2012年4月30日月曜日

添削者「卒業」雑感


 数年にわたり、スタッフとして添削を熱心にやってくれたA君が、このたびボカボを離れることになりました。ちょっと残念ですが、彼の将来が発展していくことを祈りたいと思います。「卒業」にあたり、彼が「添削者雑感」を書いてくれました。ボカボでは明確な添削基準があります。だから、人によって添削方針がぶれたりしないのですが、彼の「雑感」はそのへんの事情をよく表していると思います。ボカボで長年添削をやっている人なら、皆同じように感じると思うので、ここで紹介します。

●添削者雑感
私は、4年ほどボカボでスタッフをしていましたが、今年の4月から別の会社で働くことになりました。はじめはちょっとしたアルバイトのつもりでやってきたのですが、始めてみると意外に面白く、気がついてみると、時間があるときはほぼボカボに入り浸りという状態。しょっちゅう、他のメンバーと添削談義を交わすようになりました。

自分の文章には思い入れがあり、客観的に見るのはなかなか難しい。ですから、文章を書くのに悩んだら、文章の仕組みを知っている人に読んでもらい、ツッコミを入れてもらう機会をつくる。これが添削ですが、添削する側から見ると、これは「自分にとっての文章の理想とは何か」が毎回試される経験となります。

一つひとつの文章と向き合って、主張は何なのか、論証は十分か、具体例が適切か、そもそもこういう問題提起でいいのだろうか? 日々考えるので、自分が文章を書くときでも、自然にスキルも上達する。その意味で、添削した私こそ、文章が一番上達したのではないかと思います。受講者の皆さんも文章がうまくなりたかったら、ボカボ・スタッフになるのが手っ取り早いかも(笑)。

やってみて驚いたのが、解答者のおかす間違いには、ほぼ決まったパターンがあるということです。「…ではないだろうか」と大げさな修辞疑問文を多用したり、「人間というものは…」などと大風呂敷を広げてみたり、自分の体験から一般化せず、すぐ結論に飛びついたり、他人の目に自分がどのように見えているのか、意識が回らないようです。私たち添削者は、そのうちコメント・テンプレートを作って、皆で共有していました。

では、そういう表現の間違いを直せば、いい文章になるのか? そうでもないのですね。添削して整理すると、意外に平凡な発想になっていることがよく分かる。この意見はA新聞の社説そのままだよな、とか、TVでよく解説者が言ってることだよな、とか。自分の個性的な意見を言っているつもりでも、実はオウムのように他人の意見を繰り返しているだけのことが多い。「個性的な意見」に到達するのは大変なことだな、とため息が出ると同時に「自分も頑張らなきゃ」という思いに駆られました。

 そういえば、私の大学院の指導教授は、論文は、実は問題提起でほとんど評価が決まると言っていました。論証の過程などはやり方は決まっているので、減点するところでしかない。つまり、読んでおくべき先行論文への言及が抜けていないか、結論に至る論理に飛躍がないか、など、いちいちケチをつける態度で見るのだとか。ちゃんと訓練を受けた人が書くと、こういうところに遺漏はない。論証は出来ていて当たり前なのです。

 実際、論理の法則には個性はありません。高校のとき「PならばQ」という命題が成り立っても「QならばP」は必ずしも成り立たないことを学習したと思います。つまり、論理は一定の法則に支配されているので、個性を発揮する余地はほとんどない。自分の解決を読み手が納得する最善の論証をする。そうすると、大抵一つに決まります。だから、どんな問題を取りあげるかの方に、論文の価値はあるというわけです。

 でも、それは一流のプロのレベルですよね。受講生の皆さんも私も、まだ訓練の途中。やるべきことは、個性の追求であるより、まずきちんとした説得の仕方を習得し、どんなときでもそれを適用して文章が書ける段階に達することです。人から指摘されないでも、論証にケチをつけられないように、きっちり構成できなければならない。それがまだうまく出来ないから、ボカボで添削を受けたりしているので、個性が発揮できるような段階なら、そもそも添削を受ける必要はないのかもしれませんね。だから「構成を決めちゃったら、個性はどうするの?」なんて心配に接すると、いつも「あー、またか」と思っちゃうのですね。

同じことは、志望理由書にも言えます。志望理由書=自己アピールと考えて、自分の「美点」をずらずらと並べる人がいます。たとえば、大学の授業で良い成績をとったとか、大学の授業で○○を履修したから○○を習得しているといったエピソード。他に、TOEICの点数がいくつだとかを志望理由書の本文に記載する。添削者としては、ホントに困っちゃうのですよね。

世の中で、たぶん評価されそうだな、と思われることを羅列する。でも、これって逆に言えば「世の中ってそんなことで決まるんだよな」と舐めている態度に感じられるのでは? 志望理由書で欲しいのは、その人のくっきりした輪郭とパワーです。どんな仕事/研究が出来るのか、どこまで深く考えているか、似たような取り組みと比較しているか、取り組んでいる問題に発展性はありそうか、解決のためのスキルを持っているのか、持っていないとして2、3年で補充できそうか、どこまで情熱があるのか、そういうことだと思うのですよね。

 実際、大学の評価は一つの尺度ではありますが、それを見るためなら成績表でも見ればよい。そもそも、大学院に入るのなら、大学教員になる人々は、大学の成績はほぼすべてA(優)なので、そんなことをアピールしても始まらない。逆に経営者だったら、大学の評価に疑問を持つ場合も少なくないでしょう。世の中で通用する「評価」を、そのまま信じて、それを志望理由書に書く、という態度自体がすでにしてナイーヴすぎる。そう思われる確率が大きいと思いますよ

そんなことよりも、アルバイトでも仕事でも、あるいは遊びでも、自分の経験の中で問題を発見し、それを解決するためにどう考えて、どんなアクションをおこしたのか、うまくいかなかったときに、その原因は何だったのか、何を利用してどう対処したのか、といった主体的に行動した事実を具体的に書いた方が良いのにな〜、といつも思う。その上で、そのエピソードが「こういうことをやりたい」という志望理由と結びつくのが理想だし、読みがいがある。

添削を重ねれば重ねるほど、志望理由書を書くということは「自分が元々書きたかったこと」という源に溯ることだと感じるようになりました。もちろん、書き始めたときには、「自分が元々書きたかったこと」など見えているわけではない。むしろ、書き始めたときは「世間でよくあること」に引っ張られていく。でも、それを乗り越えて「本当に自分がやりたいこととは何か?」を突き詰めながら書いていく。そういうプロセスが出ている志望理由書に出会ったときは、本当に嬉しいし、自分がしたアドバイスにしたがって、文章がそういう方向に変わっていくと、添削冥利に尽きるな〜と思います。

この数年は、自分の将来の道が見つからない時期でもあり、苦しかった面もありますが、ボカボでの経験は役に立ったし、何がサーッと見晴らせるときもあり、本当に楽しかった。これからも、ボカボに協力できることは、なるべくしていきたいと思っています。受講者の皆さんも、自分の進むべき道に向かって、ぜひ頑張っていただきたいと思います。ありがとうございました。

2012年3月27日火曜日

日本語練習の必要

この間、友人から、とある有名大の教授連の書いた日本語論文集を英語に訳す仕事を依頼された。日本の学問をglobalにアピールするための文科省お墨付き事業らしい。もちろん、日本語から英語への翻訳などは私の本業ではないので、バイリンガルを中心に適任の人を探す役だ。ボカボは意外に人脈が広いので、そういう特殊な技能を持っている人は、けっこう見つかるのだ。

しかし、元になる日本語論文を送ってもらって驚いた。何を言っているか、さっぱり分からなかったからである。私はIT関係などまったく未知の分野の文章も添削・指導したこともある。知識がなくても、文章を見れば、論理関係は何とか読み取ることができるし、それをたどっていけば、言いたいこともたいてい分かる。

ITに比べれば、このような人文関係はずっと私の分野に近いから大丈夫。そう思っていたら、現実は想像を軽く超えていた。難しげな単語が並べられ、高みから評論するスタイルになっているのだが、何を伝えたいのか、わざわざ書く意義はどこにあるのか、さっぱり分からない。本当は原文を一部引用して例証したいところだが、職務上の秘密なので、それはできない。しかし、ホントに驚いた!

依頼元も半ばあきらめていたらしく「頭の痛くなるような日本語を、そのまま頭の痛くなるような英語に置き換えてくれればいいのです」と言ってきたのだが、それでは意味不明になるばかり。幸い、ボカボが見つけた翻訳者たちは、何とか頑張って比較的まともな英語に訳してくれたようだが、その苦労は大変だったと思う。

「アメリカでは……」なんて、嫌味な言い方をして申し訳ないけど、少なくともシカゴ大学では、論文を書くスキルを徹底的に仕込む。何を書いても意味不明にならないように、根本から改造されるのだ。明瞭な文の書き方やつなぎ方、単語の選び方、段落の構成、文章全体の構造など、内容・表現に関わる一般的ルールがたたき込まれ、身につけたかどうか、何回もエッセイを書かされる。

大学の名誉に賭けても、学生が意味不明な論文を書くのだけは絶対に許さない。もちろん、その結果として、才能がない人は、文意明瞭だけど面白くないものを書いてしまうことにもなるのだが、少なくとも、曖昧な文章でこけおどしすることはできない。なぜなら、明瞭に書かれているので、アイディアのくだらなさは誤魔化しようがなくなるからだ。「お前の考えは凡庸だ」と容赦なく指摘できる。

上記の論文集は、そういう共有のプラットフォームがない。だから、考えたことを何の構造もなしに書き連ね、何を言いたいのか分からないままに、外国語の引用が始まり、その分析は繁雑を極め、中途で論理が途切れる。当然の事ながら、結論も曖昧。個性を発揮したつもりで結局「こけおどし」に陥る。

これは、日本の大学で「文章の書き方」が教えられず、文章力が大学入試レベルで止まるからかもしれない。そもそも高校の国語教員の圧倒的多数が、国文科・国語科出身。前者は文学の解釈と鑑賞だし、後者は言語のフィールドワーク。論理的な文章の書き方については方法論をまったく持っていないのだ。「論文ってどうやって教えたらいいか、分からないんです」と言う。そこで教員の方々に方法を教えると「ああ、入試小論文はこうすればいいのですか?」とすごく喜ぶ。

違う!

私の教えたのは、入試用の書き方ではない。たんに論理的文章の正統的で普遍的な書き方なのだ。小論文は、別に珍問・奇問じゃない。書き方のルールが分かっていて、それをきちんと適用でき、元のアイディアがマシなら、だいたいO.K。それが分からず「さすが予備校に関わっていた人は違う」と褒められても、嬉しくない。

論理的な文章に熟達するには、母語教育でやるべきだと思う。自分が一番得意な言語で、高度な操り方を学ぶ。文法も単語もあやふやなままでは、論理を通すなんて作業は出来っこない。ところが、日本では、高校レベル以降、母語を教える方法論が消滅して、文科系教育の主流が外国語に移る。結局のところ、言語のスキルというと、単語・文法などの初歩的レベルを繰り返すだけなのである。

日本が文化途上国であった時代は、それでもよかった。なぜなら、人文系は海外文化の輸入業であったからだ。誰にでも分かるように書くより、貴重品を有り難そうに示せれば足りた。だから、曖昧でも論理不明瞭でも許されたのだろう。その事情が変わって発信ムードになったのに、身についた癖はなかなか直らない。そういうことかもしれない。

少なくとも、ボカボでは、具体的方法を提示して、そのあたりを突破しようと頑張ってきた。神保町の教室に来る人たちは、皆論理を操ることを覚える。今度も、小論文Weekend Gymが終わったばかりだが、参加者たちは、かなり鋳型に慣れてきた。そうすると論点も明確になるので、思考が他人にも見えやすくなり、対話のキャッチボールが弾む。当然、議論も白熱する。そういうときの参加者の顔は、輝くばかりに楽しそうだ。「論理が大事だ」などと説教をたれるより、こういう場を作るのが大切だろう。

次回のReal講座は、恒例「夏のセミナー」。それと「夏のプチゼミ」。さらにWEB添削講座は続行中だし、遠隔地の方でどうしても講師と直接やり取りしたい人にはskype個別コーチングもある。自分に合った方法でスキルを身につける。それは自分を変えていく楽しい経験である。ぜひご参加ください。

2012年2月13日月曜日

パブリックとプライヴェートのはざま

この間、奇妙な体験をした。私は、高校時代の友人たちと、メーリング・リスト(というか、ただのCCメールね)でいろいろ他愛のない意見を述べ合って楽しんでいたのだが、私が一人の発言をちょっと批判したところ、そいつの逆鱗に触れたらしい。「批判するなら、ちゃんと名指ししてやれ。そうでないと反論する気にもならない」と激怒のメールが来た。どうやら、病後の彼を刺激しないようにと婉曲な書き方をしたのだが、かえって悪かったようだ。

言い過ぎたかなと息を潜め、数日たってふとフェイスブックをのぞいてみたら、その人が「今やっているメーリングリストの中に馬鹿が一人紛れ込んでいて、見なきゃ良いのについ読んでむかつく」と書き込んでいる。取り巻き連から「馬鹿は死ななきゃ治らない。気にするなよ」「そうだよー、気にするなよ」と口々にいわれて「ありがとう。ようやく気が収まりました」と。

一瞬、呆気にとられた。自分が友人と思っていた人間が、こんなネガティヴな感情をため込んでいたのか。文句があるなら、反論してくればいいのに……おそらく、彼は私を友達承認していたのを忘れていたのだろう。私が見られるのを忘れて、「友達」に向かって憤懣をぶちまけ、心の平安を得た。

「なぜ、彼はこんなヘマをやったのか?」への第一の答えはこれ。しかし、もう少し深く考えると、第二の答えは、メディアをパブリック/プライヴェートという二分法で捉えていたから。メーリング・リストという議論の場では強がりつつ、フェイスブックの「友達」には陰口や愚痴を言う。まるで会社と飲み屋を往復するサラリーマンみたいに。

もちろん、SNSではこんな二分法では上手く行かない。陰口はいつのまにか公開され、相手に伝わる。純粋に私的な場所などどこにもない。むしろ、こっちでちょっと個人的事情に触れ、あっちでそれを戯画化して落ち着き、向こうでは一般化して批評したり、メディアの種類によって自分は別々に社会化される。ツイッターの時の自分と、フェイスブックの自分、メールの自分、ブログの自分は、どれもいくらかはパブリックで、いくらかはプライヴェートで、それぞれのメディアで独特のキャラに染め上げられる。二分法どころか多重人格的生活を送っているのだ。

もしかしたら、内面と外面という分け方自体が、文字とナマ、あるいはfileとliveという旧来のメディア状況に規定されていたのかもしれない。本やTVに自分の意見が出るには、何十にもスクリーニングされ、日常の自分とは似ても似つかぬものになる。だから、そこに表せない自分が内面として分離される。精神の中で初めから存在していたのではない。むしろ、媒体に載る内容と載らない内容という形式で、外面と内面という虚構が事後的に作り出されたのである。

逆に、ネット時代では、fileとliveの垣根は劇的に低くなる。スクリーニングはかからないからだ。クリックすれば、秘めたる思いだって、あっという間に電子空間を駆けめぐる。では、すべてがパブリックになるのか?それはもちろん無理。かつての表現者は、公的な手段の中に私的な思いを紛れ込ませるために絶えざる努力をしていた。その工夫がスタイルと呼ばれたのだ。でも、そんな修練にすべての人が耐えられるわけはない。私と公の混合具合を間違えて、至るところで行き過ぎや不足が生まれる。

当然、醜態があちこちでさらされる。場が荒れたり炎上したり。もしかしたら、私もどこかで醜態をさらしているかも。フェイスブックで飲み屋での会話みたいにリラックスしちゃっているのでは? いやいや、私はそんな間抜けじゃない。でも、ツイッターではどうか?ブログではどうか?あるいは著書の中では……

私がしばらくブログを書かなくなったのも、このへんの距離感がよくわからなくなったからだ。ブログの要求するパブリック度は強い。荒野で孤独な預言者が呼ばわるというか。聞いている人の反応はよく分からないから、言葉は強くなる。そもそも聞いている人がいるかどうかすら分からない。いっそう言葉を重ね、それがかえって不安にかき立て、さらに説明を重ねる。そのうちに、前に書いた言葉に引きずられて、今の自分の感じが言えなくなる。何回書き直しても、ブログがよそよそしくなる。そんなことが続いた挙げ句、書くのが辛くなってしまったのだ。

かわって力を入れだしたのが、ツイッターだ。その時思いついたことを、パッと言葉にする。格言のようになったり、ジョークになったり。それを読んだ人からコメントが来る。自分の頭の中の考えに、直接反響があったみたいで何となく快感を覚える。あえて喩えるなら、連歌などの座の文学かな。相手がどう出てくるか分からない中で、自分を変えていく。それに対する相手の返事に反応して、また言葉を紡ぐ。ゲームのような楽しさがある。

もちろん、連歌と大きく異なるのは、メンバーが固定化していないことだ。自分の言葉を投げかける相手は見知らぬ人だ。座の文学というより、市場で呼ばわる人か? それとも伝言ゲームか? 予想もできぬツッコミに応えているうちに、内容は次第にずれていく。そのずれが最初の前提を吟味し、論点を深める。たまには、嫌みや批判満載のツッコミも出てくるが、それもご愛敬か。とりあえず、言葉は個人の中に退蔵されず、人から人へとオープンに経巡る。

昔、モロッコの有名なジャマ・エル・フナ広場で、薬売りを見たことがある。目の前の木のボウルに赤・青・黄・黒など極彩色の粉末を並べ、それを混ぜながら口上を言う。マグレブ訛りのアラビア語なので一言も分からないが、見物からもツッコミが出てくる。それをいなしたり反論したりしながら、巧みに話を続ける。薬が売れるか売れないかより、このやり取りを、皆市場の雰囲気として楽しむ。公共的な議論空間とは、むしろ、こういうオープンな感覚とつながっているように思う。

それに対して、フェイスブックでは……もう止めよう。いずれにしろ、メディアが多様化することによって、自我の前提は大きく変化した。おかげで、前には隠されていたことも可視化され、メディアの狭間で人間の見え方も変わっている。ただ、分析と思弁をいくら繰り返したところで、私自身が醜態から逃れられるわけではない。それより、それぞれのメディアで実践しつつ、そこで通用する「自分」をtry & errorしながら形成していくしかないのだ。

最近、私は仕事でskypeを使うことも多くなった。New YorkやSouth Asiaと直接顔を見ながら授業をする。なかなか快適なのだが、さて、その中の「私」はどういうスタイルにとっているのか?多重メディアの中の多重自分。おそらく、今子供時代を過ごしている人々は、そんな世界を屁とも思わないで生き抜いていくのだろうけどね。

2011年12月29日木曜日

今年の結果と来年への抱負?

今年のボカボの結果も出そろいました。ロースクールは東大、阪大、早稲田、中央、明治、立命館などに合格者がたくさん。MBAは東工大、小樽商科大、早稲田など、これも例年以上です。大学受験は慶應SFCのAOなど。そのうちに、「合格者の声」とか「合格答案」などがどさどさっと出てくるでしょう。合格者の皆様、よろしくね。

さて、この頃、twitterで教育のことをつぶやくと、その度ごとに反応が妙に大きい。何でだろうね?たしかに、子供の教育は、これからの日本の将来を決めるという側面があるので、関心が強いのかもしれないけど、それにしても、子供の心配をするより、自分の心配をしたら、とつい思ってしまう。

私は、幸か不幸か子供がいないので、教育に関わっていながら、あまり教育を語ることに熱心になれない。というより、教育という営為はそもそも時間がかかり、非常に非効率なものなので、因果関係が明確に出ない。そのとき良いと思ったことでも、後から「何だかな」と感じることは少なくない。だから「こういう教育がよい」と、口角泡を飛ばして論じる人の気が知れないのだ。「あなた、何を根拠にそんなにの確信的に語るのですか?」って、つい聞き返したくなる。

実際、教育改革なんてだいたい失敗しているじゃないか? 直近の例では「ゆとり教育」。あれが始まった直後、公然と批判する人は少なかったと思う。「生きる力」とか「自分で考える力」だっけ? あれも反対は出来にくいスローガンだったと思う。でも、その結果はどうか?「学力低下が起こる」って、よってたかって非難しまくって、結局元に戻った。当初喧伝されていた「受験勉強批判」の高邁な理想はどこに行ったのかね?それと「教育再生会議」。ノーベル賞学者とか、熱血先生とか、水泳選手だとか、雑多な人々がよってたかって出した結論がお粗末だったのは記憶に新しい。

逆に、熱意を持った教師側が引っ張っていくスタイルの失敗もまた無惨に失敗している。有名な愛知管理教育がどういうものかは、もう30年も前に体験者が赤裸々に語っている。(内藤朝雄「〝熱中高校〟って何だ 愛知東郷高校で何がおこなわれているか」)体罰はし放題。校則は極限まで厳しくする。進学実績を上げるために、志望してもいない大学を受験させる。疑問を持った生徒が生徒会に立候補するのを妨害する。異分子はすぐ退学させる。

最近でも、愛知の某大企業が作った全寮制高校でガチガチの進学管理教育をやって、入学者が半減したとか。あるいは「教育再生会議」の某社長が理事長を務める高校でも、英検の不正事件が引き起こされた。事件後の対応が素晴らしい、なんてうがった意見もあるが、そもそも英検の成績を上げようと教師が不正の手伝いをする、という体質がおかしくはないか。結局、日本の企業家って「自由競争の精神」とか「次世代リーダー育成」とか、いろいろ口当たりの良いスローガンは出すけど、ほとんど日本の中に北朝鮮まがいの空間を作っているだけなのだ。どこが「自由経済」の旗手なのだろうか?。

かといって、生徒側の自主性を尊重しようとする左翼運動家の方法を取っても似たようなことが起こる。原武史は『滝山コミューン1974』の中で、日教組の全国生活指導協議会という団体の教師が、政治的手法で生徒の熱狂を煽り、結果的にどのように抑圧的な教育をしたか、克明に書いている。右でも左でも「理想の教育」を掲げる人間が、実際に教育を行うと、思想統制や洗脳に近いものとなってしまうのは、興味深い。

ここまで「理想の教育」の死屍累々たる様を見たら、外部の者が受け取るべき教訓は一つ。下手に外部から口を出してはいけない、ということではないだろうか? 効果が上がらなくても、進歩が遅々たるものに見えても、所詮人間の欲望や自然とは反する業務を行っているのだから、大目に見なくてはいけない。

もう教育制度の議論は止めたらどうか、と思う。教育の実質は制度なんかで決まるものではない。教師と生徒/学生が顔をつきあわせて、個人対個人の間で思考のやりとりをするという中にしかないのだ。それを現場でやってみる。

ボカボで行っている「教育」があるとしたら、それしかない。「自分はこの問題について、こう考える。あなたはどう考えるか。その根拠はどこにあるか」というやり取りするだけだ。ただし、そのやり取りでは「自分の考えられるギリギリの内容」を伝える。だから、相手からも「自分の考えられるギリギリの内容」が返ってくる。そういう双方向のコミュニケーションが成立すれば「自分の限度まで考え抜く」という姿勢が身につく。それだけで、だいたいはうまく行くのだ。

世の「教育制度改革」がだいたい失敗するのは、その具体的プロセスを無視して、結果を出そうとするからだ。だから英検の合格者数をあげようと不正をしたりする。だが、教育にはプロセスしかない。結果は後からついてくる。というより、結果を無視して熱中しなければ、結果は出ない。でないと、目的が自己の利益に偏り、徹底的に考える姿勢がなくなるからだ。自分の利益すら本当に大切なのか、と検討するのが、正当な理性の働きだ。

伝えられる情報/知識なんて時代とともに変わる。思い違いもあるし、エビデンスが足りなくて解決が出来ないこともしばしば。でも、徹底的に考える姿勢さえ身につけば、間違っても、後でいくらでも修正できる。もうボカボで10年やってきたけど、この方向はずっと変わらない。だから志望校には合格したけど、ボカボでの勉強はずっと続けたいですね、なんて受講者も出てくるのである。

さて、2012年はどういうことになるのか? さまざまな社会予測は飛び交うが、我々のやることは一つ。ステレオタイプの見方にかぶれたり、どっかから内部情報をもらって「得した」と感じたりすることではなく「自分で考えて問題点を発見し、その解決を考えぬく」ことだけ。そういう考えだけが「自分で選んだ、自分の生きるに値する人生」だと思うわけ。そのcreativityとrealityは見る人が見れば必ず分かる....

ちょっとエラそうな調子になりかかっちゃった。まあ、年末だからお許し願いたい。ボカボは来年も同じ姿勢で淡々とやります。だって、今までそれでちゃんと成功してきているんですからね。来年も、Real Schoolでは「小論文セミナー Weekend Gym」「法科大学院 適性試験Advanced」「大学入試 難関・慶應小論文 冬のプチゼミ」などいろいろ講座を準備しています。乞うご期待!

2011年11月26日土曜日

生産財としての読む技術

この頃「文章ブーム」らしい。そのせいだろうか「文章を書く」方の企画は、どんどん通って困るぐらい。私も来年は教育もの、論文術、反論術、など、あれこれ書かねばならないものが山積み。かなり忙しい。でも「文章を読む」方の企画は、いくつも出しているのだが、なかなか通らない。

なぜか? 編集者に言わせると「読解力では売れない」からだ。「自分が読解ができないと思っている人が本を買うわけがないでしょう。書くのなら、別だけど」。…一理ある。読者とは、本を読もうという人なのだから、自分で一応読む力はある、と思っている。そんな人に「読解力を向上させましょう」と言っても、ピンと来ない。読者心理としては、たしかにありそうだ。

でも、現場から言うと、文章を読むテクニックというのは、今の日本に一番必要なものだと思うのだけどね。私の実感では、読解力がない人、理解力がない人が日本には溢れている。インターネットで発信が容易になったのはいいけど、その分、受信の能力に注意を払わなくなった。発信に熱心な人ほど、相手を罵倒したりバカにしたりすることに一生懸命で、相手の言う「良き内容」を活かしていない。そのおかげで、膨大な時間の無駄が生ずる。

議論とは対話である、と私はずっと言ってきた。意見を言うのは、皆がその問題を気にしているからであり、根拠を出すのは、他の人からツッコミが入って応えるからであり、例示するのは理屈だけではイメージしにくい人がいるからである。つねに相手の言いそうなことを予想して、それにあらかじめ対処しておく。それが、問題・解決・根拠という議論の基本構造を形作る。

その意味で言えば、よい議論とは究極の「空気を読む」行為でもある。皆の心の中に出現しそうな、でもまだ言葉にはなっていない何かを取り出して、それを言葉化して、丁寧な検討を加える。だから、良い議論展開ができると、聴衆・読者が「あー、それが聞きたかったんだ」と溜飲を下げる。そういう構造になっている。だから、書く能力と読む能力は一体で切り離せない。

論文の添削をしているとよく分かるのだが、通常の人は10回も添削を受けると、ある程度レベルが上がる。構成の仕方、簡潔な表現の仕方、論理展開と例示の仕方、などを学んで、自分の言いたいことを整理する力がつくからだ。だが、中には10回を超えても、なかなか文章が向上しない人がいる。そういう人は、たいてい課題文が読めていない。思いこみで一方的に意見を言う。だから論理展開も出来なければ、良い例示も出来ない。技術を伝授しても、元々の理解がおかしいので、レベルが上がらないのだ。

大学院で訓練を受けたときも、毎週、本を読まされて、それについてかなりの量のレポートを書くというワンセットの訓練が延々と続いた。書くことは、自分の意見を形成するだけでよいのではない。まず相手の意見を受容して、理解・要約することから始まり、要約するのは自分の見方を確認することであり、その問題点を露わにすることである。このプロセスはすべてつながっていて、螺旋状に向上するしかない。よく読める人はよく書ける人でもある。

ところが、世の中には、議論とは、競争とか闘争のことだと勘違いしている人がいる。自分の主張が勝つか/相手の主張が勝つか、そればかりに集中する。自分の主張に刃向かう者がいると、しゃにむに潰そうとする。この前のエントリでも触れたが、自分に否定的なtweetを監視して、あらゆる手を使って消そうとしたり、ちょっと信じられない行動を取る人が出現してきた。自分の手を離れたら、作品なんてどう言われても仕方ない。そういうリベラルな態度をとれないのは、一種の偏執狂だろうね。

もちろん、私は勝ち負け自体を否定しているのではない。ゲームとはそういうものだ。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。議論もゲームなので、勝ち負けを度外視することはできない。しかし、そういう人はルールを無視しても勝ちに持ち込もうとする。人格攻撃をする、ムカツク・イラツクと自分の感情を露わにする、勝手なレッテルを貼り付け罵倒する、脅して相手を黙らせる、取引を持ちかけて手打ちにする、裏工作をして自分を有利にする、などなど。互いに公平に批判し合う、という関係が成り立たない。

こういう人たちの特徴は、思いこみが激しいこと。自分の中に、ガッチリとしたフィルターがあって、何を見ても聞いても、そのフィルターを通した歪んだ像しか見ない。相手の話を聞かない/理解しようとしないで、自分のイメージにまっしぐら。例が書いてあっても、自分流の意味で染め上げる。だから話がトンチンカンになって「よい対話を楽しむ」ことができない。何を見ても、勝ち負けという政治的原理しか思えないのである。

これを防ぐには「読む技法」を訓練して、相手の言うことをまっすぐ受け止めなければならない。私の立場では、文章は「感動」のための消費財でなくて、人と「交通」するための生産財だ。いくら感動しても、それだけでは自分は豊かにならない。他人を感動させられるような文章を自分でも作り出さねば「豊か」とは言えない。そのためには「豊かさ」のメカニズムを知る必要がある。自分が「好きな」文章の作られ方がどうなっているのか、理解せねばならない。そのうえで、何度も練習して身につける必要がある。

だけど、日本の学校では、読むことは「感情的共感」だと思われているらしく、分析的に把握する技術が教えられていない。技術が云々されるのは、受験テクニックだとバカにされる。「心をむなしうして読めばぴたりと分かる」なんて、readingは占いじゃないんだけどね。分析がないから、本を読めば「感動」するもんだと思いこむ。ときどき「先生の本を読んで感動しました!」と言われる。でも、私の本は、そういうタイプの本じゃない。感動なんてしなくてよいから、理解して役立ててくれればよろしい。

こういうベタベタした「共感」関係から離れて、顕微鏡で微生物を覗くみたいに、距離を取って吟味する、という姿勢にならないものか。感じる・昂奮するより、分かる・納得する。そのためには、主情的な文章理解を止めて、理性的にならねばならないのだが、今だに「美しい文章」なんて権威主義が国語教育でまかり通っているのを見ると、なかなか大変かなと思う。

ボカボでは、今年のロースクール、MBAの受験は一段落。やった結果はちゃんと出たと思います。来年から「小論文 Weekend Gym」を毎週土曜日に行います。小論文の講座はいろいろなところで行われていますが、内容・レベルはさまざま。文章の冷静な理解と表現、構成と分析の基本テクニックという点では、日本のどこにもない講座になると思いますよ。