自民・公明の提出した安保法案に対して、学生団体のSEALDsが反対運動を繰り広げている。70年安保を経験した世代からすると、この団体の活動はなかなか面白い。
かつての学生の反対運動は、ヘルメットとアジ演説のイメージだった。演説では「我々はー」とか「帝国主義ガー」とか、判で押したような語句を単調に並べる。ヘルメットは赤や青に塗って「中核」とか「反帝学評」とか文字が書かれ、党派やグループが強調されていた。日本の体制に反対する割には、その行動原理は「命令」「統制」「集団主義」を前面に出していた。だから、内部で反目が起こると「内ゲバ」も起こった。
それに比べると、SEALDsの特徴はラップと自分の言葉の語りだ。演説は「私たちは...」と日常の一人称でゆるやかに語られ、iPhoneに入れられた草稿を見ながら発語される。シュプレヒコールはラップのリズムに乗せて、ときにはシンコペーションなど複雑なリズムも取る。ヘルメットも誰もかぶっていない。「自発」「自由」「個人主義」が前面に出ている。
もちろん政治に関わる限り、党派性を完全に払拭できないが、それでもかなりの程度「共産党がバックにいる」などという陰謀論的批判がデマであることを示せていた、と思う。なぜなら、今までの党派風デモのスタイルとは一線を画していたからだった。
私は安部法案には反対だが、それは「日本の若者達の文化資本も、この45年の間に豊かになったのだな」と実感できるような姿だった。
それに比べて、彼らに対する反対派は、必ずしも「豊か」とは言えない。それは金を持っているかどうか、ではない。反対派の持っている「文化資本」や「教育資本」が豊かでない、とどうしても感じてしまうのだ。
たとえば、最近、反対派が、SEALDsのエンブレムが「パクリ」だと言い出した。たとえば、次のようなツイートである。
https://twitter.com/STOP_SEALDs/status/643053102136881152
あるIT会社のエンブレムと並べてそっくりなので「パクリだ」と主張したのだが、これは筋が悪い。なぜなら、盾を4分割して色分けする手法は、伝統的デザインだからだ。そこにPCやネットでよく使う記号を並べただけだから、全体的印象は否応なく似てくる。そもそも「独創性」などという文脈にないのだ。
つまり、もし、これを「そっくりだ!」と言挙げするとしたら、こういう典型的なデザインに過去に出会ったことがない、つまり美的・文化的経験が圧倒的に足りない、ということを意味する。
そういう人が「パクリだ!」と主張するのは、もちろん、最近起こった「オリンピック・エンブレム」剽窃問題があったせいだ。そこで彼は「剽窃」という概念にはじめて出会い、たまたまSEALs反対派であったので、このやり方で叩けないか、と探したのだろう。検索してみると「似ているのがあった! やった!」となったのだ。
こういうあり方を、昔は「バカの一つ覚え」と言った。素朴な人々が、何か新しい知識に触れると、それを振りかざして何にでも拡大解釈する。新興宗教も、それと同じ手法を使う。「この教えで何でも解決できる」と素朴な人々に教えるので、「そうか! 世界はこれほど簡単だったんだ!」とはまる人々が出る。
マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と書いた。マルクス主義自身が、そういう盲信・狂信を生み出したのも確かだが、素朴に信じることが盲信・狂信をうむのは確かだろう。
そういう風に考えてみると、盾を4分割して色分けする伝統的手法をさらっと応用できるSEALDsの文化的豊かさと、その事情を知らず、最近の報道で覚えた概念で批判する人々の非・豊かさは歴然としている。これは「陰謀論」的言説も同じことだ。「悪人が裏で手を回している」は、大衆文化でよく使われるお馴染みのストーリーだ。「共産党ガー」とテンションを上げる人々は、そのストーリーにはまっている。教養・知識・思考力に欠けているのに、検索技術だけはあるので、こんなことになるのだ。
そういえば、ハンナ・アレントは『全体主義の起源』の中で「排外主義は、貧乏人の社会主義である」と喝破した。ここでいう「貧乏人」とは、金の多寡ではない。なぜなら、アレントは「貧乏人」の例として、都市の中小商工業の人々を挙げているからだ。日本では、こういう人々は小金を貯めていることが多い。むしろ「貧乏」なのは、ブルデュー言うところの「文化資本」の差、つまり、豊かな教養・知識の環境にいたかどうかの差なのだ。
その意味で、SEALsが「意識高い系」であり、反対派が「社会的弱者」というのは言いすぎにしても、反対派が「社会意識的な弱者」であることは間違いないだろう。「知識・教養」という言葉は嫌な響きがあるので、あまり使いたくはないのだが、こういう文化的な差を見せられると、何ともやりきれない感じがする。
70年代の後、80年代から資本主義の保守化が始まった。「金が全て」となり、理想や言葉など役に立たないとされた。その傾向はずーっと続いて、その結果が今の政権の傲慢や言葉の軽さを生んでいる。そういう状況に対して、私は個人としては抵抗してきたつもりだったが、その力は全然足りなかったと思う。ある意味、私は70年以降、ずっと「敗北を抱きしめて」生きてきたような気がする。
私は、今度の法案反対運動はぜひ成功して、廃案に追い込んでほしい。しかし、その可能性は、今の自民・公明の議会での圧倒的な強さを考えると、必ずしも高くないかもしれない。それが議会制民主主義の限界だ。
それでも、今度の反対運動で「軽挙妄動の改革」に走ることはおかしい、という雰囲気は、中流の人々の間で確実に共有されたのは確かだ。だから、SEALDsなどの活躍は十分意味があると思うし、日本社会も捨てたものではなかったのだなとあらためて感じるのである。
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