この間、奇妙な体験をした。私は、高校時代の友人たちと、メーリング・リスト(というか、ただのCCメールね)でいろいろ他愛のない意見を述べ合って楽しんでいたのだが、私が一人の発言をちょっと批判したところ、そいつの逆鱗に触れたらしい。「批判するなら、ちゃんと名指ししてやれ。そうでないと反論する気にもならない」と激怒のメールが来た。どうやら、病後の彼を刺激しないようにと婉曲な書き方をしたのだが、かえって悪かったようだ。
言い過ぎたかなと息を潜め、数日たってふとフェイスブックをのぞいてみたら、その人が「今やっているメーリングリストの中に馬鹿が一人紛れ込んでいて、見なきゃ良いのについ読んでむかつく」と書き込んでいる。取り巻き連から「馬鹿は死ななきゃ治らない。気にするなよ」「そうだよー、気にするなよ」と口々にいわれて「ありがとう。ようやく気が収まりました」と。
一瞬、呆気にとられた。自分が友人と思っていた人間が、こんなネガティヴな感情をため込んでいたのか。文句があるなら、反論してくればいいのに……おそらく、彼は私を友達承認していたのを忘れていたのだろう。私が見られるのを忘れて、「友達」に向かって憤懣をぶちまけ、心の平安を得た。
「なぜ、彼はこんなヘマをやったのか?」への第一の答えはこれ。しかし、もう少し深く考えると、第二の答えは、メディアをパブリック/プライヴェートという二分法で捉えていたから。メーリング・リストという議論の場では強がりつつ、フェイスブックの「友達」には陰口や愚痴を言う。まるで会社と飲み屋を往復するサラリーマンみたいに。
もちろん、SNSではこんな二分法では上手く行かない。陰口はいつのまにか公開され、相手に伝わる。純粋に私的な場所などどこにもない。むしろ、こっちでちょっと個人的事情に触れ、あっちでそれを戯画化して落ち着き、向こうでは一般化して批評したり、メディアの種類によって自分は別々に社会化される。ツイッターの時の自分と、フェイスブックの自分、メールの自分、ブログの自分は、どれもいくらかはパブリックで、いくらかはプライヴェートで、それぞれのメディアで独特のキャラに染め上げられる。二分法どころか多重人格的生活を送っているのだ。
もしかしたら、内面と外面という分け方自体が、文字とナマ、あるいはfileとliveという旧来のメディア状況に規定されていたのかもしれない。本やTVに自分の意見が出るには、何十にもスクリーニングされ、日常の自分とは似ても似つかぬものになる。だから、そこに表せない自分が内面として分離される。精神の中で初めから存在していたのではない。むしろ、媒体に載る内容と載らない内容という形式で、外面と内面という虚構が事後的に作り出されたのである。
逆に、ネット時代では、fileとliveの垣根は劇的に低くなる。スクリーニングはかからないからだ。クリックすれば、秘めたる思いだって、あっという間に電子空間を駆けめぐる。では、すべてがパブリックになるのか?それはもちろん無理。かつての表現者は、公的な手段の中に私的な思いを紛れ込ませるために絶えざる努力をしていた。その工夫がスタイルと呼ばれたのだ。でも、そんな修練にすべての人が耐えられるわけはない。私と公の混合具合を間違えて、至るところで行き過ぎや不足が生まれる。
当然、醜態があちこちでさらされる。場が荒れたり炎上したり。もしかしたら、私もどこかで醜態をさらしているかも。フェイスブックで飲み屋での会話みたいにリラックスしちゃっているのでは? いやいや、私はそんな間抜けじゃない。でも、ツイッターではどうか?ブログではどうか?あるいは著書の中では……
私がしばらくブログを書かなくなったのも、このへんの距離感がよくわからなくなったからだ。ブログの要求するパブリック度は強い。荒野で孤独な預言者が呼ばわるというか。聞いている人の反応はよく分からないから、言葉は強くなる。そもそも聞いている人がいるかどうかすら分からない。いっそう言葉を重ね、それがかえって不安にかき立て、さらに説明を重ねる。そのうちに、前に書いた言葉に引きずられて、今の自分の感じが言えなくなる。何回書き直しても、ブログがよそよそしくなる。そんなことが続いた挙げ句、書くのが辛くなってしまったのだ。
かわって力を入れだしたのが、ツイッターだ。その時思いついたことを、パッと言葉にする。格言のようになったり、ジョークになったり。それを読んだ人からコメントが来る。自分の頭の中の考えに、直接反響があったみたいで何となく快感を覚える。あえて喩えるなら、連歌などの座の文学かな。相手がどう出てくるか分からない中で、自分を変えていく。それに対する相手の返事に反応して、また言葉を紡ぐ。ゲームのような楽しさがある。
もちろん、連歌と大きく異なるのは、メンバーが固定化していないことだ。自分の言葉を投げかける相手は見知らぬ人だ。座の文学というより、市場で呼ばわる人か? それとも伝言ゲームか? 予想もできぬツッコミに応えているうちに、内容は次第にずれていく。そのずれが最初の前提を吟味し、論点を深める。たまには、嫌みや批判満載のツッコミも出てくるが、それもご愛敬か。とりあえず、言葉は個人の中に退蔵されず、人から人へとオープンに経巡る。
昔、モロッコの有名なジャマ・エル・フナ広場で、薬売りを見たことがある。目の前の木のボウルに赤・青・黄・黒など極彩色の粉末を並べ、それを混ぜながら口上を言う。マグレブ訛りのアラビア語なので一言も分からないが、見物からもツッコミが出てくる。それをいなしたり反論したりしながら、巧みに話を続ける。薬が売れるか売れないかより、このやり取りを、皆市場の雰囲気として楽しむ。公共的な議論空間とは、むしろ、こういうオープンな感覚とつながっているように思う。
それに対して、フェイスブックでは……もう止めよう。いずれにしろ、メディアが多様化することによって、自我の前提は大きく変化した。おかげで、前には隠されていたことも可視化され、メディアの狭間で人間の見え方も変わっている。ただ、分析と思弁をいくら繰り返したところで、私自身が醜態から逃れられるわけではない。それより、それぞれのメディアで実践しつつ、そこで通用する「自分」をtry & errorしながら形成していくしかないのだ。
最近、私は仕事でskypeを使うことも多くなった。New YorkやSouth Asiaと直接顔を見ながら授業をする。なかなか快適なのだが、さて、その中の「私」はどういうスタイルにとっているのか?多重メディアの中の多重自分。おそらく、今子供時代を過ごしている人々は、そんな世界を屁とも思わないで生き抜いていくのだろうけどね。
言い過ぎたかなと息を潜め、数日たってふとフェイスブックをのぞいてみたら、その人が「今やっているメーリングリストの中に馬鹿が一人紛れ込んでいて、見なきゃ良いのについ読んでむかつく」と書き込んでいる。取り巻き連から「馬鹿は死ななきゃ治らない。気にするなよ」「そうだよー、気にするなよ」と口々にいわれて「ありがとう。ようやく気が収まりました」と。
一瞬、呆気にとられた。自分が友人と思っていた人間が、こんなネガティヴな感情をため込んでいたのか。文句があるなら、反論してくればいいのに……おそらく、彼は私を友達承認していたのを忘れていたのだろう。私が見られるのを忘れて、「友達」に向かって憤懣をぶちまけ、心の平安を得た。
「なぜ、彼はこんなヘマをやったのか?」への第一の答えはこれ。しかし、もう少し深く考えると、第二の答えは、メディアをパブリック/プライヴェートという二分法で捉えていたから。メーリング・リストという議論の場では強がりつつ、フェイスブックの「友達」には陰口や愚痴を言う。まるで会社と飲み屋を往復するサラリーマンみたいに。
もちろん、SNSではこんな二分法では上手く行かない。陰口はいつのまにか公開され、相手に伝わる。純粋に私的な場所などどこにもない。むしろ、こっちでちょっと個人的事情に触れ、あっちでそれを戯画化して落ち着き、向こうでは一般化して批評したり、メディアの種類によって自分は別々に社会化される。ツイッターの時の自分と、フェイスブックの自分、メールの自分、ブログの自分は、どれもいくらかはパブリックで、いくらかはプライヴェートで、それぞれのメディアで独特のキャラに染め上げられる。二分法どころか多重人格的生活を送っているのだ。
もしかしたら、内面と外面という分け方自体が、文字とナマ、あるいはfileとliveという旧来のメディア状況に規定されていたのかもしれない。本やTVに自分の意見が出るには、何十にもスクリーニングされ、日常の自分とは似ても似つかぬものになる。だから、そこに表せない自分が内面として分離される。精神の中で初めから存在していたのではない。むしろ、媒体に載る内容と載らない内容という形式で、外面と内面という虚構が事後的に作り出されたのである。
逆に、ネット時代では、fileとliveの垣根は劇的に低くなる。スクリーニングはかからないからだ。クリックすれば、秘めたる思いだって、あっという間に電子空間を駆けめぐる。では、すべてがパブリックになるのか?それはもちろん無理。かつての表現者は、公的な手段の中に私的な思いを紛れ込ませるために絶えざる努力をしていた。その工夫がスタイルと呼ばれたのだ。でも、そんな修練にすべての人が耐えられるわけはない。私と公の混合具合を間違えて、至るところで行き過ぎや不足が生まれる。
当然、醜態があちこちでさらされる。場が荒れたり炎上したり。もしかしたら、私もどこかで醜態をさらしているかも。フェイスブックで飲み屋での会話みたいにリラックスしちゃっているのでは? いやいや、私はそんな間抜けじゃない。でも、ツイッターではどうか?ブログではどうか?あるいは著書の中では……
私がしばらくブログを書かなくなったのも、このへんの距離感がよくわからなくなったからだ。ブログの要求するパブリック度は強い。荒野で孤独な預言者が呼ばわるというか。聞いている人の反応はよく分からないから、言葉は強くなる。そもそも聞いている人がいるかどうかすら分からない。いっそう言葉を重ね、それがかえって不安にかき立て、さらに説明を重ねる。そのうちに、前に書いた言葉に引きずられて、今の自分の感じが言えなくなる。何回書き直しても、ブログがよそよそしくなる。そんなことが続いた挙げ句、書くのが辛くなってしまったのだ。
かわって力を入れだしたのが、ツイッターだ。その時思いついたことを、パッと言葉にする。格言のようになったり、ジョークになったり。それを読んだ人からコメントが来る。自分の頭の中の考えに、直接反響があったみたいで何となく快感を覚える。あえて喩えるなら、連歌などの座の文学かな。相手がどう出てくるか分からない中で、自分を変えていく。それに対する相手の返事に反応して、また言葉を紡ぐ。ゲームのような楽しさがある。
もちろん、連歌と大きく異なるのは、メンバーが固定化していないことだ。自分の言葉を投げかける相手は見知らぬ人だ。座の文学というより、市場で呼ばわる人か? それとも伝言ゲームか? 予想もできぬツッコミに応えているうちに、内容は次第にずれていく。そのずれが最初の前提を吟味し、論点を深める。たまには、嫌みや批判満載のツッコミも出てくるが、それもご愛敬か。とりあえず、言葉は個人の中に退蔵されず、人から人へとオープンに経巡る。
昔、モロッコの有名なジャマ・エル・フナ広場で、薬売りを見たことがある。目の前の木のボウルに赤・青・黄・黒など極彩色の粉末を並べ、それを混ぜながら口上を言う。マグレブ訛りのアラビア語なので一言も分からないが、見物からもツッコミが出てくる。それをいなしたり反論したりしながら、巧みに話を続ける。薬が売れるか売れないかより、このやり取りを、皆市場の雰囲気として楽しむ。公共的な議論空間とは、むしろ、こういうオープンな感覚とつながっているように思う。
それに対して、フェイスブックでは……もう止めよう。いずれにしろ、メディアが多様化することによって、自我の前提は大きく変化した。おかげで、前には隠されていたことも可視化され、メディアの狭間で人間の見え方も変わっている。ただ、分析と思弁をいくら繰り返したところで、私自身が醜態から逃れられるわけではない。それより、それぞれのメディアで実践しつつ、そこで通用する「自分」をtry & errorしながら形成していくしかないのだ。
最近、私は仕事でskypeを使うことも多くなった。New YorkやSouth Asiaと直接顔を見ながら授業をする。なかなか快適なのだが、さて、その中の「私」はどういうスタイルにとっているのか?多重メディアの中の多重自分。おそらく、今子供時代を過ごしている人々は、そんな世界を屁とも思わないで生き抜いていくのだろうけどね。