この間、友人から、とある有名大の教授連の書いた日本語論文集を英語に訳す仕事を依頼された。日本の学問をglobalにアピールするための文科省お墨付き事業らしい。もちろん、日本語から英語への翻訳などは私の本業ではないので、バイリンガルを中心に適任の人を探す役だ。ボカボは意外に人脈が広いので、そういう特殊な技能を持っている人は、けっこう見つかるのだ。
しかし、元になる日本語論文を送ってもらって驚いた。何を言っているか、さっぱり分からなかったからである。私はIT関係などまったく未知の分野の文章も添削・指導したこともある。知識がなくても、文章を見れば、論理関係は何とか読み取ることができるし、それをたどっていけば、言いたいこともたいてい分かる。
ITに比べれば、このような人文関係はずっと私の分野に近いから大丈夫。そう思っていたら、現実は想像を軽く超えていた。難しげな単語が並べられ、高みから評論するスタイルになっているのだが、何を伝えたいのか、わざわざ書く意義はどこにあるのか、さっぱり分からない。本当は原文を一部引用して例証したいところだが、職務上の秘密なので、それはできない。しかし、ホントに驚いた!
依頼元も半ばあきらめていたらしく「頭の痛くなるような日本語を、そのまま頭の痛くなるような英語に置き換えてくれればいいのです」と言ってきたのだが、それでは意味不明になるばかり。幸い、ボカボが見つけた翻訳者たちは、何とか頑張って比較的まともな英語に訳してくれたようだが、その苦労は大変だったと思う。
「アメリカでは……」なんて、嫌味な言い方をして申し訳ないけど、少なくともシカゴ大学では、論文を書くスキルを徹底的に仕込む。何を書いても意味不明にならないように、根本から改造されるのだ。明瞭な文の書き方やつなぎ方、単語の選び方、段落の構成、文章全体の構造など、内容・表現に関わる一般的ルールがたたき込まれ、身につけたかどうか、何回もエッセイを書かされる。
大学の名誉に賭けても、学生が意味不明な論文を書くのだけは絶対に許さない。もちろん、その結果として、才能がない人は、文意明瞭だけど面白くないものを書いてしまうことにもなるのだが、少なくとも、曖昧な文章でこけおどしすることはできない。なぜなら、明瞭に書かれているので、アイディアのくだらなさは誤魔化しようがなくなるからだ。「お前の考えは凡庸だ」と容赦なく指摘できる。
上記の論文集は、そういう共有のプラットフォームがない。だから、考えたことを何の構造もなしに書き連ね、何を言いたいのか分からないままに、外国語の引用が始まり、その分析は繁雑を極め、中途で論理が途切れる。当然の事ながら、結論も曖昧。個性を発揮したつもりで結局「こけおどし」に陥る。
これは、日本の大学で「文章の書き方」が教えられず、文章力が大学入試レベルで止まるからかもしれない。そもそも高校の国語教員の圧倒的多数が、国文科・国語科出身。前者は文学の解釈と鑑賞だし、後者は言語のフィールドワーク。論理的な文章の書き方については方法論をまったく持っていないのだ。「論文ってどうやって教えたらいいか、分からないんです」と言う。そこで教員の方々に方法を教えると「ああ、入試小論文はこうすればいいのですか?」とすごく喜ぶ。
違う!
私の教えたのは、入試用の書き方ではない。たんに論理的文章の正統的で普遍的な書き方なのだ。小論文は、別に珍問・奇問じゃない。書き方のルールが分かっていて、それをきちんと適用でき、元のアイディアがマシなら、だいたいO.K。それが分からず「さすが予備校に関わっていた人は違う」と褒められても、嬉しくない。
論理的な文章に熟達するには、母語教育でやるべきだと思う。自分が一番得意な言語で、高度な操り方を学ぶ。文法も単語もあやふやなままでは、論理を通すなんて作業は出来っこない。ところが、日本では、高校レベル以降、母語を教える方法論が消滅して、文科系教育の主流が外国語に移る。結局のところ、言語のスキルというと、単語・文法などの初歩的レベルを繰り返すだけなのである。
日本が文化途上国であった時代は、それでもよかった。なぜなら、人文系は海外文化の輸入業であったからだ。誰にでも分かるように書くより、貴重品を有り難そうに示せれば足りた。だから、曖昧でも論理不明瞭でも許されたのだろう。その事情が変わって発信ムードになったのに、身についた癖はなかなか直らない。そういうことかもしれない。
少なくとも、ボカボでは、具体的方法を提示して、そのあたりを突破しようと頑張ってきた。神保町の教室に来る人たちは、皆論理を操ることを覚える。今度も、小論文Weekend Gymが終わったばかりだが、参加者たちは、かなり鋳型に慣れてきた。そうすると論点も明確になるので、思考が他人にも見えやすくなり、対話のキャッチボールが弾む。当然、議論も白熱する。そういうときの参加者の顔は、輝くばかりに楽しそうだ。「論理が大事だ」などと説教をたれるより、こういう場を作るのが大切だろう。
次回のReal講座は、恒例「夏のセミナー」。それと「夏のプチゼミ」。さらにWEB添削講座は続行中だし、遠隔地の方でどうしても講師と直接やり取りしたい人にはskype個別コーチングもある。自分に合った方法でスキルを身につける。それは自分を変えていく楽しい経験である。ぜひご参加ください。
しかし、元になる日本語論文を送ってもらって驚いた。何を言っているか、さっぱり分からなかったからである。私はIT関係などまったく未知の分野の文章も添削・指導したこともある。知識がなくても、文章を見れば、論理関係は何とか読み取ることができるし、それをたどっていけば、言いたいこともたいてい分かる。
ITに比べれば、このような人文関係はずっと私の分野に近いから大丈夫。そう思っていたら、現実は想像を軽く超えていた。難しげな単語が並べられ、高みから評論するスタイルになっているのだが、何を伝えたいのか、わざわざ書く意義はどこにあるのか、さっぱり分からない。本当は原文を一部引用して例証したいところだが、職務上の秘密なので、それはできない。しかし、ホントに驚いた!
依頼元も半ばあきらめていたらしく「頭の痛くなるような日本語を、そのまま頭の痛くなるような英語に置き換えてくれればいいのです」と言ってきたのだが、それでは意味不明になるばかり。幸い、ボカボが見つけた翻訳者たちは、何とか頑張って比較的まともな英語に訳してくれたようだが、その苦労は大変だったと思う。
「アメリカでは……」なんて、嫌味な言い方をして申し訳ないけど、少なくともシカゴ大学では、論文を書くスキルを徹底的に仕込む。何を書いても意味不明にならないように、根本から改造されるのだ。明瞭な文の書き方やつなぎ方、単語の選び方、段落の構成、文章全体の構造など、内容・表現に関わる一般的ルールがたたき込まれ、身につけたかどうか、何回もエッセイを書かされる。
大学の名誉に賭けても、学生が意味不明な論文を書くのだけは絶対に許さない。もちろん、その結果として、才能がない人は、文意明瞭だけど面白くないものを書いてしまうことにもなるのだが、少なくとも、曖昧な文章でこけおどしすることはできない。なぜなら、明瞭に書かれているので、アイディアのくだらなさは誤魔化しようがなくなるからだ。「お前の考えは凡庸だ」と容赦なく指摘できる。
上記の論文集は、そういう共有のプラットフォームがない。だから、考えたことを何の構造もなしに書き連ね、何を言いたいのか分からないままに、外国語の引用が始まり、その分析は繁雑を極め、中途で論理が途切れる。当然の事ながら、結論も曖昧。個性を発揮したつもりで結局「こけおどし」に陥る。
これは、日本の大学で「文章の書き方」が教えられず、文章力が大学入試レベルで止まるからかもしれない。そもそも高校の国語教員の圧倒的多数が、国文科・国語科出身。前者は文学の解釈と鑑賞だし、後者は言語のフィールドワーク。論理的な文章の書き方については方法論をまったく持っていないのだ。「論文ってどうやって教えたらいいか、分からないんです」と言う。そこで教員の方々に方法を教えると「ああ、入試小論文はこうすればいいのですか?」とすごく喜ぶ。
違う!
私の教えたのは、入試用の書き方ではない。たんに論理的文章の正統的で普遍的な書き方なのだ。小論文は、別に珍問・奇問じゃない。書き方のルールが分かっていて、それをきちんと適用でき、元のアイディアがマシなら、だいたいO.K。それが分からず「さすが予備校に関わっていた人は違う」と褒められても、嬉しくない。
論理的な文章に熟達するには、母語教育でやるべきだと思う。自分が一番得意な言語で、高度な操り方を学ぶ。文法も単語もあやふやなままでは、論理を通すなんて作業は出来っこない。ところが、日本では、高校レベル以降、母語を教える方法論が消滅して、文科系教育の主流が外国語に移る。結局のところ、言語のスキルというと、単語・文法などの初歩的レベルを繰り返すだけなのである。
日本が文化途上国であった時代は、それでもよかった。なぜなら、人文系は海外文化の輸入業であったからだ。誰にでも分かるように書くより、貴重品を有り難そうに示せれば足りた。だから、曖昧でも論理不明瞭でも許されたのだろう。その事情が変わって発信ムードになったのに、身についた癖はなかなか直らない。そういうことかもしれない。
少なくとも、ボカボでは、具体的方法を提示して、そのあたりを突破しようと頑張ってきた。神保町の教室に来る人たちは、皆論理を操ることを覚える。今度も、小論文Weekend Gymが終わったばかりだが、参加者たちは、かなり鋳型に慣れてきた。そうすると論点も明確になるので、思考が他人にも見えやすくなり、対話のキャッチボールが弾む。当然、議論も白熱する。そういうときの参加者の顔は、輝くばかりに楽しそうだ。「論理が大事だ」などと説教をたれるより、こういう場を作るのが大切だろう。
次回のReal講座は、恒例「夏のセミナー」。それと「夏のプチゼミ」。さらにWEB添削講座は続行中だし、遠隔地の方でどうしても講師と直接やり取りしたい人にはskype個別コーチングもある。自分に合った方法でスキルを身につける。それは自分を変えていく楽しい経験である。ぜひご参加ください。
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