2012年2月13日月曜日

パブリックとプライヴェートのはざま

この間、奇妙な体験をした。私は、高校時代の友人たちと、メーリング・リスト(というか、ただのCCメールね)でいろいろ他愛のない意見を述べ合って楽しんでいたのだが、私が一人の発言をちょっと批判したところ、そいつの逆鱗に触れたらしい。「批判するなら、ちゃんと名指ししてやれ。そうでないと反論する気にもならない」と激怒のメールが来た。どうやら、病後の彼を刺激しないようにと婉曲な書き方をしたのだが、かえって悪かったようだ。

言い過ぎたかなと息を潜め、数日たってふとフェイスブックをのぞいてみたら、その人が「今やっているメーリングリストの中に馬鹿が一人紛れ込んでいて、見なきゃ良いのについ読んでむかつく」と書き込んでいる。取り巻き連から「馬鹿は死ななきゃ治らない。気にするなよ」「そうだよー、気にするなよ」と口々にいわれて「ありがとう。ようやく気が収まりました」と。

一瞬、呆気にとられた。自分が友人と思っていた人間が、こんなネガティヴな感情をため込んでいたのか。文句があるなら、反論してくればいいのに……おそらく、彼は私を友達承認していたのを忘れていたのだろう。私が見られるのを忘れて、「友達」に向かって憤懣をぶちまけ、心の平安を得た。

「なぜ、彼はこんなヘマをやったのか?」への第一の答えはこれ。しかし、もう少し深く考えると、第二の答えは、メディアをパブリック/プライヴェートという二分法で捉えていたから。メーリング・リストという議論の場では強がりつつ、フェイスブックの「友達」には陰口や愚痴を言う。まるで会社と飲み屋を往復するサラリーマンみたいに。

もちろん、SNSではこんな二分法では上手く行かない。陰口はいつのまにか公開され、相手に伝わる。純粋に私的な場所などどこにもない。むしろ、こっちでちょっと個人的事情に触れ、あっちでそれを戯画化して落ち着き、向こうでは一般化して批評したり、メディアの種類によって自分は別々に社会化される。ツイッターの時の自分と、フェイスブックの自分、メールの自分、ブログの自分は、どれもいくらかはパブリックで、いくらかはプライヴェートで、それぞれのメディアで独特のキャラに染め上げられる。二分法どころか多重人格的生活を送っているのだ。

もしかしたら、内面と外面という分け方自体が、文字とナマ、あるいはfileとliveという旧来のメディア状況に規定されていたのかもしれない。本やTVに自分の意見が出るには、何十にもスクリーニングされ、日常の自分とは似ても似つかぬものになる。だから、そこに表せない自分が内面として分離される。精神の中で初めから存在していたのではない。むしろ、媒体に載る内容と載らない内容という形式で、外面と内面という虚構が事後的に作り出されたのである。

逆に、ネット時代では、fileとliveの垣根は劇的に低くなる。スクリーニングはかからないからだ。クリックすれば、秘めたる思いだって、あっという間に電子空間を駆けめぐる。では、すべてがパブリックになるのか?それはもちろん無理。かつての表現者は、公的な手段の中に私的な思いを紛れ込ませるために絶えざる努力をしていた。その工夫がスタイルと呼ばれたのだ。でも、そんな修練にすべての人が耐えられるわけはない。私と公の混合具合を間違えて、至るところで行き過ぎや不足が生まれる。

当然、醜態があちこちでさらされる。場が荒れたり炎上したり。もしかしたら、私もどこかで醜態をさらしているかも。フェイスブックで飲み屋での会話みたいにリラックスしちゃっているのでは? いやいや、私はそんな間抜けじゃない。でも、ツイッターではどうか?ブログではどうか?あるいは著書の中では……

私がしばらくブログを書かなくなったのも、このへんの距離感がよくわからなくなったからだ。ブログの要求するパブリック度は強い。荒野で孤独な預言者が呼ばわるというか。聞いている人の反応はよく分からないから、言葉は強くなる。そもそも聞いている人がいるかどうかすら分からない。いっそう言葉を重ね、それがかえって不安にかき立て、さらに説明を重ねる。そのうちに、前に書いた言葉に引きずられて、今の自分の感じが言えなくなる。何回書き直しても、ブログがよそよそしくなる。そんなことが続いた挙げ句、書くのが辛くなってしまったのだ。

かわって力を入れだしたのが、ツイッターだ。その時思いついたことを、パッと言葉にする。格言のようになったり、ジョークになったり。それを読んだ人からコメントが来る。自分の頭の中の考えに、直接反響があったみたいで何となく快感を覚える。あえて喩えるなら、連歌などの座の文学かな。相手がどう出てくるか分からない中で、自分を変えていく。それに対する相手の返事に反応して、また言葉を紡ぐ。ゲームのような楽しさがある。

もちろん、連歌と大きく異なるのは、メンバーが固定化していないことだ。自分の言葉を投げかける相手は見知らぬ人だ。座の文学というより、市場で呼ばわる人か? それとも伝言ゲームか? 予想もできぬツッコミに応えているうちに、内容は次第にずれていく。そのずれが最初の前提を吟味し、論点を深める。たまには、嫌みや批判満載のツッコミも出てくるが、それもご愛敬か。とりあえず、言葉は個人の中に退蔵されず、人から人へとオープンに経巡る。

昔、モロッコの有名なジャマ・エル・フナ広場で、薬売りを見たことがある。目の前の木のボウルに赤・青・黄・黒など極彩色の粉末を並べ、それを混ぜながら口上を言う。マグレブ訛りのアラビア語なので一言も分からないが、見物からもツッコミが出てくる。それをいなしたり反論したりしながら、巧みに話を続ける。薬が売れるか売れないかより、このやり取りを、皆市場の雰囲気として楽しむ。公共的な議論空間とは、むしろ、こういうオープンな感覚とつながっているように思う。

それに対して、フェイスブックでは……もう止めよう。いずれにしろ、メディアが多様化することによって、自我の前提は大きく変化した。おかげで、前には隠されていたことも可視化され、メディアの狭間で人間の見え方も変わっている。ただ、分析と思弁をいくら繰り返したところで、私自身が醜態から逃れられるわけではない。それより、それぞれのメディアで実践しつつ、そこで通用する「自分」をtry & errorしながら形成していくしかないのだ。

最近、私は仕事でskypeを使うことも多くなった。New YorkやSouth Asiaと直接顔を見ながら授業をする。なかなか快適なのだが、さて、その中の「私」はどういうスタイルにとっているのか?多重メディアの中の多重自分。おそらく、今子供時代を過ごしている人々は、そんな世界を屁とも思わないで生き抜いていくのだろうけどね。

2011年12月29日木曜日

今年の結果と来年への抱負?

今年のボカボの結果も出そろいました。ロースクールは東大、阪大、早稲田、中央、明治、立命館などに合格者がたくさん。MBAは東工大、小樽商科大、早稲田など、これも例年以上です。大学受験は慶應SFCのAOなど。そのうちに、「合格者の声」とか「合格答案」などがどさどさっと出てくるでしょう。合格者の皆様、よろしくね。

さて、この頃、twitterで教育のことをつぶやくと、その度ごとに反応が妙に大きい。何でだろうね?たしかに、子供の教育は、これからの日本の将来を決めるという側面があるので、関心が強いのかもしれないけど、それにしても、子供の心配をするより、自分の心配をしたら、とつい思ってしまう。

私は、幸か不幸か子供がいないので、教育に関わっていながら、あまり教育を語ることに熱心になれない。というより、教育という営為はそもそも時間がかかり、非常に非効率なものなので、因果関係が明確に出ない。そのとき良いと思ったことでも、後から「何だかな」と感じることは少なくない。だから「こういう教育がよい」と、口角泡を飛ばして論じる人の気が知れないのだ。「あなた、何を根拠にそんなにの確信的に語るのですか?」って、つい聞き返したくなる。

実際、教育改革なんてだいたい失敗しているじゃないか? 直近の例では「ゆとり教育」。あれが始まった直後、公然と批判する人は少なかったと思う。「生きる力」とか「自分で考える力」だっけ? あれも反対は出来にくいスローガンだったと思う。でも、その結果はどうか?「学力低下が起こる」って、よってたかって非難しまくって、結局元に戻った。当初喧伝されていた「受験勉強批判」の高邁な理想はどこに行ったのかね?それと「教育再生会議」。ノーベル賞学者とか、熱血先生とか、水泳選手だとか、雑多な人々がよってたかって出した結論がお粗末だったのは記憶に新しい。

逆に、熱意を持った教師側が引っ張っていくスタイルの失敗もまた無惨に失敗している。有名な愛知管理教育がどういうものかは、もう30年も前に体験者が赤裸々に語っている。(内藤朝雄「〝熱中高校〟って何だ 愛知東郷高校で何がおこなわれているか」)体罰はし放題。校則は極限まで厳しくする。進学実績を上げるために、志望してもいない大学を受験させる。疑問を持った生徒が生徒会に立候補するのを妨害する。異分子はすぐ退学させる。

最近でも、愛知の某大企業が作った全寮制高校でガチガチの進学管理教育をやって、入学者が半減したとか。あるいは「教育再生会議」の某社長が理事長を務める高校でも、英検の不正事件が引き起こされた。事件後の対応が素晴らしい、なんてうがった意見もあるが、そもそも英検の成績を上げようと教師が不正の手伝いをする、という体質がおかしくはないか。結局、日本の企業家って「自由競争の精神」とか「次世代リーダー育成」とか、いろいろ口当たりの良いスローガンは出すけど、ほとんど日本の中に北朝鮮まがいの空間を作っているだけなのだ。どこが「自由経済」の旗手なのだろうか?。

かといって、生徒側の自主性を尊重しようとする左翼運動家の方法を取っても似たようなことが起こる。原武史は『滝山コミューン1974』の中で、日教組の全国生活指導協議会という団体の教師が、政治的手法で生徒の熱狂を煽り、結果的にどのように抑圧的な教育をしたか、克明に書いている。右でも左でも「理想の教育」を掲げる人間が、実際に教育を行うと、思想統制や洗脳に近いものとなってしまうのは、興味深い。

ここまで「理想の教育」の死屍累々たる様を見たら、外部の者が受け取るべき教訓は一つ。下手に外部から口を出してはいけない、ということではないだろうか? 効果が上がらなくても、進歩が遅々たるものに見えても、所詮人間の欲望や自然とは反する業務を行っているのだから、大目に見なくてはいけない。

もう教育制度の議論は止めたらどうか、と思う。教育の実質は制度なんかで決まるものではない。教師と生徒/学生が顔をつきあわせて、個人対個人の間で思考のやりとりをするという中にしかないのだ。それを現場でやってみる。

ボカボで行っている「教育」があるとしたら、それしかない。「自分はこの問題について、こう考える。あなたはどう考えるか。その根拠はどこにあるか」というやり取りするだけだ。ただし、そのやり取りでは「自分の考えられるギリギリの内容」を伝える。だから、相手からも「自分の考えられるギリギリの内容」が返ってくる。そういう双方向のコミュニケーションが成立すれば「自分の限度まで考え抜く」という姿勢が身につく。それだけで、だいたいはうまく行くのだ。

世の「教育制度改革」がだいたい失敗するのは、その具体的プロセスを無視して、結果を出そうとするからだ。だから英検の合格者数をあげようと不正をしたりする。だが、教育にはプロセスしかない。結果は後からついてくる。というより、結果を無視して熱中しなければ、結果は出ない。でないと、目的が自己の利益に偏り、徹底的に考える姿勢がなくなるからだ。自分の利益すら本当に大切なのか、と検討するのが、正当な理性の働きだ。

伝えられる情報/知識なんて時代とともに変わる。思い違いもあるし、エビデンスが足りなくて解決が出来ないこともしばしば。でも、徹底的に考える姿勢さえ身につけば、間違っても、後でいくらでも修正できる。もうボカボで10年やってきたけど、この方向はずっと変わらない。だから志望校には合格したけど、ボカボでの勉強はずっと続けたいですね、なんて受講者も出てくるのである。

さて、2012年はどういうことになるのか? さまざまな社会予測は飛び交うが、我々のやることは一つ。ステレオタイプの見方にかぶれたり、どっかから内部情報をもらって「得した」と感じたりすることではなく「自分で考えて問題点を発見し、その解決を考えぬく」ことだけ。そういう考えだけが「自分で選んだ、自分の生きるに値する人生」だと思うわけ。そのcreativityとrealityは見る人が見れば必ず分かる....

ちょっとエラそうな調子になりかかっちゃった。まあ、年末だからお許し願いたい。ボカボは来年も同じ姿勢で淡々とやります。だって、今までそれでちゃんと成功してきているんですからね。来年も、Real Schoolでは「小論文セミナー Weekend Gym」「法科大学院 適性試験Advanced」「大学入試 難関・慶應小論文 冬のプチゼミ」などいろいろ講座を準備しています。乞うご期待!

2011年11月26日土曜日

生産財としての読む技術

この頃「文章ブーム」らしい。そのせいだろうか「文章を書く」方の企画は、どんどん通って困るぐらい。私も来年は教育もの、論文術、反論術、など、あれこれ書かねばならないものが山積み。かなり忙しい。でも「文章を読む」方の企画は、いくつも出しているのだが、なかなか通らない。

なぜか? 編集者に言わせると「読解力では売れない」からだ。「自分が読解ができないと思っている人が本を買うわけがないでしょう。書くのなら、別だけど」。…一理ある。読者とは、本を読もうという人なのだから、自分で一応読む力はある、と思っている。そんな人に「読解力を向上させましょう」と言っても、ピンと来ない。読者心理としては、たしかにありそうだ。

でも、現場から言うと、文章を読むテクニックというのは、今の日本に一番必要なものだと思うのだけどね。私の実感では、読解力がない人、理解力がない人が日本には溢れている。インターネットで発信が容易になったのはいいけど、その分、受信の能力に注意を払わなくなった。発信に熱心な人ほど、相手を罵倒したりバカにしたりすることに一生懸命で、相手の言う「良き内容」を活かしていない。そのおかげで、膨大な時間の無駄が生ずる。

議論とは対話である、と私はずっと言ってきた。意見を言うのは、皆がその問題を気にしているからであり、根拠を出すのは、他の人からツッコミが入って応えるからであり、例示するのは理屈だけではイメージしにくい人がいるからである。つねに相手の言いそうなことを予想して、それにあらかじめ対処しておく。それが、問題・解決・根拠という議論の基本構造を形作る。

その意味で言えば、よい議論とは究極の「空気を読む」行為でもある。皆の心の中に出現しそうな、でもまだ言葉にはなっていない何かを取り出して、それを言葉化して、丁寧な検討を加える。だから、良い議論展開ができると、聴衆・読者が「あー、それが聞きたかったんだ」と溜飲を下げる。そういう構造になっている。だから、書く能力と読む能力は一体で切り離せない。

論文の添削をしているとよく分かるのだが、通常の人は10回も添削を受けると、ある程度レベルが上がる。構成の仕方、簡潔な表現の仕方、論理展開と例示の仕方、などを学んで、自分の言いたいことを整理する力がつくからだ。だが、中には10回を超えても、なかなか文章が向上しない人がいる。そういう人は、たいてい課題文が読めていない。思いこみで一方的に意見を言う。だから論理展開も出来なければ、良い例示も出来ない。技術を伝授しても、元々の理解がおかしいので、レベルが上がらないのだ。

大学院で訓練を受けたときも、毎週、本を読まされて、それについてかなりの量のレポートを書くというワンセットの訓練が延々と続いた。書くことは、自分の意見を形成するだけでよいのではない。まず相手の意見を受容して、理解・要約することから始まり、要約するのは自分の見方を確認することであり、その問題点を露わにすることである。このプロセスはすべてつながっていて、螺旋状に向上するしかない。よく読める人はよく書ける人でもある。

ところが、世の中には、議論とは、競争とか闘争のことだと勘違いしている人がいる。自分の主張が勝つか/相手の主張が勝つか、そればかりに集中する。自分の主張に刃向かう者がいると、しゃにむに潰そうとする。この前のエントリでも触れたが、自分に否定的なtweetを監視して、あらゆる手を使って消そうとしたり、ちょっと信じられない行動を取る人が出現してきた。自分の手を離れたら、作品なんてどう言われても仕方ない。そういうリベラルな態度をとれないのは、一種の偏執狂だろうね。

もちろん、私は勝ち負け自体を否定しているのではない。ゲームとはそういうものだ。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。議論もゲームなので、勝ち負けを度外視することはできない。しかし、そういう人はルールを無視しても勝ちに持ち込もうとする。人格攻撃をする、ムカツク・イラツクと自分の感情を露わにする、勝手なレッテルを貼り付け罵倒する、脅して相手を黙らせる、取引を持ちかけて手打ちにする、裏工作をして自分を有利にする、などなど。互いに公平に批判し合う、という関係が成り立たない。

こういう人たちの特徴は、思いこみが激しいこと。自分の中に、ガッチリとしたフィルターがあって、何を見ても聞いても、そのフィルターを通した歪んだ像しか見ない。相手の話を聞かない/理解しようとしないで、自分のイメージにまっしぐら。例が書いてあっても、自分流の意味で染め上げる。だから話がトンチンカンになって「よい対話を楽しむ」ことができない。何を見ても、勝ち負けという政治的原理しか思えないのである。

これを防ぐには「読む技法」を訓練して、相手の言うことをまっすぐ受け止めなければならない。私の立場では、文章は「感動」のための消費財でなくて、人と「交通」するための生産財だ。いくら感動しても、それだけでは自分は豊かにならない。他人を感動させられるような文章を自分でも作り出さねば「豊か」とは言えない。そのためには「豊かさ」のメカニズムを知る必要がある。自分が「好きな」文章の作られ方がどうなっているのか、理解せねばならない。そのうえで、何度も練習して身につける必要がある。

だけど、日本の学校では、読むことは「感情的共感」だと思われているらしく、分析的に把握する技術が教えられていない。技術が云々されるのは、受験テクニックだとバカにされる。「心をむなしうして読めばぴたりと分かる」なんて、readingは占いじゃないんだけどね。分析がないから、本を読めば「感動」するもんだと思いこむ。ときどき「先生の本を読んで感動しました!」と言われる。でも、私の本は、そういうタイプの本じゃない。感動なんてしなくてよいから、理解して役立ててくれればよろしい。

こういうベタベタした「共感」関係から離れて、顕微鏡で微生物を覗くみたいに、距離を取って吟味する、という姿勢にならないものか。感じる・昂奮するより、分かる・納得する。そのためには、主情的な文章理解を止めて、理性的にならねばならないのだが、今だに「美しい文章」なんて権威主義が国語教育でまかり通っているのを見ると、なかなか大変かなと思う。

ボカボでは、今年のロースクール、MBAの受験は一段落。やった結果はちゃんと出たと思います。来年から「小論文 Weekend Gym」を毎週土曜日に行います。小論文の講座はいろいろなところで行われていますが、内容・レベルはさまざま。文章の冷静な理解と表現、構成と分析の基本テクニックという点では、日本のどこにもない講座になると思いますよ。

2011年10月31日月曜日

ディベート好きの議論下手!

この一両日ほどTwitter上で、京大准教授T氏なる人と論争していた。ことのおこりは、編集者に彼のディベートの本を勧められたこと。読んだら初歩的でびっくり。「主張には根拠を出す」という、通常の解説なら最初の30ページで終わることで終始する。Twitterを見ると、やや言葉はキツかったが、批判的な意見も書き込んである。同感なのでRT。ところが、その次の日、T氏から妙なtweetが来ていた。

「黙殺されるのも自由ですが、論文指導業界には残念ながら、そう言う方もいるのだなと認識させて頂きます」

???? 私が何を「黙殺」したというのか?しかも「そう言う方もいるのだな」とは、何の喧嘩を売っているのだ?

TLをみると、どうやらT氏が批判tweetを見つけて「どういうことだ!」と文句をつけたようだ。相手は面倒だと思ったのか「ただのつぶやきです」と弁解。そしたら、Tは「最初のtweetを取り消せ!」と迫ったらしい。そこまで工作しておいて、私宛に「RT する前にその後のやりとりもチェックいただけるとよいと思いますが」と書いたことが分かった。

でも、どうなんですかね、こういう態度。

私は、twitterは自由な発言の場だと思っている。デマ・中傷は別として、作品に対する評価は自由だ。とくに一度出版したものなら、評価は読者に委ねるべきだ。それを、自分に気に入らない書評を見つけるや、しゃにむに潰しにかかるとは、ちょっと執念深すぎやしないか?私の返事。

「…似たような第一印象の人がいたのでRTしただけ。『その後のやりとり』も見ましたが読者をやりこめるのは?? でもこのような初歩的内容を京大でやられているとは状況憂慮すべきですね。私は高校講演でももう少し先まで話しています」

そしたら、次のようなリプライ。

「本はあくまでもエッセンスですから。大学の授業でははるかに先をやります。あとは、演習リサーチが大半を占めます」

でも、これじゃ「東大×京大×マッキンゼーの最強授業」という売り文句と違い、京大の授業と関係ないと認めているようなもの。弁解としてもうまくない。そんなわけでさらに追求。

「要するに新書は総論ということですね。ただ、…原理はこれだけ?という思いを禁じ得ません」

彼のリプライ。

「ディベートとしての基本原理は突き詰めれば極めてシンプルで、事例も新書一般読者に解けるものにしてあります。この本を見て京大のレベルを勝手に想像されたりとか…ご自分が持ってきたい方向の議論で挑発されている様に思いますが、的外れです」

ようやく自身の発言の不用意さに気づいたらしい。だけど、読者が本から想像するのは当然の権利。本だけで判断するな、と文句をつけるより、むしろ講義の高度なレベルを描写するのが筆者のつとめだろう。それが出来ないままに「的外れ」と言うのもどうかな。

もちろん私は「挑発」していない。本の評価をしているだけ。T氏も認めるように、この本は「極めてシンプル」…すぎで、もっと前に理解しておくべき内容だ。実際、私は「主張には根拠が必要だ」と高校での講演の最初の部分で触れる。もし、これを大学であらためて教える必要があるなら、レベルが低すぎる気がする。実際、後でT氏は次のように述べている。

「(この本の)大元って、SEG(数学中心の大学受験予備校) の春期講習でディベートの授業をやった所から始まっているのですよ。…医学部受験生を念頭に置いた…授業だったので、安楽死とか出生前診断とか代理母とかも扱って、自己決定とその限界みたいな話もしました。…そう言う意味では、かなり意識の高い中学生もターゲットだったわけです。そこから、取捨選択をして、…現在の本を作った」

つまり,これは予備校の医学部受験生向け講義だったわけ。なるほど、それなら分かる。医学系小論文なんかでは、面倒な問題が頻繁に出てくる。当然、賛成/反対が拮抗する。ディベートすると、自分で立論を考えて両論の理屈がより分かる。とくに、大学受験など知識を覚える作業ばかりを強いられていると、思考を刺激されてたしかに面白い。

でも、ディベートで両論を理解すれば、代理母の問題を確信を持って是認/否定できるわけではない。むしろ、対立がハッキリして、どちらにも一応の理があることが分かる。だから、現場の医療者だって考えれば考えるほど、問題の困難さの前に立ちすくむ。そういう構造になっている。それを「ディベートさえやればサクサク決断できますよ」と煽るのはちょっと違うのでは? そこでもう一度確認のtweet。

「つまり、あの本の内容は京大で実際におやりになっている授業とは関係がないわけですね?」

彼のリプライ。
「関係なくはないですね。レジメの大半を、採用してます…」

急に調子が弱くなった。

「…ご自身のポジショントークだと思うし、吉岡さんは吉岡さんのビジネスをやっていれば良いでしょう。吉岡さんがどういうバックグラウンドの方かよくわかったのでもう気にしません」

都合が悪くなって議論からの逃走にかかったみたい。でも、議論の相手に対して「ポジショントーク」はやや失礼。あなたが批判するのは、悪意があるからだ。だからもう「気にしない」し、聞くつもりもない、だって!?

でも、悪意を指摘しても、相手の主張の正当性は一ミリも後退しない。あくまで中身に従って論破しなくてはならない。この論法だと、彼を批判する人はすべて自分を陥れて、自分の利益を拡大しようとする「ビジネス上のライバル」になる。実際、T氏は次第に脱線し、私の素性/素行調査に精出す。

「気になったのが、吉岡さんのいう『関係』概念がゼロイチの点です。具体的には…書籍の内容が平易すぎれば当然授業も平易であり学生レベルも低いというところです。…残念ながら、吉岡さんの指導教官や卒論、修士論文をチェックできなかったので、ハッキリしませんが、社会構造を割と一体でとらえる古典的な理論に近い人なのかなと感じました。時代的には吉田民人さんとかだと何となく整合します。富永健一さんではないだろうなと」

人の過去を詮索するのは勝手だけど、この批判もおかしい。教授の影響で学生が同じ発想をする?でも、それこそゼロイチ思考、つまり「社会構造を割と一体でとらえる古典的な理論」だろう。

どうも、この人は議論するうちに、自分の主張と矛盾することを言い出す癖があるらしい。これでディベートなんて危なっかしくて仕方がない。付け加えると彼の推理も間違い。私はれっきとした富永健一ゼミ。もっとも不肖の弟子で、富永先生はまったく私のことを覚えていなかった。こんな風に、教師と弟子はすれ違う場合もあるのだ。

「…お互い、ジセダイの若者の育成に戻りませんか?私の本は結構有名な大学の基礎ゼミでも推薦されているらしいのでその点から大学の学力低下を批判されるのは正当だと思いますし、またそのギャップを埋めることを吉岡さんがビジネスにされているわけですから」

地方の談合じゃあるまいし。私は同業扱いされたくないなー。「結構有名な大学の基礎ゼミでも推薦されている」と権威主義を丸出しにしたあげく、「吉岡さん」も「ビジネスに」しているから「お互い」様でしょう、とウヤムヤにする。何だかオヤジっぽい。そもそも、教育の話なのに、いつの間にかビジネスの話にするのは「論点のすり替え」だと思うけど。

以上、彼の議論の特徴を列挙すると以下のとおり。

1 他者からの批判を許さない/拒否する
2 批判者から容易に突っ込まれる主張をする
3 批判をポジショントークだと反撃する
4 自己矛盾した議論をする
5 自己の正当性を権威に訴える
6 一方的に論点をすり替える

どれも議論の時にはやってはいけないことばかり。これが「ディベート思考」を唱導する正体だと思うと、ちょっと情けなくなる。こんな風に大学生がディベートを習う状況も不幸だし、それを権威ある方法だと思わされて、本を読む人はもっと不幸。私も、出版が「知的貧困ビジネス」になることが多いことは知らないわけではない。しかし、それは「ノストラダムスの大予言」ぐらいにしといてね。

少なくとも教育に関するものは、最低「ちゃんとしたレベルを教える」というコンセプトにしないと。リベラル・アーツが大事だという主張自体は悪くないのになー。その中身がこれでは残念。でも、こういう考えは、厳しい経済情勢の中で甘ちゃんすぎると言われるのかもしれない。売れるためには何でもやらなくっちゃ。うーむ、いやな世の中だなー。

2011年9月30日金曜日

安全な日本と私

3.11から六ヶ月あまり。放射能問題に終わりはなさそう。リスクとの共存という日常がゆるゆると動いている。帰国すると、その空気がベターッとまとわりつく感じだ。

そんなとき、仙台の友人からメールがあり、次のような質問があった。

吉岡殿に質問。
バリ島では以前、爆弾テロがあったのに、よく行くなあと心配+感心+なぜ?の私。
その「なぜ?」の答えは次のどれ?

①現地ではもう誰もテロのことなど覚えていない。
②テロのあったところから遠いので心配していない。
③テロ集団は壊滅した。
④テロは心配だが自分は大丈夫。
⑤テロは心配だがそれより強いバリ愛。
⑥テロは心配だが私は死を恐れていない。

選択肢まで作ってくれている。彼は高校の先生なので、テストを作るのはお手の物。ただ、私も予備校講師をやっていたけど、選択肢問題には今だに馴染めない。なぜなら、提示してある以外の答えを選べないから。問題作成者が何を答えと思っているか、に合わせなければならない。それが窮屈なのだ。

では、一つ一つ検討。

①現地ではもう誰もテロのことなど覚えていない。
正確に言えば「選択的非注意」。かつてのナチス・ドイツではユダヤ人虐殺は皆知っていたが、いつも気にしていたわけではない。虐殺には反対せず、見ないふりをしていた。テロも同じで、知ってはいるのだが知らないふり。で、いつの間にかないことになる。

②テロのあったところから遠いので心配していない。
現場までは、車で一時間半。遠いと言えば遠い。近いと言えば近い。でも秋葉原の17人殺傷事件では、事務所から電車で10分。距離を基準にして心配するなら、こちらのケースの方が切実かも。

「遠さ」は距離の問題ではない。テロの現場はクタという繁華街、日本で言えば歌舞伎町みたいな場所。私のいるところは、スバトゥという田舎。人口密度が少ないので、爆弾を破裂させたって、田んぼの稲が揺れるくらい。

テロは「どこにでも起こる」わけではない。テロリストの「好む」のは、人が沢山集まってアメリカ大衆文化に染まっている「悪場所」。私は、そういうところに足を踏み入れない。テロリストと私の「好み」は違う。意地悪い言い方をすれば、テロを怖がる人は、テロリストと同じ「好み」を共有しているのかも。

③テロ集団は壊滅した。
警察ではないので知らない。たぶん、まだどこかに潜んでいるだろう。ただ、バリ人だって、テロリストは嫌い。犯人集団は徹底的に捜索されると信じている。

④テロは心配だが自分は大丈夫。
大丈夫ではない。私は要領が悪い方だから、テロが起こったら犠牲者の方に回ること確実。

⑤テロは心配だがそれより強いバリ愛。
Jane Jacobsは「町がスラムになる原因は、そこにいる人が早く出て行きたがることだ」と言っている。住人たちが町を出て行こうと思わなければ、その地区は良くなる。自分がいるところを良くするのが人間の常だから、住人たちがい続ける街はスラムではなくなる。

テロに置き換えれば、大切なのは、その場所を見捨てないこと。テロが怖いと逃げ出すと、その術中にはまる。ここでも、怖がる人はテロリストと世界観を共有している。「人は脅せばコントロールできる」。私はそんな世界観を持っていない。

これは「勇気」ではない。むしろバランスの問題だ。綺麗な景色。静かな雰囲気。信頼できる友人たち。どれも日本では実現できない豊かさ。相対的に、テロの恐怖など背景に退く。

振り返って、仙台だって放射能の危険にさらされている。でも、友人は立ち去らないだろう。慣れた環境。信頼できる知人たち。家族と共の生活。放射能の危険は相対的に小さくなる、のではないのか?

でも、これは「愛」でもない。Jane Jacobsは“trust(信頼)”と言う。環境や人間に対する信頼。それは、自分だけの思いこみではない。相互に保証されることで、醸成される客観的なあり方だ。

⑥テロは心配だが私は死を恐れていない。
残念だが、死ぬのはめちゃくちゃ怖い。

…よく考えてみれば、日本だってテロと無縁ではない。たとえば、80年代の新宿バス放火事件。乗合バスにガソリンがまかれて火をつけられ、10人ほどが亡くなった。私は現場から徒歩5分の所にいた。さらに、90年代サリン事件はよく乗っていた地下鉄で起こった。そして秋葉原。

どれも凶悪犯罪で、テロとは言われない。しかし、グローパルな定義で、不特定多数を危険にさらすなら「テロリズム」。凶悪犯罪と呼ぶのは呼称のトリック。そういえば、仙台だって東一番町を車で疾走し、歩行者をはねとばして死亡させた事件があった。テロそのものだよね。爆弾や銃撃がないのは、そういう道具がたまたま手に入れにくいからだろう。

テロがあるのに、なぜ行き続けるのか? その答えは、そこに行き続けているからだという循環しかない。

行き続ける「信頼」の代償として、特定の危険には鈍感になる。いろいろ事件はあったけど、自分は生きている。振り返ってみれば、とりあえず安全と言うしかない。「安全な日本と私」という信憑がここに生まれる。日本に住むと日本の危険に目をつぶり、バリに行くとバリの危険に目をつぶる。そういう風にしてしか、我々はある場所にいることを選べない。悲しい生き物だね。

結局、冒頭の問いには、反問で答える他ない。

「フクシマであんな爆発があったのに、なぜ日本にいるの? バリでも十分暮らしていけるだろ?」とバリの友人たちは聞く。たしかに、よくいるなあと心配+感心+なぜ?の私。被曝の危険が大きいのに、君が日本に住み続ける理由は以下のどれか?

①現地ではもう誰も原発のことなど覚えていない。
②原発のあったところから遠いので心配していない。
③原発問題は解決した。
④原発は心配だが自分は大丈夫。
⑤原発は心配だがそれより強い祖国愛。
⑥原発は心配だが私は死を恐れていない。

なるほど、自分のことはよく見えないものだね。wwww

さて、10月からは「法科大学院 小論文 Start & Follow Up!」が始まります。国公立を受けたい人、来年受験したい人、どちらにも役立つと思います。来年受験の人は「法科大学院 適性試験 Start Up!」もどうぞ。