そもそも「御詠歌」なんて今まで聞いたことはないし、「秋田の山間部の伝統」だと言われても、どうやって一体化したらいいか……

私自身は「御詠歌」より、西洋古典音楽を聞いていた時間総量の方が圧倒的に長いしね。子供の時にピアノを習っていて、モーツァルトやベートーヴェンだったし、メロディーはすぐ口について出る。ときには、作品番号なども知っている。キューバに行ったときも、ホテルのビアニストに5ドル渡して「K310の第一楽章弾いてね」とリクエスト。いわば、クラシック音楽は、自分の文化教養の一部になっている。でも「御詠歌」とはどこで縁を見つければいいのか?

そもそも、「日本vs.西洋」という図式を、私たちは何の疑問もなく使っているけど、これがどれだけ有効か、疑わしい。「日本」も一枚岩ではなく、むしろところどころに亀裂が走っている。ある部分は、秋田の山奥より、外国に親近感を持つ。世界は国家や民族だけで区切られるのではない。共有する文化でも区切られるのだ。

この間も、オーストラリアンの建築家とインドネシア人の舞踊家と昼飯を食っていたら、何かのはずみで「日本語にオノマトペはたくさんあるんだろ?」という話になった。そこで、日本語の擬音語・擬態語の説明をしたら、「インドネシア語ではこうだぜ」とか「英語ではね」などと結構盛り上がった。「俺たちってeducated menだな」と建築家はニコニコ。「ああ同類に出会った」という満足げな顔つきをする。考えてみれば、たしかに擬音語・擬態語について英語でしゃべり、インドネシア語と比較して冗談を言いあう人間たちにはそれなりの背景がある。そういう人間が、その場にはたまたま四人もいるのはほとんど奇跡に近い。

だから、その建築家の頭の中では、世界は自国人vs.自国人以外という国籍の対立ではなく、educatedかnon-educatedかという文化の軸で分けられている。educatedの教養には、当然「西洋古典音楽」も入る。現に、そこにいたインドネシア人に「好きなピアニストは?」と聞いたら「アンヌ・ケフェレック」と即座に答えた。こんなフランスの閨秀ピアニスト(こういう言い方がぴったりする人なんだな)、知っている日本人なんて、どれくらいいる? どうして、こういう人たちの楽しい集まりより、「日本人」なる訳が分からん観念の共同体を選ばねばならないのか?

そういえば、義弟も「俺は無宗教だから、お経だけは読んでくれるな」という遺言を残したので、敬虔な東本願寺の門徒であるその父親との間で一悶着あったらしい。親子にしてさえ、この通り。ましてや「同じ日本人」など、どれくらい信頼できるものなのか、私には分からない。 

ところで、私が葬送の音楽として選んだのは、シューマンの交響曲二番の第三楽章、ブラームスの交響曲三番の第二、三楽章、モーツァルトの交響曲38番第二楽章。それにシュッツの「キリストの七つの言葉」。最後を除けば「世俗音楽」だ。しかし、参加者は、そこに人間の生き死にを感じてくれたのか、「シンプルでいい式でした」と言ってくれた。これは西洋音楽の換骨奪胎だと思う。宗教とか地域とかの違いとは関係なく、音楽の「精神」に共鳴しているのである。

これはアートでも同じだった。昔はゴッホとか、ゴーギャンとか「泰西名画全集」で見るしかなくて、そこにコンプレックスをかき立てられたものだった。小林秀雄の『ゴッホの手紙』や『近代絵画』では、そんなコンプレックスに対して、どう居直るか、模索している様子が涙ぐましい。しかし、時代は変わった。ゴッホもゴーギャンも今は直に見ることが出来る。もう「泰西名画」ではなく、人類の美的遺産、はやりの言葉で言えば「世界遺産」と化しているのである。

私が信じる「日本人」は、そういう共鳴能力がある人々であって、原イメージにこだわってアイデンティティを確保しようとする「日本人」ではない。19世紀半ばに開国してから、日本は西洋にcatch upしようとしてきた。もちろん、それを「根の浅い近代化」だという批判もあろう。でも、いくら根が浅かろうが、150年も続ければ、もう我々の身体に食い込んでいる。だから「より古い日本」をエキゾチックと感じ、「伝統的日本」とは隔たりを感じる日本人がいても仕方がない。その意味で、私も「根の浅い日本の近代主義者」を運命として生きていくしかないのだろう。

さて、夏ももうすぐ。「法科大学院 小論文 夏のセミナー」「大学入試 慶應・難関大 夏のプチゼミ」の参加者募集しています。日本人だからといって「よい日本語」を書けるとは限らない。むしろ、「よい日本語」を書くには、それなりの文化資本を獲得するプロセスが必要なのです。我々は日本人に生まれるのではない。日本人になるのである。ボーヴォワールの言葉をもじっていえばそういうことね。

2011年6月18日土曜日

言葉の力とは何か?

言葉が大事だとはいろいろな人が言う。論理の大切さもしばしば強調される。しかし、具体的な方法論にはなかなかお目にかかれない。論理が大切だという人が、必ずしも論理的だとは限らない。言葉を尊重せよと言う人の言葉は大抵美しくない。

たとえば、猪瀬直樹の『言葉の力』。twitterで褒め言葉がやたらと送られてくるので一応目を通した。言葉の力が落ちているから何とかせねば、という趣旨は文句ないのだが、その中身は、今どきの若者はタテの関係に弱いから理解力がない。あるいは、フィンランドの教育は素晴らしい。俳句も短歌も伝統的な文章技能だから盛んにしよう。…どれもこれもどこかで聞いたようなステレオタイプの話になっている。後半は、政治談義と官僚批判、それに自分が都政でやったことの自慢話が主。

これのどこが、言葉の力を伸ばす「言語技術」なのだろうか? そもそも俳句も短歌も現在、大流行しているのだから、日本の言葉は安泰のはずでは?……こんな風に「言葉」や「論理」に対する言説には、曖昧な話が少なくない。実質的に「言葉の力を上げる」ことを目指すなら、自分なりに実証した方法の一つぐらい開陳すべきだと思うのだけど、そういう本にはめったにお目にかからないのだ。そういえば、猪瀬は前にも『小論文の書き方』という本を出しているけど、これは「書き方」についてまったく書いていないというチョー荒技を使っている。

話は違うが、この間、私はある仕事のオファーを受けた。全国規模の「論理能力テスト」をやりたいから手伝ってくれないかというのだ。問題作成者を聞いてみたら、ある予備校で教えていらした有名先生。問題はかなりのレベルだし、これはまともかも知れないと、期待して話を聞いてみたら、「私が理事長です」と出てきた人がどうもなじめない。

自分のことを「投資バンク」をやってきた「国際ビジネスマン」で海外のMBAを出たと言いながら、外国に住んだことはあまりないと口走り、投資で小金をもうけたと言いながら、問題はしばらく無料で作れと言い、将来のリターンは保証すると言いながら、直近のイベントの礼金はなかなか開示しない。どうも理屈がすんなりと流れないのだ。

とくに、問題だと思ったのは、今やっているボカボよりも彼らの仕事を優先しろと、やたらと強調すること。いくら将来のリターンが大きくても、とりあえずのコスト負担もしぶるような態度の人が、一方的に命令するのは理屈に合わない。そのうち、「論理能力テスト」が説明会をやったときに、外人の投資家らしき人もスピーチしたのだが、それを通訳した「理事長」の訳がメチャクチャだったとかいう話も耳にして……結局、我々は参加直前でキャンセル。

こんな風に、教育や言語について声高に主張する人はどっか怪しい感じが漂う。特にブロードな提案をしている人々は、眉に唾を付けて聞いた方がよいと思う。現場の経験を元にして、細かな方法論を営々と積み上げるべきなのに、偉くなった「私」というポジションを利用して、好き勝手なことを吹くのはちょっと見苦しい。

これは、誰でも、教育と言語についての体験があるせいだと思う。自分がしゃべれるから、自分が子供だったときがあるから、一定の発言権があるという気になりやすい。しかし、自分の体験なんて、かなり偏ったものにすぎない。何十年も前の狭い経験を元にして、一般的に教育や言語を批評したり、改革したりすることについては、抑制的であるべきだろう。

そういえば、猪瀬も「言葉の力」についてのテストをやろうとしているとか。都が関係するので、矛盾だらけの組織ではないと思うが、かつて『交通事故鑑定人S氏の事件簿』で、専門家からその知識不足・勉強不足・論理不整合・データの誤魔化しなどをするどく指摘されたノンフィクション作家が「作家の視点から」組織化するのでは、あまり安心できるものとは言いにくいだろう。

後になって気がついたのだが、私の所に来るtwitterで猪瀬本を賞賛する声は、すべて猪瀬自身によるリツイートだった。営業努力の一環だから、やって悪いとは言わないが、彼ほどの有名人がちょっと恥ずかしくはないのかな? 私も真似して新著『東大入試に学ぶロジカルライティング』のリツイートやってみたが(この本では非力ながら、具体的な言語技術の提示をやってみたつもり)、30分ほど恥ずかしさでのたうち回っちゃった。しかも「賛辞」は「『言葉の力』読了」とか「『仕事力』一気に読みました」などと文体も似通っている。大丈夫かこれ? 何だか例の理事長の「国際ビジネスマン」という名乗りと似たような感じがするのだが… 

結局、言葉力・論理力を上げるのは、個人が努力する他ないのだが、努力ばかりだとイヤになるから、なるべく楽しくなるように工夫する。とくに論理という性質上、そういう楽しさがなくちゃいけないと思う。説教口調を取るのは最もいけない。すぐれた論理・言葉についての本って、権威を振りかざすのではなく、むしろ楽しさを強調するものだと思うんだけどな。

まあ、ボカボは独立独歩。今度の夏も「法科大学院小論文 夏のセミナー」と大学入試用の「夏のプチゼミ」を行います。世に溢れる説教節(エラソーに振る舞いたい人は世に多い)に負けず、ロジックをきちんと通した主張をする楽しさを教えたい。真の議論を学びたい人よ、来たれ! 毎年、これらのセミナーからはたくさんの合格者が出ているから、効果も実証されているしね。今年も、暑く熱い議論の夏になるかもしれないけど、それだけが文章力・思考力を上げる方法と知っているので「やるっきゃない」という心境です。